見出し画像

ゲイの友人

数年ぶりに会った友人、彼はゲイだ。

LGBTQなんて言葉が巷から聞こえるようになるずっと前から、彼は私にフツウって何?っていう問いと、私も含めた異性愛者が自らがスタンダードだと疑わない傲慢さを教えてくれた。大切な友人。

久しく会わなかったのには理由があった。

20代から30代半ばまで本当によく遊んだ。新宿2丁目に連れて行ってもらって、私はゲイやレズビアンのコミュニティがあることを知った。その時はお互いに若くて、私は仕事で上昇志向が強かった(そして今より喧嘩っ早かった。笑)し、彼は彼で仕事のみならずゲイコミュニティの中でもキラキラした仲間と一緒にいることを望んだ。彼はゲイ受けのするステキな格好をして、SNSでの発信も怠らない、モテてイケてるゲイを目指しているように見えた。

そのキラキラに、私は途中から疲れてしまった。そもそも、女性であり異性愛者の私にはゲイコミュニティでの居場所は当然なかったし、私がそこからフェードアウトしても誰も気にも留めなかった。

そんな折に私は交際相手(今の夫)ができたりして、彼との距離は広がった。

温厚で人をホッとさせてくれるのんびりさが彼のいいところなのに、ゲイとしてのアイデンティティを保つために(ゲイ界にスクールカーストのようなものがあるとしたら)高いカーストに居続ける努力を厭わない彼をみて、私は心のどこかが痛かった。彼のいいところが薄まっていくような気がして。

ノンケだったら職場や友人繋がりでお付き合いが始まることもあるだろうけど、周りに完全クローズの彼にとってはそれはないわけで、素のままの自分を受け入れてくれる2丁目のウェイトは私の想像をはるかに超えるものなんだろうな、と感じた。

「ゲイには永久就職(結婚)はないんだから」と当時の彼はよく言っていたっけ。

そして今回の再会。

彼は元々ののんびりさを取り戻していた。

「hiromiにLINEして、ダンナから『hiromiはがんで〇月に亡くなりました』とか代わりに返事来ちゃったらどうしよう?!と思って怖くて連絡できなかったのよ~、あたし」と。彼らしい優しさがそこにはあった。

会わなかった時間のピースを、ひとつひとつ確認してはめていくような豊かな時間だった。

お互いに自分に正直にいい生き方をしようね、と言って別れた。

一昔前よりもLGBTQの社会的認知度は上がっているのだろうけど、セクシャリティーという自分の根幹をなす部分をまだ表に出せない(出したくない)人が大勢いるのも事実だ。

どの人も「わたしはわたし、あなたはあなた。どっちも大切」と認め合える世の中になるといいのにな、と切に思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?