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助ける。

普段は見え隠れする程度で
しんと、静かに佇んでいるけど
「何かあったら、いつでも助けるぞ」な人。

思い返せば、憧れたり
何があっても好きが守られるのは
この凛とした言葉が聞こえてくる人ばかりだった。

決まって彼等は言葉を大切に扱い
目の奥に温度を持ち、
とびきり綺麗な笑顔を見せてくれる。

顔のパーツだとか
ファッションがどうだとか
そういうのは二の次で、いやほぼ関係なく、
目を引く美しさを纏っている。ように私は感じる。

いざ、その温かさを目の前にすると
自分でも感じていないと思ってた痛みや
悲しみがあれよあれよという間に溢れてしまう。

「助けて。」と告げるのは怖い。
メッセージで送ったが
既読されたまま返信がない。
一晩待った挙句軽い言葉で突き放され
貴重で、体力のいる「助けて」を
侮られた事がある。

目の前で泣いているのに、
薄っぺらい言葉だけを掛けて
次にある楽しさ目掛けて
走っていく背中を見た事も、

話を遮って自分の話に変え表面上での理解をし、
悲しみをカテゴライズ化されて
「みんな、君よりも辛いんだよ」で
まとめられた事もある。

そんなものか。
人が人を想う気持ちは。
って心底呆れた。

人が人を大切に思ってるとか、
好きだ、愛しているの言葉の中身は
なんだ、こんなものじゃないかって
随分とふてくされた。

そんなこんなで
誰かに相談することも、
頼ることも怖くなっていた私は
仮面を被るのが上手くなった。
実際に家族や恋人なんかにも
バレなかった時が多い。

でも「何かあったら、いつでも」な人の面前では
その仮面さえも付けさせてくれない。
「もしもし。」や「おはよう。」などの
一言の中に含まれる”何か”を察知して、
途端に空気を変える。

「私、僕の前では、大丈夫だよ。」と
言わんばかりな空気に。

大丈夫なのか、と
ほっと胸を撫で下ろしてしまうため
誰かになるどころか、 
自分も知らない”自分”が浮き出てくる。

そして溢れ出たそれらを、
一滴残らず拾ってくれる。
「その痛み、知ってるよ、わかるよ。」と
重々しい声色と、温かい瞳と、大きな頷きと
たくさんの道標を優しい言葉にして贈ってくれる。

自ら顔を覗いて
「あなたのためを思って言ってる」
とか「貴方だけじゃなくてみんな苦しいよ」とか
「こうしなきゃダメだよ」だとかの言葉を
相手をよく見ていない見れていない観察眼で
自分の“こうあるべき”を乗せて放つのも

自分自身も崩れそうなのに
優しすぎるがゆえ一緒に
悲しみにつられてしまうのも

どれも誰かを思った尊い行動なのは、
間違いない。

けれどそれは時に、一方通行となったり
悲しみが悲しみを連れてきてしまったりする。

「何かあったら、いつでも」な人は
何より、自分自身と仲がいい。
外がどんなに荒れていても
優しい空間を守っている。って
表現で伝わるのかわからないけれど
何があっても、
味方=自分を離さないから
余裕が無くならない。
うん、そんな感じ。

そんな人が持つ有り余っている
目には見えないあたたかいものを
与えるつもりがなくても
相手へ注ぐことができる。

5分前まで沈んでしまいそうだったのに
「何かあったら、いつでも」な人の空間に立つと
それはそれは、とてつもなく心地のいい時間に変わる。


これまた違うバンドマンが言っていたこと

「支え合うのは、前提。
どんな関係性でも、何かあれば助けるし
守るってことが前提になければ
何をしようにも楽しくない。
本当の楽しさを味わうことができない。」

この言葉が入ってきた時、
私はとてつもなく嬉しかった。

助けるとか、
守るといった類のことは簡単ではないこと
自分に余裕がなければ成り立つのが難しいこと
偽善と紙一重なこと
逃げてしまう人もいるという事を
きっと普通の人より知っていた。

それでも、
助け合うことの尊さを諦めたくはなくて
誰かに助けられた時のあの溢れ出る感情が、
私が紡いだ言葉で救われたと
言ってくれる人の笑顔が忘れられなかったから
”助ける”は難しい事だけれど前提としていい。
と聞けて嬉しかった。

いろんな関係性、人間関係のあり方があるけれど
私は「何かあったら、いつでも」な
人の側にいたいし
自分も「何かったら、いつでも」な
人になっていたい。

私と関わってくれている大好きな人たち
これから出会う人たち
本当に、「何かあったら、いつでも」です。





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