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三階の部屋

「三階の部屋」

 会社の使いに出されたさきで、いつも見かける三階建てのビルがある。
 左右を高層ビルにはさまれた、東京でよく見かけるタイプの細くて小さな建物だ。
 屋上には老舗のせんべい会社の看板 がかかっており、一階と二階は、どこかの会社のオフィスに使われているようだ。奥の方にスチールラックがあって、そこにはぶあついファイルや段ボール箱が置いてある。彼女は一度、パソコンをのせたデスクに座っている人を見かけたことがあった。
 
 ビルの横から会社の名前のついた出っ張りが出ているから、検索すればすぐにわかりそうだけれども、あとで調べようと思って会社に戻ると、すっかり忘れている。

 使いに出されることが多い会社だった。
 会社と言っても、社員五人アルバイト二人しかいないのだが。使いに出したがる社長は、パーマなのか天然なのか寝癖なのか、毎朝違うかたちの髪型で出勤してくる。
「今朝の髪の毛は、くせ毛ですね」
「ちがうよ、あれは美容院に行ったんだ」
「あれが?」
 と、昼になるとみんなで噂をする。
 
「右島さん」
 午後二時になって、すこしパーマがゆるんできた社長が彼女の名前を呼んだ。
「キウイを届けてほしいんだけど」
 社長はさいきん果物に凝っている。昼ご飯はタッパーにつまったスイカといちごだった。凝り始めると、得意先に届けずにはいられないらしい。

 ベランダに物干し竿がかかっている三階だけが居住用なのではないかと彼女はずっと思っているが、いままで洗濯物が吊るされているところを見たことは一度もない。手すりから観葉植物らしき尖った緑の葉がのぞいていたことがあったが、それも次に見たときにはなくなって、いつもカーテンが引かれている窓だ。

 歩道橋の真ん中に立った彼女は、街路を走るタクシーと、横断歩道の上を動く自転車や歩行者を眺めている。ビル郡の合間を落ちる日が赤っぽくなり、吹き抜ける風もこころなしか強くなって、ふいに自分が高所恐怖症だったことを思い出し、彼女は寄りかかっていた欄干からゆっくり身を引いて、階段を降りた。

 彼女はずっと昔、高速道路の見える部屋に一人で暮らす若い男の物語を読んだことがあった。

 内容はほとんど忘れてしまったが、なぜか物語に出てきた主人公の部屋だけは覚えている。狭いワンルームで、バス・トイレ別のバスタブはなし、キッチンには渦巻きタイプの一口電気コンロがあった。ラジオ体操をして手を伸ばしたら、中指の先がつっかえるのではないかと思うくらい天井が低い。家賃は安そうだが、過ごしやすいとは言えないだろう。それでも、小さなベランダに出て窓から高速道路を見下ろせば、体が浮かんでいるような感覚があってその奇妙なバランスが孤独な自分の精神をぎりぎりで保っている、と主人公の男は感じていた。

「それはないよ」
 彼女の話を聞いて、経理の大崎さんは大きく頷いた。否定するときに頷くのが大崎さんの癖なのだ。
「どういうことですか?」
「ベランダから首都高が見下ろせるんでしょ。それって、大企業のビルとかホテルとか、金持ちの住むマンションじゃない?」
 言われてみればそうかもしれない。彼女はずっと、小説の部屋が実際に存在していると思っていた。
「とすると、あれは作者の妄想なんですね」
 
 それからだ。彼女が自分が死んだあとに住むならあのビルの三階にしようと思うようになったのは。
 
 死んでから住む部屋に家賃の心配はなくて、タワーマンションの最上階だろうと、なんだろうと好きに選べる。なんなら遠くの国に住んでもいいし、もはや人間ではないのだから木のうろとか宇宙とかシャボン玉の中だっていいのだが、小説の彼みたいに漂白して生きているというか、死んだらそんなふうに生きたいと思うからやはりあの部屋がいい。いや、死んでいるのだが、ともかくあの三階の部屋には彼女にそう思わせる何かがあるらしい。

 歩いていると、空から水が振ってきて彼女の白い半袖ブラウスの肩を濡らした。今日の降水確率は10パーセントだったはずなのにと思っていると、あらごめんなさい、という呑気な声が頭上から聞こえた。見上げると、おうどいろの壁に囲まれた高台の家の庭先に、手にシャワーホースを持って大きな白い帽子を被った女がいる。ごめんなさいのなかに、ちっともごめんなさいが滲んでいなかったように思えて、何も言わずに歩き出すと、背後からなにか怒ったような声がした。

 早足になる。声がだんだんと小さくなった。ほっとしていたら、今朝見た夢を思い出した。
 夢の中で彼女は飛行機に乗っている。なぜか座席は電車のように横一列で、とても窮屈だ。向かいにも同じように横一列の座席があって、ちょうど彼女の真向かいに座っていた男の人が、「これでもまだいいほうだよ。もっとひどい飛行機だと、水の中を泳ぎ続けないといけないんだからね」と、こちらの心の中を見透かしたようなことを言った。
「眠たくなったらどうするんですか」
「五秒だけ眠ってすぐに目を覚まして、すぐに息を吸うんだ」
 水の中でどうやって息を吸うのだろうと思いながら大きく息を吸ったところで、目が覚めた。

 最寄り駅についた彼女は、鞄の中からはがきを取り出した。出掛けにのぞいたポストに一枚入っていたのを、そのまま入れてきたのだ。社長からの暑中見舞いだった。郵便局指定のものではないし、大きく入道雲の写真がプリントされて文言もないはがきを暑中見舞いと言えるかどうかわからないけれど、社長はなぜか夏になるといつもそういう頼りをくれた。
 入道雲の形をじっくり見てからまた鞄にしまう。耳にイヤホンをしてどこの誰だかよくわからない人が話している動画に耳を委ね、やってきた電車に乗り込む。

 電車に乗った途端に喉が乾いてきた。目的の駅までの乗車時間は53分もあるのに。
 あいにく、空いている席はない。川が見えて、橋の合間から光が飛び出て彼女の目玉をさした。喉の乾きが耐え難い。冷たい水ではなくて、なぜか温かいミルクティーが飲みたい。
 バッグから暑中見舞いを取り出して眺めようか。人が多すぎて、うっかりつり革を離したら簡単に奪われそうだ。しかもさっきから激しく揺れる。喉は乾くし眩しくて意識が朦朧としてきた。なにか気の紛れることを考えなければ。
 三階の部屋。カーテンが引かれている。窓辺に猫がいる。鳥もいる。なぜか、部屋の中に入道雲が出ている。猫を撫でる手が伸びてくる。その手が彼女のすぐそばまで伸びて、シャツに手をかける。
 あっ。
 電車が大きく揺れて、気がつくと、前の座席にいた人の膝のうえに座ってしまっていた。
「す、すいません」
 彼女は飛び退くと、体を回転させて座ってしまった人に向き直り、頭を下げた。
「いえ、いいんです…」
 同じ年くらいの、真ん中でわけた髪の毛を肩のところで外巻きにカールさせた女の人が、手を小さく横に振りながら言った。耳にイヤホンが刺さったままだったので、たぶんそう言ったと思う。イヤホンを外してあらためてあやまった。
「ほんとうに、よいんです…」
 人って、こういうときは案外怒らない。彼女はもちろんのこと、座られたカールの彼女も、けっこう恥ずかしかったのだ。

 できれば隣の車両に移動したかったが、それは無理だ。とても動けない。
 恥ずかしさが癒えてくると、また喉の乾きが復活してきた。彼女は頭の中に、アンティークカップを満たしている温かい紅茶を想像する。想像のミルクが注がれる。イギリスでは温めたミルクの匂いが紅茶の邪魔をするので冷たいままのほうがいいのだと強力に主張する派と、いえいえ温めるべきだという派にわかれているという。彼女はミルクを冷たいまま入れることにした。そのほうが楽だから。おかげでミルクティーはちょうどいい温度だ。一息に飲み干す。不思議なことに、想像のミルクティーを飲み干すと、喉の乾きもしずまった。
 目的の駅に着き、電車を降りると彼女はホームに立って車両を見送った。カールの彼女がほんの少しこちらを見ているような気がした。

 それから彼女は古書店の並ぶ通りに着き、店頭をのぞきながらぶらぶらと進んでいく。店のなかは狭くて人がすれ違うことができない。ガラスの中を覗き込んで誰もいない店を見つけたので、そっと入っていき、背表紙を目で舐めていくと既視感のあるものが目に入った。なんだろう、と思って立ち止まる。短編集。オムニバス。古臭い書体の題名は「高」の一文字。

 そうだ。あの小説はこの本に入っていたんだと彼女は思い出した。「高い」がキーワードの小説群。高いところにある窓、背の高い構造物、ビルだったり駅舎だったり展望台だったり、高いところに立って望遠鏡をのぞいたという話もあった。たんに両手を丸くしたのだったかもしれない。ページを開こうとすると、ガラス戸が開いて別の客が入ってきた。彼女は本をそのままレジに持って行き差し出した。
「八百円」
 と、猫背の店主が言った。支払うと店を出た。

 古書店めぐりはまだはじまったばかりだったのに、彼女はいそいでなじみの喫茶店に向かった。店は細長いビルの地下にあって、ひんやりしたカウンターに肘置きのある木の椅子がセットされている。紅茶を注文して「高」の文字の記された本を開いた。

 主人公の男は記憶通り貧しかったが、鬱屈したり卑下している様子はまるでない。時折、貧しさを面倒そうに手で追い払うしぐさをする。
 洗面台がないから流しで顔を洗い、フライパンでかるく焼いただけのパンを咀嚼して、砂糖も牛乳も入れないインスタントコーヒーを飲む。部屋には最低限の家具と服、それに数十冊の本とCDだけがあって、男はそれを端から順に読んで聴いた。すべて読み終わり聴き終わるともう一度端から始める。たまにノートに何か書きつけることもあった。本の感想や、話の続きを想像したものや、昨日道で見たもののこと。
 それからベランダに出て高速道路を見下ろし、空が暗くなって夜が現れる前には必ず部屋に戻る。日が暮れたあとは決してその場所を見ないようにしているが、理由はわからない。ただそれだけの物語で、呆然とした。試しに他の小説にもあたってみたが、どれも哀しかったり朗らかだったり怖かったりと五感を揺さぶられた。ただ一編、この話だけが、まるで古い写真のように本のなかに貼り付いている。しかも、作者の名前すら書かれていない。

 彼女は紅茶を飲み干した。想像ではない紅茶はすこし渋くて心地よく舌に残る。


 
 今日は、三階の窓が開いている。

 歩道橋に立っていつもと同じ閉め切った部屋を見ていたら、カーテンがかすかに揺れているのを発見した。中に人がいるのだろうか?窓が開いていて、風がカーテンを揺らしたのか?どちらにしても、それは、あの部屋が完全な無人ではなかったことを示している。

 彼女は窓に目を凝らす。
 あ、ほら。また、動いた。今にも窓が大きく開いて、中から人が現れるかも知れない。

「誰ですか、いつもこの部屋を見ているのは」
「私はそう簡単に死にませんよ」

 そう言われたらどうしよう。いえ、まだ住人がいるとは限らない。ビルの管理人が、空気の入れ替えに来ているということもある。

 そのまま見ていると、今度は一階玄関口から人が出てきた。二十代くらいの男性だ。白い長袖シャツにひしゃげたジーンズを履いている。玄関を出ると左に折れて歩き出した。早足でもゆっくりでもなく、すいすいと慣れた様子。そのまま少し行ったところの銀行の前で立ち止まると、ガラスの中に飾られた広告用の大きな家族写真に目をやってから、中に入っていった。三階から降りてきたのか、あるいはその下のオフィスから入金でも言い使ってきたのだろうか。

 そもそも、三階の部屋を管理をしている人間は存在するはずだ。
 一人住まい、あるいは複数でシェアしているか、入れ替わり制ということもあるかもしれない。彼女が見かけたときは、たまたま誰もいなかっただけ。
 あれこれ考えていると、銀行からさっきの若い彼が出てくるのが見えた。三階建てのビルには戻らずに、そのまま信号をわたっていってしまう。追いかけようと階段を数段降りたところで足を止めた。彼が三階の住人だとすれば、窓を開けたままなので短時間で戻ってくる可能性がある。
 半分降りかけたせいで、また高所恐怖症がよみがえってきた。
 手すりに捕まりながら歩道橋の下を覗くと、青い車体の自転車がつーっと交差点を斜めに駆け抜けていくところだった。いっせいにクラクションが鳴る。

「おはよう」という声で、彼女は我に返る。
 社長が包丁を持って立っている。
「今朝はみんなでメロンを食べようと思って」
 左手には、大きなマスクメロン。
「右島さん、切ってくれる?」
「彼女はだめ、ぼーっとしてます」 
 大崎さんが社長から包丁を奪って、メロンを切った。
 さいきん毎日のように、三階の部屋を見に行っている。この前、カーテンが揺れてから。先週から新しい仕事をまかされたのに、それがまるでわからなくて、みんなに聞いて回ったり資料を調べ直したり過去のデータを探ったりするが、ますます謎が深まる。いつ仕上げてもいいと言われているのに、彼女は誰もいないオフィスにいるのが好きで、座り過ぎの椅子にまるく深く呑み込まれてゆらゆら揺れている。心地よくて朝まで眠ってしまおうと思うと、決まってあの部屋から高速道路を見下ろしている。そんなはずがない、あの部屋から見えるのは三又に分かれていく歩道橋だ。

「社長、メロンですか?」
 バイトの二人が嬉しそうな顔をして、駆け寄ってきた。
「ここのバイトしてよかった」
 男の子のほうが言った。
「きのう、おいしそうなメロンを買ったんだけどひとりで食べきれないから持ってきた」
「食べきれないのになんで買ったんですか?」
 バイトの女の子が無邪気に尋ねた。
「質問には答えないよ。食べる?」
「朝からメロンなんて、不思議な気分です」
 ちょうどよく熟れた黄緑色の果実を口に運びながら、彼女は言った。大崎さんは首を横に振りながら食べている。全員の口が黙って動いていて、静かで、外を走る車や鳥の声がはっきり聞こえる。最後の一切れを呑み込んでから、
「社長は毎年暑中お見舞もくれますね」彼女が言うと、
 メロンに刺さろうとしていた社長のフォークの動きが止まった。
「暑中お見舞?そんなの送ったことないよ」
「え?もらいましたよ、入道雲の」
「名前は?書いてあった」
 そういえば、名前はなかった。じゃ、なんで社長だと思ったんだ?
「質問には答えません」と答えておいた。

 メロンにコーヒーは合わない。紅茶でも日本茶でも合わないような気がするが。

 昼休み、あの部屋について調べてみることにした。とっかかりは老舗の煎餅屋しかない。ざらめのついた甘辛のおおきなせんべいをかじりながら、袋に書いてあるお客様相談室に電話をかけると、
「はいどちらさま」という女性の声。
 いきなりどちらさま?とは変わった会社だ。
「ざらめを買ったものです」そういう自分の自己紹介もおかしなものだ。
「ありがとうございます」
 はじめに広告看板の話をして、なんとかビルの話につなげてみた。相談室の女の人は、せんべいをかじる音をたてている。
「せんべい食べているんですか、なに味を?」
「おしい、クッキーです」
「クッキーも焼いているんですか」
「まさか、これはコンビニで買ったんです」
「はあ」
「ビルですよね、あのビルは良いですよ」
「どうしてもあのビルに住みたくて、そちらにお電話したわけで」
「看板を作ったところをお教えしましょう。きっと教えてくれるはずです」
 
 看板屋から不動産屋を聞き出した。昼休みはまだ四十五分残っている。
「お客さん、似たような物件でもっといい部屋があるよ。あそこはいま人がいるしね」
「三階に、住んでるんですか?」
「そうだよ、空いてると思ったの」
「ずっと前から?」
「さあどうだったかな。でも最近じゃあ、ない」
「どんなひとが住んでいるのか、と聞いても教えてはもらえないでしょうね」
「そうだなあ。ま、若い男ってことだけね」

 いつか見た、あのひしゃげたジーンズの男が住人だろうか?
 「死んだあとに住もうと思ってたんだけど、今のうちに中を見ておこうと思って」といえば、中を見せてもらえるだろうか?


 
 早退した。
 メロンにあたったのか、コーヒーのせいか。それとも椅子に沈みすぎたか。
 めまいがして、ずっと町の揺れがおさまらない。駅前駐車場にタクシーがとまっているのが目について引き寄せられた。運転手は車体によりかかるように、ぼんやりと通りを見ている。
「休憩中ですか?」
「いや、もうそろそろ終わり。乗りますか?」
 近くて申し訳ないんですけど、と言って彼女は住所を告げた。
「近くても気にしないんだけどね、そこはどうかな」
 運転手は奇妙な言い方をして、ボンネットに乗せていた帽子を手に取った。
「気にしなくていいんだけどさ、でも、そこはそんなんじゃ行かないよ。お客さん」
 おかしなことを言う。遠回りして値段を釣り上げられたことはあるけれど、そんな予告をされたことはない。だから、所番地だけで行けますか、と念押しして乗ることにした。
「いけますよ。どうぞ。頭、気をつけて」
 車のなかはあたたかい。
「この辺は久しぶりに来た」
 運転手がハンドルを回すと、景色も回る。彼女は目を閉じた。最後に見た店の看板が、一瞬頭のなかに残ってすぐに消える。
「タクシー運転手って、乗る範囲があるんですよ。今日は、思いがけず遠くまで来てしまったからこのまま終いにしようと思ってた。でもお客さん、ぐあいが悪そうだったから」
 それはすみません、と言おうとしたけれども声が出ない。運転手は気にするでもなく、
「このあたりは変わらないなあ」などとつぶやいている。
 話しかけているのでも、話したいのでもなくて、気を紛らせるためのモーター音や電車の走行音の声だ。へえ、あんなビルがね。あの中華屋、出てくるのが遅いんですよ。お客さんも気をつけて、急いでるときは。
 車は静かですこし傾いていた。坂を上っているのかと思ったけれど、帰り道に坂はないはずだ。慣れた道でも車だと違うのだろうか。
 坂が終わると、一般道では考えられないくらい速度を増してきた。帰りのどこかに自動車専用道路なんかないはずなのに、それともこれが早道なんだろうか。
 空が暗い。ネオンが見える。文字が一文字ついて、すぐに消えて、つぎの文字がついて、消える。いつの間にこんなに暗い。

「着きましたよ、お客さん」
 車を降りたら、三階の部屋の前にいた。
「あの、ここは」
「いいから、入って入って」
 押し出されるようにして、あの部屋に入っていた。
 
「どう?ここはけっこうレア物件なんだ。天井が低いのがあれだけど。風呂もあるしさ、なんせ窓からほら、あいつが見えるから」
「あいつ?」
「あれだよ、窓から高速道路が見える」

 振り返ると、誰もいない。誰もいないのに誰かがドアを開けて、閉めて外に出ていく音がした。
 ベランダから下を見ると、外はまだ明るくて、ひしゃげたジーンズを履いた男が出ていくところだった。男は左に折れて、銀行に入っていった。しばらく見ていると、銀行から出てきて下を通り過ぎてどこかに歩いていった。
 その様子を、歩道橋から誰かが見下ろしている。

 夜が更けて外に出ると、ベランダから高速道路が見下ろせた。
 一口コンロで湯をわかしてミルクティーを飲んだら、喉の乾きが癒やされた。いつか飲んだのはこのミルクティーだったんだ。夜の高速道路のずっとずっと上に、入道雲が出ている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             




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