七瀬和人
である調である
どんなに好きな食べ物でも、どんなに好きな音楽でも、毎日食べていれば、毎日聴いていればいつかは飽きてしまう。 飛び上がるほど美味しい食べ物、感動するほど素敵な音楽があっても、それだけ食べていれば、それだけ聴いていれば幸せになれるかというとそうはならない。 反対にきつい仕事、大変な作業があっても、毎日のように繰り返せば少しずつ楽になってくる。何年、何十年と仕事を続けていれば、新人の頃には苦しく感じていたことでも楽にこなせるようになる。 人間に「慣れ」がなければ何度で
私たちはさまざまなことを記憶しており、その多くは言葉として記憶している。 しかし本当にその対象を理解しているといえるのだろうか。例えば誰もが「水」という言葉を知っている。だがその意味を正確に説明できるだろうか。 「透明な液体」だろうか。 「H2O」だろうか。 「水道から出る液体」だろうか。 だとすると、 透明な液体はすべて水なのだろうか。 H2O以外の元素を含んでいたら、 それは水ではないのだろうか。 塩素を含んでいても、 それは水なのだろうか。
私たち意識は本能的な感覚や感情よりも優位に存在しており、それらを制御する役割を担っている。 本能的な感覚や感情を制御するために私たちが使っているのは「記憶」である。幼い子供であれば、悪いことをすれば教育やしつけとして親や先生から怒られる経験をする。 そうした経験を積むことで、再度悪いことをしたいと思ったときに、怒られたときの記憶が想起されて我慢できるようになる。 逆に褒められたときも同様である。良いことをすれば親や先生から褒められる経験をし、そうした経験を積むこ
私たちは人間の脳であり意識である。「私」という人間全体ではないし、脳全体というわけでもない。 私たち意識は「私」という人間の主要な意思決定を任されている。私たちが考え、判断した行動を「私」という人間に取らせることができる。 だが「私」という人間の行動すべてを担っているわけではない。心臓は勝手に動いているし、怪我をしたら身体は勝手に修復される。そもそも私たちが認識している感覚は私たち意識が自分でつくり出したものではない。 お腹が空けば空腹感におそわれるし、身体が疲
不思議のダンジョンシリーズのゲームをご存知だろうか。トルネコや風来のシレン、ポケモン不思議のダンジョンなどのローグライクゲームである。 ※トルネコはアマゾンだと中古しかない これらのゲームはダンジョンが毎回変わるという特徴がある。ダンジョンに潜るとマップが表示されるが、行ったことのある場所しかマップとして表示されない。 高難易度のダンジョンになると視界も限られ、どこに何があるのか、どこに敵がいるのかもわからない。オートセーブシステムになっていてやり直しができないう
文章を書くうえで、物事を考えるうえで、「私たち」という単語が出てくるが、それは何を意味しているのだろうか。 現実的に考えれば私たちは人間である。だがこうやって文章を書いたり、物事を考えたりしているのは、「私」という人間全体ではない。 これも現実的に考えれば、それは「私」という人間の脳が行っている。だが脳にもさまざまな機能があるようで、脳幹は生命維持に関わる信号を自動的に出しているらしいし、非常に熱いものを手で触ったら瞬時に手を引く反射の動きをする。 また文章を読
プラトンの「洞窟の比喩」とは、洞窟に閉じ込められて生きている人は、その洞窟の中での経験が世界のすべてだと認識するという比喩。洞窟の中で動物の影だけを見てきた人は、それが影であるという認識がなく影を動物の実体だと思い込んでいるという話。 これは洞窟に住んでいる人は現実を知らなくてかわいそうという話ではなく、私たち人間はすべて、世界の実体を認識しているわけではないという話。 たとえば視覚情報。私たちは毎日さまざまなものを見ているが、それは光の反射を認識しているだけであっ
以前に話題になっていたベストセラー本。最近になって読み、おもしろかったので感想を書いてみる。 著者は極貧地域での医療に従事したことのある医者。公衆衛生について学んだ後、世の中の知識不足を憂い、その解消のための取り組みに息子とその妻とともに従事するようになる。 本の内容はまずいくつかの質問から始まる。例えば以下のようなもの。 このような質問が13個続く。そしてこの本の主題は、世界中の人々の正答率がチンパンジー以下の結果になったという事実である。 チンパンジーは
noteって探すと結構おもしろい記事が見つかる。サイトのつくり上埋もれてしまいがちだけど、頑張って探せば良い記事に出会える。宝探し感あってちょっとワクワクする。
AIの進歩が目覚ましい。将棋の藤井聡太七冠はAIを駆使することで将棋界のトップに登り詰めたと言われているし、そもそももう人間は将棋でAIに勝てないと言われている。 ChatGPTの能力も凄まじく、プログラミングができない人でもChatGPTに日本語でお願いするだけで代わりにプログラムを書いてくれる。その上プログラムの内容を日本語で説明してくれる。 イラストの生成AIについても言わずもがなであり、もはや手書きで書いたのかAIが書いたのか見分けがつかないレベルにまできて
人は未来のために考えている。 嫌なことがあった日も良いことがあった日も、私たちはさまざまなことを考えている。「今日はこんな失敗をしてしまった」と落ち込みながら思い返したり、「今日はこんな良いことがあった」と良い気分で思い返したりしている。 人によっては「考えている」というより「思い返している」だけだと思うかもしれないが、それは未来のための行動なのである。 どんなに嫌な記憶を思い返したところでその事実は変えられない。どんなに良い記憶を思い返したところで、その記憶に
100%の正しさは証明できない。絶対的な考えがあるとすれば、それは人間が勝手に100%正しいとした前提に基づいている。 演繹法でどんなに正しい考えを積み上げたとしても、その根底にあるのは帰納的な理解であり、未知の反例の存在を否定できない。 また時間とともに人を取り巻く環境、状態は変わっていく。自分自身の考えが昔と変わっているかもしれないし、学生から社会人への変化、家族の変化、世の中の法律や条例の変化など、毎日のように状況は変化していく。 さまざまな前提は変わって
人間の物事に対する「理解」は演繹法と帰納法による理解であり、突き詰めて考えればどちらも帰納的な理解でしかない。科学的に厳密に検証されたものであっても、それはできる限りの確からしさを追求しているだけであって、100%の正しさを証明しているわけではない。 学校で教わった学問であっても、権威のある教授から教わったことであっても、十分に検証された論文の内容であっても、それが絶対的に正しいとは言い切れない。 私たちの記憶も現在の経験も、記憶はすべて改竄されたものかもしれないし
演繹法とは大雑把にいえば、「AならばB」、「BならばC」という考えから「AならばC」という考えを構築することである。「AならばB」という情報と、「BならばC」という別々の情報を組み合わせることによって「AならばC」という新しい情報を得ることができる。 一般的にいわれる「考える」という行動は演繹法による思考方法である。経験とともに理解したさまざまな情報を組み合わせて考えることで、何らかの判断をしている。学校で教わった知識、家族から教わった知識、インターネットで調べた知識な
私たちの「考える」という行動は、常に何らかの前提にたっている。明日自分が死んでしまうわけではないし、明日が今日と大きく異なる世界になっているわけでもない。1+1=2のような、多くの「当たり前」が前提となっている。 私たちが考えるとき、それは漫画のモノローグのように内面で行われる。だからこそ、誰かが何を考えているのか直接見ることはできない。自分自身にしか見えないものを前提にして何らかの判断をしている。 それは1+1=2のような、幼い頃からの「記憶」である。あなたがこの
「考える」とは未来を明るくするための行動である。何らかの情報をもとにして何らかの判断をする。では「何らかの情報」とは何なのか。 例えば算数の問題であれば、まずは足し算や引き算を勉強する。1+1=2であり、1−1=0である。なぜそうなのかはよくわからないが、そういうものとして教えられる。そもそも「1」が「イチ」と発音するものであること、「0」が「ゼロ」と発音するものであることをそれ以前に教わることになる。そうした勉強を繰り返していくことによって、段々と難しい数学の問題も解