恋愛に向いてない
客観的に見て嫌になってしまうのだ。
SNSの投稿でも同じような感情になるのだが、発信している自分を客観的に見て嫌になるのだ。
もう1人の冷めた自分が肘で小突いてくる。
恋愛というのは一種の演劇だ。恋愛に酔えない。SNSに投稿する自分に酔えない。
めちゃくちゃ分かる。
演劇自体は好きなのだが、プライベートで駆け引き(?)のような、探り合いのようなことをするのが苦手なのだ。
たぶん恋愛が楽しいと感じるには、自分に酔っていないとダメなのだろう。
ちなみにテラスハウスなどの恋愛リアリティショーを観ても何が面白いのか全く分からない。
かつてのクラスメイトは恋人とのツーショットをSNSに投稿していた。
二重に分からない。
くだらないとまでは思わないが、自分には向いていない。
好きな人はいたが、デートするとまた俯瞰で見てしまう。スクリーンで僕と彼女を見ているもう1人の自分がいるのだ。その自分は否定的でネガティブ。
僕の行動は、そのスクリーンで観ている自分の価値観に左右される。スクリーンで観ている自分が面白いと思えば、行動に疑問はもたない。
同じネガティブでも、マツコ・デラックスや山里亮太、若林正恭と違い、浜辺ではしゃいだりすることは出来る。もう1人の自分は、それを観ていても面白いと思っているからだ。
なにかに酔う適性
宗教がそうだ。
しかし今の時代、宗教は科学に取って代わられた。
そうなると今度、人々は何を信じるか?
大多数にインストールされている常識や、娯楽、酒だ。
宗教が常識になっただけなのかもしれない。
エンタメも《救い》という意味では宗教と化している場合が多々ある。インフルエンサーは教祖で、ファンは信者。事実ネットにおいてはファンを揶揄する目的として信者という名称が使われている。
ちなみに僕はお酒も飲めない。酔うには酔うが、気持ちよくないのだ。
宗教にもお酒にも恋愛にも常識にも酔えない。
唯一、ゲームという娯楽にはかろうじて酔えている。
僕も仮に億万長者になって、好きな女を妻にして、全ての人間から最大級の評価をされても、幸せにはならないと思う。内側が乏しいからだ。
何も無くなった人間は、引用元であるヤマダヒフミ氏が言うように自殺するのだろう。
幻想が解け、現実を直視すると人は壊れる。夢に恵まれまくっている(ように見える)芸能人が自殺するのは、夢を信じられなくなったからだ。
神は死んだ
ニーチェで言うところの虚無主観だろうか。
この虚無主義は、いわゆる生きがいが無くなった時に起こるものだ。ニーチェの時代だと宗教だ。現代ならば娯楽や家族、仕事などだろうか。
そしてこの思想に陥る人間は、ニーチェが死んで何十年、何百年経ってもいなくならない。脳みその問題だからだ。どれだけ金があっても、人脈があっても、愛されていても、内側が空になれば外側にも意味を見出せなくなる。
ニーチェ自身が発狂死しているのだから、この思想に取り憑かれた人間はいずれ発狂すると思っている。芥川龍之介、大宰府、庵野秀明、麻枝准……。心当たりのある人間が沢山いる。
ただそれは幻想に取り憑かれている人間側が異常な訳ではない。やはり狂っているのは自分なのだ。
恋愛も仕事も出来ないのは、根本的に何かが間違っているから。思考回路がズレているから仕事ができないのか、能力がないから虚無主義になるのか。それとも元々思考も能力も両方ズレているのか。
擬態している人がいるのは分かる。能力はズレていないが、思考回路がズレている人。それこそ自殺する芸能人がそうだろう。思考回路はズレているくせに、能力でそれをカバーしている。
評価はされているが、その評価に価値を見出していない状態だ。
そうして思考と能力の乖離に耐え切れなくなってそのうち死ぬのだ。
周りの人は「なんで?」と疑問に思うが、その「なんで?」は永遠に解消されない。生前に打ち明けても理解されないことは分かっているからだ。だから内に秘める。そして能力でカバーする。
今でもいるんだろうな。
2024年は、誰も死なない歳であって欲しい。
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