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九州路を行く 小倉~博多・福岡~太宰府~佐賀~多久

十一月十八日~二十日 十八日朝、下関で平氏一門の塚と天皇の御陵を拝した後、「便船に乗り渡海す」途中「ガンリウ(巌流)島」を見たりしつつ、九州に上陸。小倉に入って「名産の帯袴を買う」昼食後、黒崎に投宿。十九日、黒崎を発ち、「耶馬の諸山」を遠望、夕方「アゼ(畦)町」で投宿。二十日香椎かしいに寄ってから博多に入り「人家はすこぶる稠密、繁盛」の町を抜けて宿を取りました。

二十一日 朝食後に市中を徘徊、福岡に行き「空堀も広大」だが天守閣のない福岡城を見ます。宿を立つ際、主人が勘定をごまかそうとして「下許が怒気を顔にみなぎらせた」その日は太宰府に投宿。妓楼が立ち並び「火影が明滅、弦管の音や拇戦(指相撲)に興ずる声が騒がしい」が「近年、買婦は御禁制」とのこと。下許との酒席に来た女性を愚弄からかい、「夜来の曲」を歌わせて楽しみました。「夜半後、月影晴朗」

二十二日・二十三日 二十二日、朝食後に太宰府天満宮を参拝して出発。雨中、昼食を取った店に「雨傘を忘れて取りに戻る」夕方前に田代で投宿。「夜間、頻りに故郷の岩崎硯山けんざん先生(親戚の儒学者で弥太郎は弟子の一人)の夢を見た」 二十三日、日の出に宿を出て、雪混じりの雨の中「九州第一等名陶……アリタ(有田)」を通り、「奮然勉歩」して佐嘉(佐賀)の「文武宿」に投宿しました。

二十四日 朝、雪。著名な儒学者草場くさば佩山はいせんを訪ねたかったのですが、佐賀藩は「法制固く」他藩の者は城内に入れないとのこと。が、昼過ぎに藩校弘道館から迎えが来たので「喜んで衣服を改め」、下許と城内に入りました。「諸人」と待合所偃松はいまつ亭で談話、「吸い物に盃を添えて」もてなされ、最後に佩山翁(「七十三歳くらいなり」)が現れて、揮毫きごうをしてくれました。

 偃松亭で同席していた嶋圑右衛門に誘われ、灯火を持って弘道館内を見物しました(嶋は下許が蝦夷地に赴いた際の知り合い)。「規模広大で、長州藩と同じく武技場も同所にあり、書生寮の寄宿生は常に二百人内外との由」明日午後の再会を約束し、夜中に帰りました。

二十五日 午後、弘道館から迎えが来たので、偃松亭に行って酒席。舞やら箸陣(箸拳)やらで「劇飲大酔、殆ど前後をわきまえず」下許から途中失礼があったと聞かされ「慚愧甚ざんきはなはだし(大変恥ずかしい)」。

二十六日 下許は足が痛いので舟で長崎に行くと決め、一人で佐賀を発ちました。弥太郎は長崎街道を離れて唐津道に入り、日没前に多久の「客館に投宿」。そこに、佩山の長男草場立太郎が来ました。弥太郎が「以前に森田良太郎が詩の稿評を頼んでいたのでは、と尋ねると、評を加え、佩山翁の序文と跋文ばつぶん(後書き)を加え、今井順正あて長崎へ贈った、とのこと。色々と談じて夜が更けてから寝た」

 草場立太郎(船山)は、当時多久のゆう東原庠舎とうげんしょうしゃで教官をしていました(佩山も東原庠舎出身)。「邑校」は支藩(邑)の学校。森田良太郎は弥太郎と同じく土佐の儒学者岡本寧浦ねいほに学びました。今井順正(純正)は後の海援隊士長長岡謙吉。土佐時代に良太郎や弥太郎と面識があったと思われます。この後、今井と弥太郎は長崎で様々な因縁が生まれることになります。下のリンクを参照。

二十七日 旅宿に弥太郎を訪ねて来た人たちと談話。その後、立太郎の塾生を訪ねるも「格別面白い愉快な人物もいない」深夜遅く帰ると、「客舎主人が酒と汁一椀」を持って話をしに来て少ししか眠れませんでした。

二十八日 この日、多久を発つ予定でしたが、強く引き留められて学問所(東原庠舎)を訪問。茅葺きの物寂しい建物と元禄十四年造立の孔子聖廟がありました。この日は冬至の聖廟祭りとかで来客がなく、「客館はひっそりと寂しく故郷を思う気持ちが頻りにわいた」

 弥太郎は長崎までの旅程でいくつもの藩校を訪ねましたが、たいてい藩校の名前を記さず「学館」ですませています。こちらで名前を補うことが多く、東原庠舎も一例です。東原庠舎は佐賀の藩校弘道館より歴史が古く、そのことを多久の人々は誇りにしているようです。下のリンクなどを参照。

https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_16_201634151414.pdf

二十九日 午前も午後も来客。詩の交換をし、大笑いで盃を献酬し、琴を弾く人もいて酩酊。真夜中に殆どの客は帰りましたが、鶴田豫太郎は一人残って臥しました。夜半、腹痛が起こり、弥太郎はかわや吐瀉としゃ。寝ていて両足のしびれを感じ、「虎狼痢ころり(コレラ)」ではと心配になって、鶴田を呼んでみてもらいました。「余は恐怖でいっぱいになり、甚だしく心身不安」しかし、結局問題ありませんでした。「一時の狼狽の状態は可笑々々わらうべしわらうべし

 鶴田豫太郎は、明治時代に司法界で活躍し、元老院議官となった鶴田あきら(鶴田斗南)。人名辞典等に「通称弥太郎」とありますが、「豫太郎」とする情報も。鶴田は江戸の安積艮斎あさかごんさい塾で同窓でした(弥太郎は旧友を訪れたわけですが、「雑録」には特にその記載はありません)。


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