あれは空白
その日は、久しぶりの飲みで終電に乗り遅れて、線路ぎわをひとりで歩いていた。
三台並んだ自販機の真ん中の一台の前に、あれがいた。
人からさんざん話を聞かされていたので、初めてという気はしなかった。
会社の人は、溶けそうなこんにゃくみたいだったと言ったし、ともだちは甘さの抜けた板チョコみたいとよくわからない比喩を使った。
ほかにも、いろいろある。
プランクトン、濡れたダンボール、巨大マウス(パソコンの)、巨大鼠、箪笥。見た人でぜんぜん違うことを言うけど、とにかくあれを見ればひと目であれだとわかるらしい。
こうして目の前にしてみると、たしかにあれはあれでしかないな。
あたしの場合、あれは空白だった。そこだけが切り抜きになった空白。鋏とかで切ったんじゃなくて、無理矢理に引きちぎったみたいな。
あたしは空白の中に手を入れみた。すると何かが身をよじって奥の方に引っ込んだような感じがした。
なんだよ。あたしはむっとした。あれに会ったらずっと優しくしてやるつもりでいたのに。
そのときあたしのうしろで、ちょっとそこの人、って誰かが言った。
誰もいないと思っていたからびっくりして振り返ると、電柱のかげに女の人が腰をかがめていた。
「なんですか」
「あれはね、人の匂いがついたらだめなのよ」
とその人は言った。髪の毛がものすごく短くて、でかい黒縁メガネをかけている。
「かがんで」
「は?」
「あれを落ち着かせたいから、早くかがんで」
何を根拠に?と思ったけど、ともかく従う。かがんですり足で、その人のところに行く。「あれの扱いに慣れてるんですね」
「まあね」
そのまま二人してすり足であれに近づく。
ところで、さっきから「あれ」の使い方が間違っていると思ったでしょ。
でも、「あれ」に対してはどんなに距離が近くなっても、あれ、という言い方をしなきゃならないのだ。絶対に、これとかそれとか言っちゃいけない。そうじゃないと、あれとの距離はあなたに異様に近くになってしまう。ま、それでどうなるのかは知らないけど。
「動かないですね」とあたしは言った。
「びっくりさせたからだよ」
「はあ…すみません」
「べつにあやまらなくてもいいけどさ。あ、あたしの名前はやなぎっていうんだけど家はすぐそこなの。あれがどうなるかうちから見といてやるから、あんたは家に帰りな」
と言って、やなぎさんはすぐそばの白い家をゆびさした。それであたしは遠回りをして家に帰った。少し寝て、昼頃にそこに行ってみたら、あれはもういなくなっていた。
駅前の花屋も進学塾も佃煮屋もみんなシャッターが下りている。ここのところずっとそうだ。
この町はもうだめなのだろう。
緑の葉が夜風にめんどくさそうに揺れている。横道からこげ茶色の太った生き物が出てきて、クリーニング屋とアパートの隙間に入っていった。最近は猫以外の獣も跋扈しているらしいが、それがなんなのかはわからない。家のなかに入ってきて、食料をあさられたという人もいる。
「なんか暗いねえ」
線路下の石塀をぺしぺしとたたきながらやなぎさんが言う。あれからあたしたちは仲良くなったのだ。
この前、一緒に飲んだともだちは死んだ。あとはもう、北にいるやつらしか残っていない。あの辺りはまだ無事らしいが、便りは何もない。あちこちの電話線が獣に切られて、携帯も駄目になったからだ。
「いつもこんな感じだよ」
そう、もうずっと暗い。
やなぎさんの、白い家が見えてきた。あたしたちの前を歩いていた男の人が、その家のまえで立ち止まった。二階の窓を見てから急に早足になって角を曲がった。そのあと、歌っている声が聞こえた。
やなぎさんが、眉間に皺を寄せる。
「あの男、あれだよ」
「え、だって人間じゃん」
どう見ても、普通のおっさんだったが。
「だから、元・あれなの」
「元って、そんなのあるの」
「あるよ。あれから人間になるやつがいるのさ」
あたしたちは、やなぎさんの家に残っていた酒を飲んだ。つまみは塩しかない。腹が減っているから、すごく酔っぱらう。やなぎさんが、話し始める。
さいきん二階に人がいるような気配がするんだよね。音がしたとかそういうんじゃないけど。ほら、なんかうしろに人がいるような気がすることってあるでしょ。あんなかんじ。それで二階に行くと寝室のドアがちょっと開いてて、その隙間から白い靴下をはいてる足が見えたんだよね。
「見間違えだよ」
「ちがうよ。あれ、昔の男だと思う」
「昔の男?やなぎさんにそんなのいたんだ」
あたしのからかいを無視して、やなぎさんは真剣だ。
「あれ、あたしの家に死にに来たんだと思うよ。たぶん女に捨てられて…」
「声とかかけたの」
「ううん。それから二階に行ってないもん」
「じゃあ、今から確かめる?」
「いや、階段がもうだめなんだ」
「だめって」
「潰しちゃったの、あいつの死んだ姿見たくないから」
「げ」
やなぎさん、案外粘着質なんだな。もっとあっさりした人だと思ってたからつきあってたのに。あたしはなんだかだるくなってきた。
「そろそろ帰るね」
「どこにさ」
「は?なに言ってるの?あたしのうちだよ」
あたしが切れ気味に答えたら、やなぎさんはものすごく変な顔をした。
「あんたの家、ないじゃん」
「え」
「潰れたでしょ」
「あ、そうだった…」
「だからうちに来たくせにな…都合の悪いことはみんな忘れるようになったよな。もうみんなほとんど何も覚えてないもんな」
「ごめん」
「風呂、入りな」
「ありがと」
「湯が沸いたら、メロディが流れっから」
そのメロディらしきものを口ずさみながら、やなぎさんは出て行った。
メロディが流れている。やなぎさんの歌とはだいぶ違う。するすると服を脱ぐ。風呂場の床はひんやりして、風呂桶には湯があふれるほど張ってある。よくこんなにたくさんのお湯を用意できたなあ。
風呂なんて、もうひと月は入っていなかった。石鹸がないから、指で体をごしごし洗って湯に入った。やなぎさんはなかなか帰ってこない。のぼせてきたので窓を開ける。そしたらそこに、顔があった。男。いつかこの家を見てた男かな。それとも、やなぎさんの男かな。
男がにゅう、と手を伸ばしてあたしの手をつかむとそれをたぐるようにして風呂に入ってきた。風呂の水が真黒になった。
「きたないなあ」
あたしは風呂の栓を抜いた。すると、ごぼごぼ、と音がして男はひゅっと風呂場の穴に消えた。
しまった、風呂の水がなくなってしまった。でも、仕方がないか。身体を拭いて、服を着る。
やなぎさんがいない。そのかわり、さっきの男が座っている。
「いいお湯だった?」
男は澄ました顔でなけなしの酒を飲んでいる。
「ちょっと、トイレに行ってきます」
トイレに行かずに家から出た。そのつもりだったけど、また家にいる。ドアが開いていて、部屋の真ん中に誰かが寝転がっている。
それは小学校にあがるかあがらないかくらいの女の子で、カーテンから月明かりが差し込んで女の子の腹に白い線を落していた。黒髪を二つに結って前髪をピンでとめている。眉根を寄せて、ううんとうなって目を開けた。誰かにすごく似ていた。あたしはすごくいやな感じがしてきたが、階段がつぶれていて降りられない。
もうひとつのドアを開けると、男が塩を舐めていたから、トイレに逃げ込んだ。トイレのコックをひねってざあざあと水を流した。男と二階の女の子がそれでいなくなるかというように、ざあざあと水は流れた。
「ちょっと」
水の音を破って、やなぎさんの声がドアの向こうに聞こえた。やなぎさんの声だったけれど、声だけのもので。
「どうしたの、だいじょうぶ」
声は繰り返している。
水の音がやみ、声もやむ。そっとトイレを開ける。誰もいない。どこからか、にゅうっと手が伸びてきた。懐かしい手だ。急に涙が出て、あたしは泣きに泣いた。もうすぐあたしは終わるんだ。あたしたちが終わったら、あれはどうなるんだろう。あたしはあれに優しくする予定だったのに。
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