社長と天使の傘 町子さんと小太郎
「傘は雨降りの、それも家の中にいては見失いそうな小雨降る日に買わなければならないという条例が出たって知ってましたか?」
大山たけこが、そんなことを言ったのは、さんさんと太陽が降り注いでいるかというとそれは成層圏あたりまでで地上はぜんぜん曇っている木曜日朝一番のお茶時間のことだった。
「なにそれ、俺そんなの知らないけど」
最近、早足で歩く人々の合間を猛烈にゆっくり歩くことで、逆に誰にも絶対にぶつからない技を生み出したという松岡が、限りなく薄そうなルイボスティーを飲み干した。
「えー、知らないんですか」
たけこがくねくねしているのを横目に、私は威厳を持ってデスクのお菓子引き出しを開けたのだが、お菓子大好きなはずの皆の眼は無関心。というのも、その瞬間、めったに喋らないことで有名な社長がいきなり語りだしたからだ。
「大山さんの言う条例には困ったもの。なかなかそういう日がやってこないので難儀をしていたのは私も皆さまも同じこと、しかし今朝ようやく小雨が降ったの で、傘をささずに歩いてスーパーマーケットまで傘を買い求めに行ったのです」
社長ひとりが私の引き出しから菓子を取り出すと、せんべいとチョコレートを同時に口に入れながら、まったく咀嚼音もたてずに語りだした。
なんせ、先週の大雨の日には一歩も外に出られず、米が切れていたのでしかたなく小麦粉に塩と水を入れて焼いてしのいだんです。これでようやく傘が買えると喜び勇んで傘店に行くと、売り場に足の長い男がひとり立っていて、私の姿を認めると、ポケットに入れた赤いチーフをくいくいといじりながら近づいてきました。
「あなたなら花柄がいいでしょう」
と、男は言いました。
「そんなのごめんですよ。花に水をやれ、とでもいいたいのかもしれないが、私は花や木を育てられません」
「ならば、こちらはいかかですか」
次に男が持ってきたのは、天使が飛んでいる傘でした。
「ばかばかしい。天使に雨を当てろというのですか。いえ、考えようによってはそれもおもしろいかもしれないですね。天使はいつも晴れたところばかりにいる。なにせ、雲の上を飛んでいるわけだからたまには雨に打たれるのも」
天使の傘を買った私は、パン屋でクロワッサンを三つ買い、そのうちのひとつをパン屋の喫茶コーナーでコーヒーと一緒に食べ、焼き鳥を五本買って天使に水浴びさせながら家に帰ろうとしたんですよ。
「そうしたら、空がすっかり晴れていたんですね?」
途中で大山たけこが口を挟んだ。たしか条例では、傘を買った日は雨がやんだら家に帰ってはいけない、安眠できない場所で眠らなければいけないと町子さんが言っていた。
「違います」
と、社長。
「天使が雨を飲み干して、飛んでったんだ」
松岡がもはや白湯みたいな色のルイボスティーをおかわりした。社長は話し疲れたと見えて、ただ首を横に振ると私のほうを見た。私にも傘の話を要求しているのか?それとももっと菓子をよこせ、ということか?
「天使が小太りなのは、なぜなんでしょうね?」
めんどうになった私はそんなことを言うと、もう一つの引き出しからとっておきの菓子も取り出した。すると皆が黙って、私の菓子に注目した。一時間後、すべての菓子がなくなり仕事はお開きになった。
本当のことを言うと、あの大雨のあとはずっと晴れ曇りが続いていて、雨なんか降っていないのだ。社長は条例違反と知りながら、もぐりの傘屋に行って天使の傘を売りつけられたのだろう。さっき私は、社長の胸ポケットでもそもそ動くものを見てしまった。せんべいとチョコを食べたのも、ポケットに入っていた天使に違いない。
そうでなければ、とっておきの菓子なんか差し出すものか。
社長は無事あめ色羊羹を食べ、すっかり無口になった。
窓の外に雨が降り出し、天使が傘に戻っていった。
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