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評論文に感動したことはあるか

年を重ねるごとに
忙しさと退屈の間に
大事でもない見栄や習慣を振り切れないまま諦め背負い
ちゃんと抱え込んでおかなきゃならないものたちの存在を
忘れてしまいそうになる

いっぺんまっさらになってみたいもんだ

大事にしているしているといえば
高校の現代文の教科書を未だに持っている

『山月記』や『こころ』は
古臭いと思っていた近代の作家へお近づきになれた
『カンガルー日和』から村上春樹に傾倒できたし
中原中也や萩原朔太郎はすねくれたあたしの感性を慰めてくれた

それ以上に
忘れられない評論がある
清岡卓行著『ミロのヴィーナス』

大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

おびただしい夢をはらんでいる無であり、もう一方にあるのは、たとえそれがどんなにすばらしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である。

清岡卓行 『ミロのヴィーナス』

清岡さんの論ずるところ
両腕を失ったミロのヴィーナスの芸術としての美を讃えるには
その両腕を失っていなくてはならなず
両腕の欠落という偶然が生命の多様な可能性を表現しているという
なんともロマンの溢れる文章で
当時高校生のあたしは 
まあ、それは、いたく感動した

ミロのヴィーナスのという作品が芸術作品としてあるためには
視覚的な均整の美しさだけでなく
それを受け取った側の想像力が加えられることで
その芸術性を高める
などという清岡さんの考えから
芸術の懐の深さを思い知らされたというのもあるのだけど

それ以上にあたしは
高校生の稚拙な語彙力を叩きのめす
まるでヴィーナスを360度からひねくり回したような
回りくどく 小難しく 厄介で
なんともヴィーナスへの愛が感じられてならない恍惚とした文章に
取り憑かれた

簡潔で優しい言葉では決して表せなかった
その文章の強度と愛の深さは
この厄介な文章によって
やたらと伝わってくるのである

それこそ清岡さんが表現した
「不思議なアイロニーの呈示」
なのかもしれない

こんな感じであたしは

文字列や語彙がこれほどに難解でひねくりまくってても
口語文や小説では感じられなかった
それらをさぐっていく過程に生じる
小さなひらめきを
評論という未開の惑星から
発見したのだった

最近SNSでもよく見かける
なんでもかんでも誇大的に表現するそれらは
清岡さんの皮肉な文章に通づるのではないかと思って
あたしはなんか 嫌いじゃない

ぜひ読んでいただきたい


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