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エホバの証人、進路に口出しするのは僭越な行為では無いだろうか?

エホバの証人は主に、「王国の業」である伝道活動を推進するために、多くの若者に開拓者として生きるようにと教えます。

私自身も巡回監督から牧羊訪問の際に、「将来はどうするのか?できるだけエホバのために生きる道を選ぶように」という趣旨の話を高校3年の時にされました。

正直なところ、血縁者でも無い、将来の学費や生活費用を出すわけでも無い人が、父親を差し置いて将来の話をすることには、何となく違和感を感じたものです。

そして、今現在、この様な事から思うのは、JWは家庭内で話し合うべき事柄に口を挟みすぎです。

僭越さが伺えます。

若者の将来に口を挟む僭越さ

僭越と言う言葉を、JWの洞察の本にある説明を短くまとめるなら、「権利を超えて、または権威が与えられていないにも関わらず、自分を高める事。出過ぎた行動をすることや勝手な振る舞い」などを指しています。

これから高校を卒業する時期に、将来について話す時は必ずと言っていいほど、色んな先輩JWや長老たちがあれこれと言ってきます。

そんな中で、高校3年の巡回監督の牧羊訪問で、最初は誉めたり、軽い感じに、「夢とかあるの?」と言う問いなどがありました。

単純に夢と言うことなら、憧れた外国に住んでみたいとか答えます。そうすると、割とガチトーンで「外国に行く費用や言語が・・・うんぬん。外国に行ったことで、霊的に弱ってしまった兄弟姉妹うんぬん・・・」

夢と実際の将来設計は違う物なのに、こうも行く前提で話されると、面食らってしまいます。まだ夢見る時期の少女の憧れを潰された気分になりました。いまだその時に憧れた国には行ってないです・・・

そして、さらには「エホバのために開拓奉仕と言う生き方をした方がいいよ」と話は締めくくられます。

その時の私は、高校卒業したら開拓奉仕をする気持ちはありましたが、口々に将来の事を言われるのは、あまりいい気がしませんでした。その時は、ただもやもやした気持ちでした。

父親と将来の話もまだまともにしていない段階で、たいして付き合いの多くない大人が、この様に将来設計を勝手に固めてきたことに対して、

「何、他人の家庭の子の将来設計を勝手にしてるんだ!?しかも、おおよそその子のためでは無く、組織のため、神のためとかの理由で子供の側の考え、感じた事、思いなどを無視してるんじゃい!?生きて行くための費用はお前らが出すわけじゃないだろうがい!!」

と、今なら思うのです。

JWが「良い」と思いながら、また「みんながしてるから」と言う理由が根底にある中で、若者の将来に口を出してくるのは、家庭の長の権利を超えているし、また出過ぎた行為であるように見受けられます。だから、僭越であると思います。

若者が「開拓奉仕をしようかな?それとも、専門学校や大学に行こうかな?正規雇用で仕事をしようかな?迷うから少し知恵を貸してください」と言ってきた上で、何らかの助言を与える場合はどうぞ、ご自由に。

周りからの将来の「励まし」


私の場合は確かに開拓奉仕をすることを周りに言ってました。その分、先輩兄弟姉妹からの「励まし」と言う形で、開拓奉仕を念頭に置いた話をされることは多かったでしょう。

例えば、私が医療関係の仕事に就きたいと言う話をすると、「医療は一時的にしか人を救えないけど、真理を人に伝える事で、人は永遠の命を得、本当の意味で命を救えるのよ」と言われることもありました。

何というか、仕事はあくまで生活費、JWとしての活動費を稼ぐためとしてするのだとしたら、そこに「今の命、永遠の命」とか持ち出す必要があるのだろうか?

しかも医療の分野には、医者や看護師と言う選択肢しかいないと思っているのだろうか?などなど、色々と疑問に思ってしまいました。医療関連は資格取得に時間がかかって、その間にハルマゲドンがうんぬんかんぬんと言っても、それは、もう仕方の無い事では?としか思えませんし。

また、地元で生まれ育ち開拓奉仕者となった姉妹達を引き合いに出して、「彼女たちはエホバのために生きていて幸せそうでしょう」と言われたりしましたが、なぜかこのような話し方をされる事がしっくりときませんでした。

その姉妹達はその姉妹達であり、私は私なので、何を感じるかは別では無いだろうかと思わざるを得ません。

何というか、今思い出してもJWの開拓奉仕をしている先輩方の話もまた、「励まし」になるどころか、もやもやっとした気持ちを作る事になりました。

それでも、高校卒業後は専門学校に通い、そののち連続補助開拓奉仕をして頑張りました。

しかし、結局のところ開拓奉仕者になるには至らなかったです。

私の中に多くの「もやもや」が存在していたからでしょう。

「人」が大事なのか、「組織」が大事なのか

JWにとって何が大事かと言う点で考えると、結局、組織でしょう。

「神エホバがどうの」と言っても、「すべての人を気遣っています」と言っても、最終的には、「組織」が一番なのがエホバの証人でしょう。

だから、「その人」の背景、考えや感じ方に対する配慮や、将来への見通しは甘いまま平気で、「組織が勧める事を全力で勧める」のです。

そこには「エホバのために~」と言っている本人ですら気づかない、人をコントロールしようと言う気持ちがそれぞれの成員にある様に感じられます。

また、組織はなかなかあからさまに成員をコントロールしています。

「その人」の思いや考えに対する配慮が欠け、大義名分の元にその人を特定の行動へとコントロールしようと言うのは、僭越な行為でしょう。

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