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「JWで不幸だなぁ」と思った点:JW仕様の感情、行動、思考

カルト宗教が話題になり、至る所で宗教によって被害を被った人の暴露が進んでいるようですね。

それだけカルト宗教などの組織によって人生を狂わされ、辛い思いをし、不幸な人生を歩んだ人も多いのでしょう。

エホバの証人として生活していく上で、一番、「不幸だ」と感じたことは、自己の決定権が無い事です。

感情面、行動面、思考の面で自分の考えた様に行動をすることができないのです。

すべての面において、JWとしての思考、振る舞い、感情の使い方を求められます。

感情面

感情は心の中で生じるものなので、これを外部からコントロールすることは難しいと思うでしょうか?

しかし、残念ながら、JWは「喜びの民」であることを強調したいがために、例え辛くとも、常に笑顔でいなければなりません。

何らかの心に大きな負担の生じるような出来事があろうとも、できるだけ笑顔で奉仕や集会に参加し、笑顔を振りまき、周りの人々を励まさなければなりません。

あまりに気分が落ち込み、集会や奉仕に参加したくないと言うならば、すぐさま「霊的に弱っている」と言うレッテルすら張られかねません。これは、長老の裁量によるところも大きいです。もしも長老が感情面での想像力も配慮も無い様な会衆であれば、多くの成員は疲弊している事でしょう。

また、怒りを感じた時には、「怒りを逸らせてならない」と教えます。怒りを所かまわず表すのは事実、よろしい事ではないです。また、怒りを溜め込みすぎるのも良くないです。

教えていること自体は間違っていない様に思えます。が、問題点は、感情のコントロールと言った面でこれが過剰になる事です。「怒り」を持つことすら、とがめるような物言いをします。結果、本来ならば、人間として持って当たり前の怒りすら持つことを自分の中で拒否しなければ無くなります。

例えば、JWでよくあるのは、誰かにからかわれた時に、ユーモアで対処しなさいとあります。信頼感のある人から、とくに自尊心を傷つけるようなからかいで無ければ、ユーモアで対処していいでしょうし、お互いにそういう掛け合いが出来るでしょう。

しかし、時に意図的に誰かを傷つけたりするような発言をする人もいます。特にその人の自尊感情を傷つけるような物言いに対しては、怒りを抱いて当然、むしろ、はっきりと怒りを表す事が健全である場合もあります。

最も、この健全な怒りには暴力や罵りなどは含まれません。感情的にふりまわされずにハッキリと不愉快であることを伝える事ができる事が健全です。どんな事においても、ユーモアで対処しようと言うのは、ただの誤魔化しです。

この辺りはとても扱いが難しいものですが、比較的、JWでは、感情のコントロールを頑張ってする人や、元々落ち着いている人ほど、周りからそういう風に振舞うのを求められますね。そのため、感情的な人の一方的な態度を理不尽にも受け入れざるを得なくなる状態が作られています。

こんな状態は不平等ですし、人間関係として不健全です。

しかし、この状態が不健全だと気づかないのがJWと言う閉じられた宗教の中の人間関係の中の感情のもつれを作る環境です。

そして、やがて病む人は病みながら、組織にとどまり続けます。組織から去る人は、さっさと去ります。

行動面

娯楽、生活、人間関係、仕事、将来設計などにおいても、すべての決定権は当人にはありません。自分で色んな事を決めて行動している様に思えても、常に、
「JWはどのような考えか?」
「エホバはどの様に思うだろうか?」
「JWの仲間はどう思うだろうか?」
などを考慮に入れて考えなければなりません。

自分の感性や自分の描いた未来、自分の直感の多くを無視することになります。

特に「若い時をエホバに捧げよ」なんて言いますから、心が本来は柔軟な時期に、JWの奉仕、集会などのルーティンを中心とした生活スタイルで自分を固めた行動を取る事になります。

JW的視点からすれば、JWエリートとなるのかもしれませんが、JWとしての自分ばかりを強調するような生活スタイルが自分に合っていなかったとしても、そこから抜け出せなくなるなら、自分の本来の気持ちや考えは押し込められていきます。

このような状態で長い時間が経ってしまうと、いつしか自分の気持ちや自分の考えがどのようなものだったのかが分からなくなります。

この自分の気持ちや考えが分からないと言う状態が、イライラ感、焦燥感、抑うつなどを生じさせます。

JWの成員の中で、精神的な問題を抱える人が増えているのも、結局のところ、「自分の気持ちや考え」にフォーカスすることなく、「周り」にばかり気持ちも行動も振り回されているからでしょう。

思考面

思考のコントロールがされれば、当然ながら、行動も感情もコントロールされます。

JWは思考をコントロールするために、色んな手段を用います。聖書研究、集会、出版物、JWとの限定的な交わり、現代ではビデオがあります。人は一番長く触れていた考えに染まっていきます。

JWでは「聖書を読むように」とは教えていますが、実際の所、聖書を読むことにあてる時間と、JWの出版物を使って個人研究をするためにあてる時間、どちらの方が多くなるでしょうか?

おそらく、聖書そのものにあてる時間よりも出版物にあてる時間の方が、実は多いのでは無いでしょうか?

聖書ならば、せいぜい2章から3章分をおよそ20分ほどで読みます。黙想を入れても、30分ほどでしょう。

しかし、JWの出版物を使っての個人研究には集会のため、また個人的な研究、家族がいるなら家族研究など、それぞれ1,2時間以上の時間を割かなければなりません。

JWの出版物がすべて本当に聖書を読み解く助けになっていればいいのですが、結局のところ、JWに都合の良い様に信者を誘導する方向に向いている様に思えます。

そんな誘導的な教えを受けているとしたら、長く時間を割いているもの方に思考が作り固められて行くことでしょう。

例えば、JWには限りませんが、信者以外の人達をどこか見下す様な思想があります。選民思想と言ってもいいでしょう。「自分たちは、神に選ばれたから、聖書を知り、JWになった。そして、JWの教えを受けないものはサタンの側の人間で、不道徳で不正直なので、いずれ滅ぼされる」などと言ったものです。

この様な思想は、比較的、複数の人が集まり、集団になると生じやすい歪んだ考えです。宗教に限らず、国家、職業、学校のカースト、住んでいる地域と言う様々な形で、自分達の集団は「特別だ」と人は勘違いしやすいものです。

「白人主義」やら「ファリサイ人」の様な存在に対しては、批判的な意見を述べる事も多いのに、自分が属してる集団の事になると、「自分達にはそのような傲慢な考えは無い」と言います。例え本人がそのように言っていても、はたから見ればやっぱり選民思想に染まっているのです。

その中にいても、この様な思想がおかしいと感じるなら、思考はまだ正常範囲内にあるのかもしれません。しかし、その集団から抜け出してからでないと、この様な偏った思考をしている事に気づかないとしたら、だいぶ思考を誘導されていると言えます。

ハッキリと言えば、マインドコントロールされています。

自分の内にある考えや思いを認識することも、それを表現することもできない環境と言うのは、かなりの不幸です。

自分の考えが無ければ、当然、誰かに自分の考えを作る事をゆだねてしまいます。そうなると、自分の考えのみならず、自分の感情もその考えに沿うように形作っていきます。自分本来の感情とはならないので、感情面で分裂します。

「本当はこう感じているはずなのに、何かが違う・・・。でも、何がどう違うのか表現できない・・・」と。

また、行動は思考によって作られます。心に在るものが、言葉となり、行動となります。が、残念です。作られた思考で作られる言葉も行動も、偽物です。

何かをしていても、「本当に自分はこれがしたいのか?」と常々、葛藤することになります。例え、自分の本心に気づいたとしても、その本心を無視して、行動を起こす事すら人間にはできます。これは、ある意味で、理性の賜物でしょう。

幸せにはならない宗教

JWの組織に関わらず、集団となって、特定の思想を持っていないといけないと言う環境は、実は人としてはかなり不健全なのだなと宗教以外の集団を見ていても思います。

「JWだから幸せ」と言う言葉もまた、JWで無ければならないと言う条件付きのものです。そのような言葉の使い方からも本当の意味で幸せを生じさせるかは、その人次第ではあります。

閉ざされた集落や部落の闇、おかしなルールのある学校に通う学生達の心の闇、毒親によって支配されている家族の闇・・・どれも幸せに生活している様には見えません。どこか重たい空気がまとわりついています。

小さな集団から、大きな集団、どの様な形であっても、特定の思想と考えを持っていなければ、批判され、排除されると言う環境は人に幸せを与えないのでしょう。

幸せと感じようと努力することはできます。しかし、それでは無理矢理そうであると思い込もうとしているだけで、本当の意味で幸せが心から生じているわけではありません。

ただ人にとって、自然な感情を表し、だれに誘導されたわけでも無く自分のやりたい事は自分で決める事、そして、自分の経験と学びから自然と導かれる思考を育てていくことが、人を満足させ、人を幸せに導くのだと考えています。



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