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板倉鼎と須美子 エコール・ド・パリの時代の画家夫婦

2024年4月某日
板倉鼎・須美子展
千葉市美術館


短くも濃いい人生を送った板倉鼎と須美子夫妻。
2人とも20代で亡くなった。
2人の娘も幼いうちに亡くなった。
その事実がショックというか衝撃で。すごい切ない気持ちになった。
切ないながらも、2人が生み出した作品は不思議な魅力をビンビンに放っていたのだった。

というのが以前、板倉鼎に縁のある千葉県松戸市で観たときの感想。

調査を続けてきた松戸市教育委員会がガッツリ協力し、2人の画業を総覧する今回の企画展。
関連資料もたっぷりで、かなりグッとくるものがある。
遺族の方たちが大切に守ってきたから、今につながってるんだねえ。
やっぱり切ない気持ちを抱えながらも、2人の世界観を堪能したのだった。


Ⅰ 生い立ちから出会いまで 鼎

医師になるように勧められたが画家への想いが強く、東京美術学校西洋画科へ進学。
3年生で帝展に入選。パリへの留学を取り付ける。

・「千葉町」千葉県庁舎がドームだからか異国風なのがおもしろい
・ペン画センスある~黒いから結構書き込みしてる。明暗コントラストのみで表現 エッチングかと思った。
・裸婦が何点か。堂々としたボディ
・1921年の自画像。目がくりっとしててかわいい。肖像写真もシュッとしてる
・タッチをいろいろ工夫してる。細い線を重ねていくのが特徴なのかな
・人物の手足がデッカくて存在感がある


木影
日本じゃあないみたいな雰囲気
コーヒー、フルーツ、マンドリン、葉巻。花と緑。モデルは妹や友人たち


・ペン画からのー銅版画も手がける。夜の肖像
・「小女と子猫」 涼しい顔してタッチは厚塗り。レースの傘の感じとかよく出てる
・1924年の自画像 これまたシュッとしてる。男前って自覚あるよね?自画像さえも異国風というか日本人離れしてるような


七月の夕
妹の弘子がマンドリンを弾く。ストライプのワンピースがかわいい。
弘子さんは多くの作品でモデルを務めた。その後鼎の作品を守り抜いた人


日本にいたときからどことなく無国籍な雰囲気があってユニーク。
だけど、パリに行ったらもっとすごくなるよ~研ぎ澄まされるよ~



Ⅱ 出会い、結婚
Ⅲ 出発 ―ハワイへ、そしてパリへ
Ⅳ-Ⅰ パリ留学―1926年

引き合わされて、意気投合して結婚。
パリへ向かう途中でハワイ・ホノルルに4ヶ月滞在。
ちょっと苦労もしたけれど、須美子や少女を描いて、古典を開いた鼎。
須美子、女の生き方に目覚めていく?

そしてパリへ。
ピシエールに師事してそれまでの画風をぶち壊す鼎。
静物画も変わってきた気がする。花が意思を持ち始めたというか、ちゃんと描こうとしなくなってきたというか、いい感じに個性が出てきた。
細いタッチなくなって、思い切って塗るで!みたいになってきた。

「もっと変われ」というピシエール氏。良い師だったと思う!



Ⅳ-2 パリ留学―1927年

「今度同じものを二度つづけて書きました静物に置いて、少くとも自分では昔の自分の型を見出す事が出来ません。今は唯それだけで喜んで居ります。」

自分の殻を破ったことを喜んでるんだよね?
スゴいスピードで変化・成長してるぅって感じてるんだろうなあ。

・「ダリヤとグラヂオラス」 鍵穴つき白テーブルの上に野菜、仮面、カゴと果実、赤が印象的。


雲と秋果
鍵穴つき白テーブル、赤い布、窓の外の雲がおもしろい形



・「金魚と花」 窓の外の風景がよりカラフルに。金魚の配置めっちゃ考えてそう。

・「黒衣の女」 キスリング風。赤いリボンのボータイかわいい
・「白いシャツの須美子」 白シャツに黒レースリボンのボータイみたいのかわいい


垣根の前の少女
花をくわえてるのが不遜な感じでいい!エスキースがいっぱい


ついに須美子が油絵を始める。鼎が手ほどきする。
ドートンヌで入選、鼎もまいった!

午後 ベル・ホノルル12
人も動物も黒いワンコも楽しそう。プロポーションとか遠近感とか気にしない

ホノルルシリーズ、色がいいな~カラッとしてて。
パリにいるときに、ホノルルを思い出しながら描いた。
それが逆によかったのかも。いったん離れて、頭の中のイメージをまとめられて。
フランス人にとって、ホノルルってどこ?エキゾチック!で興味をそそられた部分もあったかも。


Ⅳ-3 パリ留学―1928年

・「赤ちゃん」 ん、ん~独特なかわいさがあるね。
・鼎や須美子が長女・一をあやす映像。笑顔が溢れてる…

・鼎イタリアへ行く

「静物で今まだ誰もやってなかった境地を開くねん」


金魚シリーズの一枚
室内からベランダに出た?風景がダイレクトに


●赤ワンピース須美子
・「雲と少女」 右肘椅子に引っかけてるポーズがいい
・「リラの葉を持つ女」 ちょっとキューブ?


黒椅子による女
左肘椅子にこちらに振り向く須美子、肘までが長いのは気にしない


・「白椅子による女」 こっちのが顔の迫力があるかも


「物を見る時は必ず物それ自身の色を見て決して空気を通したり光に依ったりした見方をしないことです。・・・私の昔の絵はみんな空気を通して見た影のうすいものばかりです。私はこの空気をすてるだけにほとんど一か年を要しました」 

元々絵が上手いだけに、ゲットしたスキルを捨てるのは大変だったと思う。


画家の像
画家=須美子。アシンメトリ、赤緑チェック柄かわいい。これが鼎の遺作に…


ベル・ホノルル24
構図というかこの場面を切り取るってセンスがおもしろい



Ⅳ-4 パリ留学 ―1929年

休む赤衣の女
板倉鼎の集大成みたいな絵。須美子、花、金魚、窓からの風景…
須美子は2人目を妊娠中で、長女を目線であやしつつ、薄着でモデルを務めるのが大変だったそう


赤いワンピースの須美子をモデルにした絵が多い。
精力的にサロンや展覧会に出品したり、画廊に作品を預けていた矢先、28歳で急逝。
本当に急で…須美子の手紙によると、9/19に発病して9/29に亡くなったとのこと。
この直筆の手紙が生々しいというか、気丈というか。



Ⅴ 夭折

帰国して、佐伯祐三の妻・米子の紹介で有島生馬に師事した須美子。
だが結核のため1934年に25歳で亡くなった。


とにかく2人の絵と人生をたっぷり味わえた。
鼎の絵がいい感じに変わっていって、もっと生きていたら新たな境地へ行っていたんだろうなあ。
須美子も新たなモチーフを見つけて、世界観が広がって行ったかもしれないなあ。
と、想像せずにはいられない板倉鼎と須美子。
若くして亡くなったのは本当に残念だけど、多くの作品に触れられてよかったなあとしみじみ思う。

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