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エホバのためならと美化される暴力行為:迫害

エホバの証人の中であいさつ代わりの会話に、ほぼ必ずされる質問があります。

「迫害はあったの?」

私は、この質問が大っ嫌いです。

この質問がものすごく無遠慮で不躾、そして無思慮に感じるからです。

部思慮で無遠慮なJW

私と母はJWと聖書研究をして、エホバの証人になりました。では、その際に父が殴る、怒鳴る、書籍を隠すなどの方法で、JWとの研究や交わりを阻止したり、反対してくることはありませんでした。

研究も集会の出席も自由にさせてくれた父です。せいぜい、父が言う事は、「宗教にのめり込むな」と言う事ぐらいでした。

父は、JWを快く思ってはいませんでしたが、JWに対する悪口を言うことはありませんでした。そして、『目ざめよ!』に面白い科学的な記事があるなら、読むこともありました。

決して暴力的に反対してくることは無かった父なので、「迫害はあったの?」と聞かれると、私はイラっとしてました。

あまりにも、安易に「聖書を学ばない者は、サタンから使わされて聖書について学ぶ者を迫害をする」と言う前提で話をされるからです。

実際に、JWと聖書を学ぶことで夫婦間、親子間でいさかいが生じるケースもあったでしょう。そして、どんどんと暴力的な手段を取る反対者もいたことでしょう。

その様な形で大変な目に合ったと言う心痛は想像できますし、その状況をよく耐えて、明るくされているなと感心もします。

(JW流に言うなら、「励まされますぅ」かな)

だからと言って、過激で暴力行為が伴う反対を誰もが経験している前提で話さないで欲しいものだと思います。

もっとも、この質問は定型化していて、ただ聞いているだけの場合もあるでしょうし、自分の経験を話したいがために、使っている質問だとは思いますが、挨拶代わり、自己紹介代わりに使うにはあまりにも、不躾な質問です。

迫害と美化しても、それは虐待・家庭内DV

「迫害はありましたか?」の質問の別の問題点は、この迫害に伴う暴力的な行為や、本人の聖書を学びたいと言う意思を尊重しない態度は、夫婦であれ、親子間であれ、それは虐待またはDVになります。

この場合、「エホバのために辛い状況を乗り越えたわ☆彡」なんて、起きた事柄を美化していていい事では無いのです。

家庭内で殴る、怒鳴る、物を破損するなどの暴力が伴う行為を、「迫害だわ☆彡」なんて、美化する母親(JWは大抵、女性をターゲットに布教するので)が夫から暴力を耐えたとします。

この様子を見ている子供にはどんな影響があるのでしょうか?

父親が母親に対して暴言を言う、暴力を振るう様子を見せてしまうのも、充分に虐待です。または、マルトリートメント(不適切な養育)に当たる行為となります。

また、暴力を受けている側が、やたらと「迫害に耐えました☆彡」と言う様な話をインタビューや「経験を語る」と言う形で、具体的に周りの人に細かな様子を語ってしまうのも考え物です。

子供の年齢や、情緒の成熟度、洗脳度にもよるでしょうが、暴力を振るわれている事を美化している様子、そして、暴力を振るう側を「サタンだ」なんだと言って貶めている様子に子供はどう感じるでしょうか?

私が十代の頃は、このような話を嬉々として話す家族に対して、かなり戸惑いました。

(ちなみに至る所で、嬉々として語る様子を聞いていると、意外と感覚が麻痺してくるようで、「すばらしい信仰☆彡」」「頑張ったんですね!☆彡」と感動すら覚える様になりました┐(´д`)┌ヤレヤレ)

子供自身に直接的に暴言や暴力が振るわれていなくとも、本人ですら気づかない範囲で子供の心が傷ついている事は往々にしてあるものです。このような子供の心の見えない動きへの配慮が欠けていると思います。

真の問題点から目を背ける「迫害」と言う言葉

迫害と言う言葉を使う事によって、家庭内で生じた問題を歪曲化している様にも見えます。

なぜかと言うと、恐喝・恫喝・暴力などを使わない人がいる一方で、暴力的な手段を用いて誰かの考えを変えさせようとする人と言うのは、そのような一面をもともと持っていたとも考えられます。

現に私の父は、暴力的な事を言ったり、したりはしませんでした。これは聖書研究を始める前からです。

(もっとも私のうちでは、母親が支配的なタイプだったので、父が大人しくならざるを得なかったと言うのもあります)。

こう考えると、迫害が生じた家庭では、元々そのような土台があった。そして、それが、聖書研究と言う形によって、DV加害者側の支配的で暴力的な態度がハッキリと表れたと考えられます。

また、忘れてはいけないのは、宗教にハマってはいけないと、本気で心配しているからこその反対をした人に関してです。宗教に関連した事件は多いので、「危ない」と危機感を抱き、毅然と反対する態度を取る配偶者もいるでしょう。

そして、それがエスカレートした結果、暴力的な態度に変わってしまったケースもあるのではないでしょうか?

心配によって反対した人たちを悪し様に言う様な態度はどうなんでしょう?本当に真の宗教と言えるのでしょうか?少なくとも、心配をしている側への気持ちへの配慮が足りないでしょう。

(暴力は肯定しません)

感覚が歪むJW

「迫害はあったの?」と言う質問に対してどう思うかは、それぞれでしょう。少なくとも、私はこの質問を嫌っています。それは、私自身の幼少期から思春期にかけて、確実に虐待と言える行為を行ったのは、聖書を学んでいた母だからです。

しかし、聖書を学んでいる側の暴力に対しては、「お母さんも大変だったのよ」と言う言い訳が用意されていることで、私は本心を言う事は難しくなりました。

そして、私もそう思い込まざるを得ず、とても心が苦しい状態にありました。

また、聖書を学ばない父を、ただそれだけで悪者の様にみなしている様な言葉の使い方は受け入れがたい物でした。

こうしてただ聖書を学んだと言うだけで「善」とされ、学ばないだけで「悪」とし、その他の行為に対する冷静な判断が無いのは、どうにも歪んだ感覚に思えます。


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