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明治の時代から近代文明を導入したはずの中国だったが、結果的に自国の近代化に失敗し、いまでもそのままの状態できている。 

以下は4/26に発売された月刊誌Hanadaの巻頭を飾る石平さんの連載コラムからである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

中国に「近代」をもたらした日本

日本は、アジアのなかで最も早く近代化に成功した国である。
明治以来の日本は、悠久の歴史のなかで培ってきた自国文明の深さと厚さを活かし、西洋から近代的な文化・文明を積極的に取り入れたことで近代産業を興し、近代国家へといち早く大変身を遂げた。 
その一方、隣の老大国中国(清国)は、自己尊大の中華思想に囚われ西洋文明を軽んじた結果、近代化に大きく出遅れ、西洋列強の餌食となって国の独立と存続すら危うい状況であった。
亡国の危機に直面していた中国に「近代」をもたらし、近代化を大きく助けたのが日本であった。 
事の始まりは日清戦争である。
従来、中国人から「東夷の小国」と蔑まれてきた日本は、大中華帝国をこの一戦で完膚なきまでに打ち破り、清国の朝廷と知識人官僚に大きな衝撃を与えた。
彼らは生き残るために面子を捨てて、「小国日本」に学んで自国の近代化を推し進める以外になかった。
そこで始まったのが、国策「師法日本=日本に学ぼう」の推進である。 
その第一歩が、中国の優秀な青年を日本に留学させることであった。
「東洋留学」(当時、中国人は日本を「東洋」と呼称)は瞬く間に、全国規模の社会的風潮となり、明治の日本政府と日本人は国を挙げて清国の留学生を快く受け入れ、彼らに十分な留学環境を整えた。 
清国政府によって派遣された十三名の官費留学生が日本にやってきたのが一八九六年(明治二十九年)のことで、以来年々、中国人留学生の数は増え、官費留学と私費留学を含めて、一九〇六年にはその総数がすでに一万人を超えていた。一九一〇年代には数万人にも達していたという。 
当時の中国人留学生たちは、日本人が西洋から導入し発展させた近代文明や文化の全般を学ぶなど、日本は彼らにとっての西洋発祥の近代文明を学ぶための窓口となった。 
一九〇七年、東京帝国大学に在籍する四十五名の中国人留学生のうち、法科十八名、農科十名、文科三名、理科二名、工科と医科は各一名との記録がある。彼らは日本で、政治・歴史・法律・文学・自然科学・商業・美術などあらゆる分野の新知識を学び、中国に持ち帰った。
そしてそのことが、幅広い分野において中国に革命的変化を巻き起こす。
中国の近代化は、まさに彼ら日本留学組の手で進められていった。 
そのなかで、大変興味深い文化現象が起きている。
明治以降、日本人は西洋から人文・自然科学、政治制度、社会制度を含めた近代文明全般を吸収した。
そして、そうした「近代もの」を表す言葉を英語やドイツ語、フランス語から学び、そこに従来の漢語や漢字を充てて夥しい数の新しい日本語を作った。
「文明」や「文化」「政治」「経済」「社会」「科学」「技術」など、その全てが明治の日本人が作った造語である。 
中国人留学生たちは明治の日本で近代文明を学ぶにあたって、こうした新造語を覚えてはそのまま中国に持ち帰った。
そして、それらの日本語はそのまま中国で使用され、現代中国語の一部となっている。 
たとえば、「中華人民共和国」の「人民」と「共和国」は明治の造語であり、「中国共産党中央政治局」ともなれば「中国」以外、全てが日本人の造語である。 
明治日本は中国にとって「近代文明の輸出国」であったのと同時に、中国近代革命の海外本拠地でもあった。
「近代革命の父」孫文が革命組織の総元締めである「中国同盟会」を作ったのは日本の帝都東京であり、革命の中心人物となった汪兆銘や蒋介石もみな日本留学組である。 
革命の成功後、中国史上最初の共和国である中華民国が成立して衆参両院からなる議会も設立されたが、一九一六年の時点で中華民国衆参両院議員四百三十九名のうち百八十一名が日本留学組で、議長クラスの四名は全員、日本留学の経験者だった。 
だが、日本が中国近代化の良き教師であったのに対し、中国は決して良き生徒ではなかった。
明治の時代から近代文明を導入したはずの中国だったが、結果的に自国の近代化に失敗し、いまでもそのままの状態できている。 
政治体制の一つとってみても、日本は早くも一八八九年(明治二十二年)にアジア初の近代憲法を制定し憲政への道を歩み始めたが、中国で初の憲法(中華民国憲法)ができたのは一九四七年のことである。
そしていまの中国では「憲法」など単なる飾り物と化し、実体は旧態依然の「皇帝様の中華帝国」である。 
出来の悪い生徒は、いつになったらいま一度、日本から現代文明を学ぶ気になるのだろうか。

2024/5/2 in Kyoto

 

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