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これから行く町 怪談ウエイトレス 

 昼休みの公園は、たいていほとんどのベンチがふさがっているから、噴水の前の、いちばん好きな場所が空いていたのはラッキーだった。

 サンドイッチとおにぎりを食べ終えた野木は、鞄を開けて思わず、あれっと声を出してしまった。

 読みかけの本が入っていない。

 朝、家を出る前に机から手に取ったのは覚えているが、鞄に入れたかどうかまで思い出せない。電車の中で読もうと思っていたのだけれど、今朝はいつもより混んでいて身動きも取れなかった。
 仕方がない。野木は本をあきらめて、かわりにタブレットを開くと、ウエブ上に公開された名も無い人たちの短い小説を読むことにした。

 野木が選んだそれは、 町小説とでもいうのか。一人の男が、ある町に越してくるところからはじまる。

 少ない荷物を片付けると男は部屋を出て、町をあるき出す。
 そばを食べ、近所の商店で小さなカゴなどを買い求める。細い川を渡り、広場とも公園ともつかない場所で立ち止まり、やがて家に戻ってくる。
 
  男の仕事や何かは出てこない。いつも町をさまよっているのだから、引退した老人かと思ったがそうでもないようだ。年齢や容姿は書かれていないが、『早足で横断歩道をわたりきった』『少し肌寒いくらいが自分には心地よい』などどいう表現があるから、案外若いのかもしれない。

 こんな話のほうが、短い昼休みに読むには適している。店に戻ったら、きっとマスターは出かけていって今日もお客は少なくて、掃除をしたり洗い物をして過ごすんだ。ベランダの鉢植えは、水のやり過ぎでひょろひょろ長いばかり。常連さんと続く聞いているんだか話しているんだかわからない会話。
 子どもたちが歓声をあげるたびに、餌をつついていた鳩たちが飛び立って旋回した。野木は物語の中に戻っていく。

 物語では、町の人たちが男のそばを通り過ぎていた。
 おもしろいかどうかというと、とくにおもしろくはない。書いている本人もおもしろいとは思っていないのではないか。
 ちょっとした事件は起こるけれど、男はそれを傍観しているだけだ。

 野木は、だんだんとその町に違和感を感じはじめた。具体的な地名はない。小説だからといえばそれきりだが、実在する町を舞台にした物語はいくらでもある。ネットに書かれたものに、あまりそれはないような気がする。なぜだろうか。遠慮だろうか。
 だがその町は、あきらかに実在するある町をモデルにしていた。知っている人間なら、ぴたりとあの町だなとわかるだろう。

 それ自体は不思議でもなんでもない。ただ、町の様子がじっさいと違っているのだ。それは小説なのだから、とあなたはいうだろうか。でも、違っているのは全体に漂う気配だ。

 野木は、少し前までその町で暮らしていたからよくわかる。いくらか店が潰れたり家がかわったりはしているだろうが、あそこは古い下町で、道も入り組んでいる。大規模な都市開発があるという噂も聞かないから、いまも昔ながらの雰囲気をずっと保っているのではないか。

 この小説にしても、あの町の造形をそのままに辿ってはいるのだ。でも、何かが違うと野木は感じた。読んでいるうちに、ふわふわ浮いているような気分になって、ついに読むのをやめてしまった。ちょうど昼休みが終わったということもあるが。

 喫茶まりもに戻るとすぐにマスターが出かけていき、入れ替わるように、その客がやってきた。背の高い痩せた男で、野木より一回り以上年上に見える。

「店長さんはおやすみですか」
  その客はドアを開けるなりそう言った。 
「ちょうど、昼に出ているんです」
「そうですか」
 男はとくに残念そうでもなく頷くと、店の中をぐるりと見わたしてから、アイスコーヒーを注文した。
「それとなんでもいいので、いえ、この言い方はあれですが…」
 みなまで言わなくてもわかっている。なんでもいいので、甘いものが食べたいのだろう。自分が一人で店番をしているときに、変な語りをする客はきっとそうなのだから。

「今日はティラミスがありますよ。ずっと昔に流行った」
 てらみす、と客は言った。
「お酒を吸ったスポンジのうえにチョコレートとやわらかいチーズを混ぜ合わせたものがのっている」
 本当はもっと良い説明があったけれども、わざとそんなふうに言う。
「ではそれを」
 客は、うまそうにティラミスを食べて、アイスコーヒーをすする。一時間が過ぎても、マスターは戻らない。
「いつもはもう少し早く戻るんですが。明日なら一日いると思います」
「申し訳ないが、次はなさそうなのです」
「そうなんですか」
「遠いところにいくものですからね」
 
 転勤かなにかだろうか。どこに行くのだろう。東北とか九州とか、いくらでもざっくりとした答え方がある。でも、男は具体的なことは言わなかった。

「今度のところは、よくわからないんですよ」
「よくわからない?」
「そうなんです。でも、わりと楽しみにしてるんです」
「それはよかった」
「自分はベッドタウン育ちで、道が広くて近代的な町に住んでいました。大人になっても同じような町で。それで、ずっとごちゃごちゃした町に憧れていたんです。休みの日には一人ででかけていって、歩いてまわりました。ああこんなふうな家が良いなとか、自分ならこの公園には小さな噴水をつくるのにとか、朝食はこの店にしようなんて、勝手な想像をするのが楽しくて」

 とりたてて変な話もしなかったその客が帰ったあとで、野木は思った。物語の男は、すでに死んでいるのではないか。死んだ男があるきまわっている町だから、気配が違うと感じたのだ。

 そして、あの客はこれからその町に行くような気がする。

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