ある夜

俺はその夜、途方に暮れていた。場所は自宅のリビング。ソファに座りながら、木っ端みじんに、はじけたように壊れた窓を睨んでた。
 正確には、窓自体の事はそこまで気にはとめていなかった。床に転がるのは、ピエロ姿の男。右手に包丁、左手には時計。どちらにも血痕があり、彼の胸元は赤く染め上げられている。
 ほんの数分前のことだ。寝支度を済ませ、寝室の扉を開けようとした。だが、ふと窓の外から聞こえる怒声が気になり、何とはなしに窓の方を見つめた。二人の男の声。因縁をつけ合った末の乱闘なのかは分からないが、微かにゴミ箱の倒れる音もしたので、余程激しいものらしかった。
「暇つぶしにちょうど良いかもしれない」
そう思い、ベランダから乱闘の様子を見てみようと窓の方へ近づいた。その時だった。男の声が、近づいている。階下まで移動したのかと一瞬考えた。しかし、数コンマでその考えは吹き消された。男の声は、ドップラー効果よろしくに近づいている。

もう、すぐ、 そ、 こ、ま、  で
 
瞬間

窓は無残に砕け散った。
 そして、今に至るというわけだ。階下にいるであろうもう一人の男は、すぐに確認しようとベランダから見下ろした。が、誰も居らず街灯に照らされたゴミ袋の山が見えるだけだった。
 今はソファから、このどうしようも無く奇妙な光景を観察することしか出来ていない。警察を呼ぶべき事態だろう。だが、これからゆっくり眠ろうと平穏な心持でいたところに、こんな未曾有であり得ない事が目の前で降りかかれば、まともに考えることもできなくなる。睡眠をしようという気にも当然なれない。いっそこの現実から逃避するのもひとつの手ではあるかも知れないが、さすがにその手をとれるほど俺に冒険者気質はない。
 ピエロの男の心臓は止まっていた。医学的知識はない。そんな俺でも分かるほどに、男は死にきっていた。瞳孔も開いているようで、目の色は灰色に濁っている。身体から体温も無くなりきっている。
「どういうことなのか」
 最大の疑問と、今俺がしているのは男はどうやって窓に吸い込まれるように僕の部屋へと侵入してきたのか。ここは五階。地上よりは十五メートルの場所にある。消えたもう一人の男を不意に考えはしたが、それは有り得はしない事だ。だが、ピエロ男が現に有り得はしない侵入の仕方を成功している。無いとは言えない。
 もう少し考えてみても良かったが、証人は誰もいない。ああじゃないかこうでもないと推論を並べても、何も答えは得られない。これは意味の無い事だ。
「やはり警察を呼ぶしか無いか」
そうなると今日はもう寝れやしないだろうが、腐りきった死体の臭いに起こされるよりかはマシだ。俺は寝室に置いてあるスマホを取りに行った。サイドテーブルのスマホを手に取り、110番をダイヤルし、掛けようと、その瞬間だった。
 居間から物音がする。一抹の予感、そして不安が脳裏をよぎる。有り得もしない事態というのは、死ぬまでに数度必ず起こるものだと何かで見たか聞いたか。俺はひょっとすると、今日死ぬのかも知れない。
 身体が冷め切り、見るからに命潰えた筈のピエロ男はソファに座っていた。片手に持っていた包丁と時計は、ご丁寧に机に並べ置いている。
 男は俺の姿を視界に捉えたかと思うと、威勢良く手を振り陽気な声色で
「いよう、今宵は良い夜だね」
 なんと返せば良いのか。というか、こんなまるで頓知気な状況をどう飲み込めば良いのか。
 とりあえず、俺は黙っピエロ男の面と向かう位置に座り、安ワインを注いだ。もうこうなったら、とことんおかしくなってしまえば良い。おかしな状況にはおかしさで迎合してしまえ。
「いやあ、ありがとう。突然部屋に押しかけたのに、ご馳走になっちまって」
「…いやあ、なに。久方ぶりの来客だから。」
 我ながらにたどたどしい話し方だが、精一杯の装いだ。ピエロ男はこれまた威勢良くワインを飲み干した。
 (さあて、どうしようか。まず何を聞くか。)
死に証人が生き証人になった。事件解決の上で、これほどお手軽なものは無いだろう。あり得べからざる今を俺はしかと見る心構えは、既に笑うピエロ男を見た瞬間に出来上がった。
「あんた、どうやって俺の部屋に飛び込んできたんだ」
「やはり聞くと思ったよ。きっとおまえさんは、もう一人の声の主についても聞きたいはずだ。」
話が早いどころじゃない。理解が迅速過ぎる。きっとテレパシー能力があるに違いない。
 ピエロは不適に笑い、
「さあてどうかね?」
と言った。
「あ、いけね、口に出ちゃった。クッハハハ、あんたすごい顔してるよ」
驚きが顔に出ていたんだろう。たいそうマヌケな顔をしたんだな、きっと。
「何となくあんた察してるんだろう。俺は人の枠の外にいる、何かなんじゃ無いかって。半分正解だよ。」
含みを持たせて、ワインをまた一息に飲み干した。
「もう半分は?」
「もう半分は、俺は確かな人間だ。」
「曖昧だ。人間の枠の外にはいて、でも人間。意味が分からん」
「それでなんとか折り合いつけてくれ。俺も説明できねぇんだ」
 ピエロ男は、少し寂しそうな顔をした。可哀想な気がしたので、その質問はそこまでにした。
「それはそれでまあ良い。良いことにする。じゃあ聞かせてくれ。さっきの質問の答えを」
「俺はな、アイツの言いなりになるのを止めたんだ。そしたらアイツは面白くなくなったんだろうな。いきなり俺につっかかてきた。急に胸ぐらを捕まれて、罵詈雑言浴びせられたよ。ムカッときて、俺も堪らず言い返した。するとだ。いきなり目の前がグラついた。世界が逆さまになった。そして気づいたら、俺はアンタの部屋に飛び込んじまってた。」
 話は何も飲み込めないままだが、とりあえず思いついた質問を出してみることにした、
「それは…その……もう一人の男に投げ飛ばされたってことなのか。仰向けにされて、背負い投げで」
「さあてね。何せ記憶が曖昧なもんで」
 参った。せっかくの生き証人だのに、これじゃ次に気になっている問いにもマシな解答は得れそうに無さそうだ。
 「お前はさっきまで死んでたはずだぞ。俺は念入りに確かめたんだ。お前は、身体から体温は無くなりきって、瞳孔も開いてた。なのに、なんで今はそんなピンピンと…」
 「言っただろう。俺は人の枠から外れた者だって」
 予想通りの答えだった。最早、この談義にも意味は生まれそうに無い。こいつはもうこのまま警察にでも引き渡して事なきを得る事にしよう。家に無理矢理侵入してきた変人とでも言えば、すんなり拘束してくれるだろう。何はともあれ、もう眠くて堪らん。
 「じゃあ少し夜の散歩にでも行こう。夜風に当たりたくなった」
適当に嘘を吐いた。とりあえず何食わぬ顔をしつつ、こいつを交番まで連行しなくては。
 だが、ピエロはその提案に乗っかっては来なかった。気づくとピエロの表情はさっきまでの陽気な笑顔は片鱗も無く、真剣なものになっている。そしてその声色、トーンも静かで重たげなものだった。
 「いや、俺はもう外には行かねえ。ところで、その男はアンタのダチかい?」
 ピエロは、タンスの上に飾られた記念写真の内の一枚を指さした。顔が強張るのに自覚は無かった。俺は、その一枚を手に取る。
「俺の弟だ。去年死んだ。」
 馬鹿正直に答えてしまったことに、若干の後悔と強い違和感を感じる。誤魔化すことだって、こいつの質問を無視することも出来たのに。そこにはやはり、枠に囚われない人外の力が働いているようだった。
「死んだ?なぜ?」
 ピエロの表情は真剣な表情から、沈痛なものになっている。
「事故で死んだ。登山中に土砂崩れに遭って…」
「そうか。その場に居れば、アンタ、自分の身を捨ててでも助けたかったろうな」
「いや、俺は…」
 口は止まらなかった。この先には、何かドス黒いものが、破滅が待っているような、そんな幻のような不思議な不安を感じているのに、口は止まらなかった。
「居たんだ。アイツと一緒に計画して、赴いた登山だった」
 ピエロの表情は、最早怒りのものに変貌している。どうして、なぜお前がそんなに怒る。
「アンタはその時、どう思ったんだ。弟を目の前で失って。何を感じた?」
鋭い、刃物のような、貫くこいつの眼光に充てられてしまっている。そう直感した。洗いざらい、俺は喋ってしまうのだ。生涯、誰にも話さない筈の、あの事を。俺は、口を開いた。

「清々したよ。憎かったアイツを、殺したかったアイツを、代わりに山が殺してくれた。やっと解放されたと。狂ったように笑って喜んだのを憶えてる。」
 ピエロのように、高らかに笑ったのを憶えている。
 ピエロはゆらりと立ち上がる。およそ生気の感じられない存在感を放っている。
「なぜ、憎かったの?」
「アイツは、俺をいつも馬鹿にしてたんだ」
「それは分からない。愛してたかも知れないのに。」
ピエロは、にじり寄る。右手に血のついた包丁、いや、ナイフを持って。そういえばそのナイフは、俺が持って行ったサバイバルナイフに見えた。
「きっとわかり合えたはずだ。俺たちは兄弟だったんだから。」
「…分かり合えるはずもない。兄弟でも他人だ。分かり合える筈が…」
「…分かったよ」
 血みどろの時計は、弟の持って行ったものに似ていた。その時刻は、あの時を指しているようにも見えた。
 ピエロは泣いていた。ピエロは泣きながら、嗚咽しながら、切り裂いていく。俺はただ見ていた。あの時と同じように、俺たちは中途半端に終わっていく。薄れる視界の先で、俺は悟るように思った。

 あの時、俺は、お前を殺しきれなかったんだな…

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