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弥太郎、読書に励む

三月十三日 朝、土佐藩参政吉田東洋への書簡を、下許武兵衛が藩に出す公文書中に託して送りました。下横目の寄宿先を訪ねると、二人は早めに土佐へ帰ることになり暇乞いとまごいをしました。弥太郎は下許と対座して「笑い、かつ悔やみ」ます。下記のような心配があったのです。

 欧米諸国に関して調査をしろと申しつけられていたものの、「当地(長崎)ではこうしたことを心得ている者は一人もいない」のでうまくいかず、「面に汗するばかり」。しかも、遊蕩のことも下横目たちは聞き取りをしているようで、「何とも心持ちがよろしくない」

 浴場に行った後、花月楼を訪れて馴染みの老婦に、役人(下横目)どもが調べに来なかったか尋ねました。「かねての推量に違わず、両人が二度ばかり参ったけれど、口止めの都合があったので一言も口外しなかった」とのこと。

 談話中に酒が運ばれて来て、歌妓二人に男げいしゃ(幇間ほうかん)も来室、「かつ談じ、かつ飲む」。歌妓の一人「十三、四歳の小蝶が随分かわいい。舞場で踊った春雨の一曲も良かった」日が落ちてから寓舎に帰りました。就寝後、「鶏が鳴く前に目覚め、近頃の自分の状態をつくづく思案した。実に浅ましい」と朝方と同様の嘆きを記し、だから吉田参政に当地での役目がうまく行かないと申し出たのだ、と続けています。

十四日 西洋医術の先駆者で旧知の松本良順を訪ね、自分が「当地に来たのは暇つぶしではなく(徒然に非ず)、西洋の文武制度を調べて明らかにするように申しつかってのことだったのに、今一つ要領を得ない。その善し悪しは当地では分からないのだろうか」と尋ねました。

 良順は「そんな愚かなことを申し出たら、人に笑われるぞ」と大笑いします。弥太郎は、ここでは十分な調査はできないのだと察します。自分の力が足りないから、と弥太郎は自覚していたのでしょうか? 清人ひょう鏡如宅に行き、筆談をしていると酒が出されて酔います。そこに花月楼の旧知の遊女が来て談話。帰寓後、明朝紀事本末などを読んでから寝ました。

 この日の日記の最後に「しもべの利助と雑話をして寝た」と記されています。この時代、日記を書くのは武士や裕福な商人が主であり、彼らは滅多に身近な僕や従者については書きませんでした。長旅に従者を連れていても一言も触れないことさえあります。地下じげ浪人出身の弥太郎には身についた平等の感覚があったと思われます。(下のリンクの記事参照)

十五日  「朝から明紀を読み、終日不出戸」の後、「夜、月色清明、同宿の隅田敬治、僕利助を相伴って丸山を散歩した。帰途、雨が降ったので両人を誘って蕎麥そば店で小酌。随分愉快だ」弥太郎は、「心の中で(宴席の時のように)弦の音を添えていたけれど、とある遊女屋を思い(行きたくて?)恋々としていた。帰寓、明紀を読み、人定(夜十時頃)の鐘が鳴ってから寝た」

十六日 晴。明史を読む。午後、蘇文蘇軾そしょくの文)を読む。浴場、結髪。下許武兵衛と(砲術家の)中島名左衛門を訪ねたが不遇会えず。道で旧知の舞妓二、三人と出遭い、笑って行き過ぎる。大工町から舟に乗って大浦に行き、林雲逵うんきの寄宿先に行ったが不遇、帰る。晩飯を喫した後、外出したかったものの出ず。枕上に明かりを灯して簷曝えんばく雑記を読む。しばらくして寝た。(当日の日記全文。「檐曝雑記」は清の考証学者趙翼ちょう よくの著書)

十七日 晴。終日不出戸。明史を読む。午後、蘇文を読む。夜、簷曝雑記を読む。早めに寝た。(日記全文)


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