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正直でありたいーー私にチカラを貸してください。

やばい。触れてはいけないものがでてくる。
私は大人だ。冷静でスマートな女性でいるべき年齢だ

出てくるな…出てくるな…出てくるな…


って思っても、もう出てきちゃうから、書いちゃうわー。

きっかけは、このゆききのnote

自分に違和感があったんだ。
周りが声を上げて楽しんでいることを、自分がどうして距離を置いて冷静に見ようとしているのか。

私も、ずっと「いい女」に憧れていたし、目指していたつもりだった。

冷静で、スマートで、颯爽としてて、スタイルが良くて。
気品と品格と、ユーモアがあって、オシャレで、稼ぐ人。

一体いつから、そんな女性像を描いていたのか、思い出せないけれど、私の中に「こうありたい、せめて一つだけでも」がいつもあった。

いい女にはすぐなれなくても、いい大人になれるはず。

だから、”大人の”私には常に「冷静でなくちゃ」があった。

あらゆる感情を抑えることで、”冷静な判断ができるフラットないい大人”になるはずだった。

年下の子たちと仕事をすることが増えたからだろうか。
年下の子が無邪気であればあるほど、私は、「かわいいなぁ〜と見つめる年上の女性」でいることが重要だと、思うようになった。

それが、”私の年齢だったら、このくらいの対応が正しいはず”の表れでもあったように思う。

何をしても、何を見ても、心があまり反応しなくなるほど、冷静に。
大人であれ、と。


そんな自分を、自分でもなんかつまらんな~って思ってはいたけれど、
何に引っかかっているのか、どうしてつまらないと思うのか、話が出来る相手もなく、どうしたいかのアイデアもわかず。

なかなか理想のいい女になれない自分を、どうにか取り繕っていかなきゃ、という思いばかりは強くなっていた。


そんな時、コルクラボって場所に足を踏み入れてみて

いつでも、どこでも、冷静に対応する”大人の私”に、変化が起き始めた。

あれ?なんかみんな楽しそうだぞ?
大人同士でめちゃ仲良しだし、めちゃ笑ってるし…あれ?
なんだこれ?なんだここ?よくわらないけど、なんか、なんか…

羨ましい…羨ましい…羨ましい……?

あれ、この感情は…?
なんか・・・寂しい・・・?
私も仲間に入りたい…

ってね、漏れてきちゃったんですよね~。

で、それを、
「大人で、冷静で、スマートで自立している女性がそんなことを思うのだろうか? 否、思わない!そうだ、寂しいのではなく、自分のやりたいことがまだないから、焦っているだけ…だ…」云々、でやり過ごそうとかしちゃうんだよ。

けど、寂しさに耐えかねて、ふっと漏らした言葉があって。
それを、ラボのメンバーは優しく拾って、温かくて優しい言葉に変えて返してくれた。
嬉しくて私は、言葉が返せなかった。

嬉しさと同時に、ホッとした。

自分の寂しいの要素は、もうなくなるぞ、って思った。
もう大丈夫、って思っていた。

私は心の平穏を手に入れた!


はずなのに。

このゆききのnoteが飛び込んできてね。

おや?おやおや?っと、でてきちゃったわけです。

そして、今朝自覚させられてしまった。

どんなに大人ぶっていたって、理想のいい女になんてなれない。
そもそも、いい女ってなんだ?

私も、ただ無邪気に楽しみたい!!

できるできない、良い悪いに捕らわれない自分でありたい。
素直に楽しんで、泣いたり笑ったりしたいんだなぁって。

心のどこかで感じてた。

でも、私の年齢だったら、年齢なりの…って思いや、何かしらの結果や実績の方が必要なんだ、って思ってしまう。

ただ、はしゃいだり、無邪気に楽しむことや、くったくなく笑う自分に、照れくささを覚えて、ごまかしてしまう。
恥ずかしくて、無理、って思ってしまう。

だから、言葉にはできなかった。

いやもうほんとに、「その歳でこれですか?」って思われたくないっていう、強迫観念がまじで強いんですよね、私。
いい女信仰も半端なくて。

だから、無邪気さは敵だったんだ。
無邪気さに逃げてはいけない、というか。
自分が行くべき道に、それは必要ではない!っていうか。

いちいち、大袈裟になっちゃうんだけど。

寂しいって思いを口にする時も、大人の自分を装いながら、言葉を選んで伝えていたかもしれない。

伝えたかった寂しさの、ほんとのほんとのところは、ずっと冷静なふりをし続けてたら疲れてしまって、でもこんな自分を見せれないし、言えなくて、でも寂しいを、伝えたかったのかもしれない、とふと思う。

ただ、自分の湧き出てものが、「無邪気に笑っていたい」でまとめると、ちょっと、違って。

なんだろう、この気持ちは、と考えていたら、ヒントがここにあった。

正直な人とは、自分の感情、欲望、知と無知を過不足なく捉えていて、他人にどう思われるかどうかで自分の考えや振る舞いが変わらない人のことだ。

正直であるためには、他人の視点や評価に左右されず自分の軸をしっかりもってブレないことが大事だけど、「わたしの軸はここで変わらないから、あなたが合わせてね」と自分勝手なわがままを通して周りをコントロールしようとすることではない。
ーーー
自分の軸がしっかりとあるが、自我が強く固いがために他人を見下したり、自分の都合でコントロールしようとするのは、「自分はこうである」と自己完結してしまうからなのではないか。

「自分はこう」「この人はこう」「世界はこう」と自己完結することで、視野が凝り固まり、自分の枠にはまらないものを否定して排除し、相手や環境をコントロールする。それは“正直”ではなく“わがまま”だ。

正直とわがままのちがいは、「自分のため」だけではなく「相手のため」という他者を思いやる視点があるかどうかなのかもしれない。

「正直である」

自分の心に、感情に。他者に。

あぁそうだ。
私は、「正直でありたかったのだ」

コルクラボでさらけ出すことを始めて、正直になっているつもりだった。
でも、まだ余所行きの顔をして、大人の顔をして向き合っていたのかな。

わがままになることが怖かった。
他者を困らせることが怖かった。

そんな言い訳を残したまま、向き合おうとしていた。

でも今は確かに思う。

かっこつけずに、正直でありたい、と。
正直で無邪気ないい女、最高じゃないですか。

これまで自分が書いてきたnoteも、さらけ出したいという思いも
「正直でありたい」の表れだったはずだ

その気持ちのところどころを覆っていた、「大人の私や、いい女であるべき私や、まぁこの歳くらいの私」を少しずつ剥ぎ取っていくしかないんだろう。

でも、私一人では、無理なんだ
たくさん言い訳を持って、たくさん鎧をまとっているのがわかるから。

人との関わりも、自分との関わりも、へたくそな私に

どうか、力を貸してください。


正直でありたいと思うと同時に、
自分が正直でいられる場所と、誰かの正直を受け止めれる場所を、私も一緒に作っていきたいと、今、思う。


ゆききの正直さと、私の正直さの表現は全く一緒ではないけれど、
彼女が正直であることができる場所と、私が正直でありたいと思う場所が同じであることは、すごいことだなぁと。


今感じている感情に、素直に従おうー

ありがとうございます。ロックンロールと生クリームとマンガと物語に使いながら、自分の中のことばを探っていきまます。