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【ショートストーリー】心が還る場所

「詩と暮らす家」
ともすれば見逃してしまいそうなくらい小さな看板がかかっていたのは、ログハウス風の喫茶店の看板の下でした。古本屋のおじいさんが言っていたのはこの場所のはず…。何度かためらった後、私は思い切って扉を開けました。中には大きな一枚板のカウンターといくつかのテーブル席。どこをどう見ても喫茶店です。何となく不安を覚えながら中に入りました。ふとカウンターの中を見るとマスターらしき男の人が本を読んでいました。少し茶色味がかった柔らかそうな髪。色白で端正な顔立ち。マスターと呼ぶにはちょっと若いな、と思える人です。話しかけるかどうか逡巡していると、私の気配に気づいたのか、その人は顔を上げました。綺麗な人。思わず見とれてしまいそうになりました。
「いらっしゃい。」
にっこり笑ってマスターは立ち上がりました。
「お好きな席にどうぞ。」
その言葉に戸惑いました。何故って、私はコーヒーを飲みに来たのではないのだから。
「ああ、家に来たのですね。」
その人はすぐに気づいてくれました。
「どうぞ。こちらです。」
マスターはカウンター横の扉に私を導いてくれました。
扉の向こうは長い長い廊下でした。私はマスターの言われるまま後をついていきました。窓のない廊下。でも不思議とほんのり明るくて、そのせいであまり怖くありませんでした。
「あのおじいさんに勧められたのでしょう?」
マスターは私に聞きました。
「あ、はい…。」
その通りでした。不意に入った古本屋で本を買った時、店主のおじいさんに言われたのです。
「この先の突き当りに「詩と暮らす家」があるから行ってごらん。」
何故か拒むことができませんでした。言われるままここに来たのです。
「ここですね。」
立ち止まった所は何もない壁の前でした。
「あ、あの…。」
「購入された本を壁に当ててください。」
何が何だか分からず混乱していました。ですがマスターの優しい笑顔を信じて私は購入した本をカバンから取り出しました。空の写真が表紙の本です。その本を言われた通りに壁に押し当てました。すると中に入る扉が現れ、私を導くように開きました。そこは水の中のような部屋。スキューバダイビングで海の中に潜ったみたいな部屋でした。家具は何もなく、白く柔らかそうなラグが敷いてあります。
「ここは?」
「あなたの心が還る場所です。」
「心が還る場所?」
「お疲れのようですね。」
マスターは労わるように私に微笑みかけました。その通りです。何か決定的なことがあったわけではありませんが、日々を暮らしていく中、積み重なってきたものが体に心にのしかかっていました。そんな気持ちを払いたくて入ったのがあの古本屋でした。
「どうぞごゆっくり。」
そう言ってマスターは離れようとしました。
「あの!」
「はい?」
「ここにはいつまでいられますか?」
「いつまでも。お好きなだけどうぞ。」
マスターはそう言ってにっこり笑いました。
「ここはあなたの場所ですから。」
マスターが出て行った後、私は部屋の中心に座り、そのまま寝転びました。この部屋に入るときに使った本を抱きしめて静かに目を閉じました。何だか久しぶりに心が安らいでいました。

目を覚ますと自分の部屋でした。化粧も落とさないままベッドに倒れ込み、寝てしまったようです。ふと見ると空の写真が表紙の本がありました。会社帰りにふと寄った古本屋で買った本です。ゆっくり表紙を開くと、優しい言葉で綴られた詩がいくつも載っていました。
「私の心が還る場所…。」
私は本を読み始めました。少しずつ少しずつ本の世界へ入っていきます。不意にあのマスターの顔が浮かびました。
「また、会えますか?」
私の問いにマスターが微笑んでくれた気がしました。


こちらに参加します。

ちょっとファンタジーっぽい作品が書きたくなって書きました。
銀色夏生さんの詩が好きで、本を何冊か持っています。その中から↓の本をモデルにストーリーを作りました。

古本ではなく新刊でした(笑)

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