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クッキーを焼いてみたら、人生にジャイアント・キリングが起きたという話

コーチングを一緒に学んでいる仲間の話からインスピレーションをもらって、フィクションを書いてみました。

いや〜、こういう刺激をもらえるのも、コーチングの魅力かもしれません。それではどうぞ。

ガヤガヤと隣の部屋が騒々しい。どうやら、みんな、楽しんでいるようだ。漏れ聞こえてくるのは、これはわたし、じゃあ、こっちはわたし、といった声。それぞれが、役割を決めて、自分たちで準備を進めている様子。

よしよし、万事、うまく進んでいるようだ。あの場に、これが加われば、さらに盛り上がること、間違いない。オーブンからあふれ出る、甘く香ばしい香りに刺激され、わたしの想像は膨らんだ。目を閉じると浮かんでくるのは、「えぇ、自分で焼いてくれたんだ」
「すごい! なんだか本格的なパーティーみたいだよ」といった声。誰もが驚き、興奮し、その場は、より大きな幸せに包まれる。

わたしはといえば、そんなみんなの姿を一歩離れた所から見つめ続けている。もちろん、わたしだって、パーティーは大好きだ。興奮の中に飛び込んで、心行くまで楽しむのは悪くない。でも、わたしは知っている。もっと大きな喜びがあることを。

あれは、小学校五年生のころ。女の子友達だけで、クリスマスパーティーをやったときのこと。ゲーム、お菓子、飾りつけ、それぞれが自分にできることを持ち寄って、それぞれがパーティーを盛り上げた。わたしにできるとことはと考えたのは、会場の提供。家族への遠慮からなのか、誰もが友達を自宅に招くことに躊躇していた。それならわたしがと、反対する両親のことなどよく考えもせず、手を挙げた。

目玉企画は、当時大流行した映画「タイタニック」のDVD鑑賞会。ちょっと「大人な」あの映画は、わたしたちの間ではあこがれの対象だった。別にみんなで観る必要もないのだが、大人の世界を垣間見る罪悪感も、みんなと一緒なら超えられると、メインイベントに決めたのだった。

そして、そんな場を、もっと盛り上げたいと、わたしがひそかに計画していたのが、手作りのクッキー。友達たちが、ゲームに興奮したり、おしゃべりに花を咲かすなか、わたしは、こっそりキッチンでクッキーを焼いていた。タイタニックの始まる前に、みんなに焼き立てのクッキーを出して、それをつまみながら、映画を見る。おいしい、おいしい、でも、泣けるね、みんなにそんな感情を味わってもらうなんて最高じゃないか、などと勝手に想像し、せっせせっせと準備を進めていた。

実際、わたし計画は、それはもう大成功。クッキーのおかげでパーティーは大盛り上がり。みんな、喜んでくれたし、映画も存分に楽しんでくれた。そして、そんなみんなの姿を見たわたしも大満足。クリスマスが近くなるたび、わたしの頭の中で、何度も何度も、リピート再生してきたシーン。

ふと思う。あのころのわたしは知っていたのだろう。わたしに最高の喜び、幸せをくれるのは、みんなが楽しめる場を作ること。誰もが、それぞれ自分らしさを発揮して、場を盛り上げていく。そんな場を提供することだということを。だから、両親に掛け合って、自宅を会場にしたんだし、みんなに内緒でクッキーを焼いたりもしたのだ。「場をつくる」、そんな明確な言葉として理解していたとは思えない。でも、間違いなく、感覚的に知っていた。

だから、高校生になったとき、わたしが野球部に入部して、マネージャーになったのは、すごく自然なことだった。もちろん、小学校の頃に憧れた漫画『タッチ』の南ちゃんの影響がなかったとは言わない。でも、それ以上に、選手たちが活躍する「場」を提供する役割に魅力を感じていたに違いないのだ。それなのに……

その憧れの役割の終わりは、意外にも早くやってきた。それは一年生も終わりに近づいたころだった。一言で言うなら、わたしは冷めてしまったのだ。決して野球強豪校とはいえず、どちらかといえば進学校というのが、わたしたちの学校だった。部員たちは、それでも、諦めず、コツコツと練習を積み重ねていた。頑張れば、努力を重ねれば、きっと甲子園という大きな目標にだってたどり着ける。ある意味、バカになったかのように、自分たち未来を信じていた。

その頃のわたしは、ちょうど、将来のことで悩んでいた。中学では、それなりに上位にいたわたしも、進学校の中では、成績は伸び悩んだ。こんな成績では大した大学には進めない。実際のところ、野球部のマネージャーはとても忙しくて、毎日、疲れ果てて勉強どころではなかった。それに、野球部でのマネージャーという経験だって、こんな中半端な学校での経験じゃ、なんの実績にもなりはしない。

このまま、ただの憧れという理由でマネージャーを続けていてもいいのだろうか。人に活躍してもらう前に、自分自身が、ちゃんと活躍できるようになるべきじゃないのか。そんな悩みを抱えながら、必死で練習を重ねる部員たちの姿を見ていると、いったい、彼らは、何のために時間を費やしているのだろう。いや、それは、わたしも同じことか、と気持ちがどんどんと離れてしまった。わたしは、退部を決意した。

ただ、その後、わたしのいなくなった野球部には、誰も予想できない展開が待っていた。コツコツと妄信的に練習を積み重ねた彼らは、少しずつ実力を蓄え、三年生の夏の大会で大躍進を遂げた。甲子園には届かなかったものの、甲子園の常連校を破り、県ベスト4まで勝ち上がったのだ。

もちろん、ラッキーとしかいえない要素がいくつも重なっていた。ただ、そこには、運も実力のうち、胸を張って堂々とそういえる練習量が伴っていた。敗れはしたものの、誇らしげな彼らの姿に、わたしは、なんだか、とんでもなく重要な人生の真実を突き付けられたような気がした。

「人生にジャイアント・キリングは起こせる。どんな馬鹿げた目標だって、たどり着けると信じて、馬鹿みたいに突き進めば、奇跡が起こる」

そう、そんな使い古された言葉が、わたしの中で、ズシリと重みをもった。そして、そんな事実を突き付けられ、動揺している自分が情けなかった。そう、わたしは、悔しかったのだ。

人生は何度だってやり直せる。今度こそ、わたしの人生にジャイアント・キリングを。そんな思いがあったのかわからない。ただ、あのとき、誇らしげな顔をした彼らを見返してやりたい、そう思っていたことだけは間違いない。大学入学と同時に、わたしは、強い決意を胸に、野球部への入部を決めた。「場を作る」マネージャーの再スタートだった。ただ、人生はそんなに甘いものではなかった。結論から言うと、わたしの挑戦は、またしても挫折に終わった。

わたしの入ったのは、いわゆる都リーグの優勝常連校。そこにはいたのは、野球のエリートばかりだった。もちろん、わたしの役割はマネージャー。選手たちがエリートというのは、直接わたしに関係がある問題でない。

ただ、そこには、これまでのわたしの知らなかった世界があった。才能を持った者たちが競い合う本物の競争世界。「馬鹿みたいに目標を信じて努力する」そんなナイーブな考えが通用するほど甘い世界ではなかった。いや、より正確に言うのなら、馬鹿にみたいに目標を信じて努力するのは当然の世界。そのうえで、才能、めぐり合わせ、運、そんな何か(それともそれらすべて)が必要な世界だった。

将来を期待され入ってきたばかりの一年生が、上級生を押しのけ、アッというにレギュラーを獲得する。そうかと思えば、不運な事故から、それまでの花形選手が、消えていくように引退を決意する。確かにそこには、光があった。それはもう眩しくて目も眩むほどの光があった。ただ、同時に、影の色も濃かった。

そして、残念ながら、わたしがいたのは影の側だった。それは、わたしがマネージャーだったからというような単純な話ではない。その当時、わたしは自分進むべき方向性を完全に見失っていたのだ。

周りを見渡せば、「野球」という自分がやりたいことにまっすぐに進んでいくエリートたち。その裏では、挫折を味わいながらも、「野球」を通じ自分たちが得たものを次のステージに活かそうと新しい一歩を踏み出す者たち。どちらの存在も眩しかった。自分で自分を輝かそうとする彼らが羨ましかった。大学4年生を前に、わたしは、まるで逃げるかのように野球部を去ったのだった。

ふぅ。

知らない間に息を止めていた。果たして、わたしにとって「野球」とはなんだったのだろうか。もちろん良い思い出だってある。ただ、いざこうして思い返してみると、浮かんでくるのは挫折・嫉妬・敗北感、そんな言葉のほうが圧倒的に多い。まるで、野球という言葉には、人生の苦みが凝縮されているようだ。それなら、思い出さない方がいいのではないか。こんな風に書いていることに意味などないではないか。そんなもっともな疑問が頭をよぎる。

でも、違うのだ。わたしは知っているのだ。この道は何度も歩んだ道。迷ったとき、悩んだとき、わたしはいつもこの道を通るのだ。野球とは、いったい自分にとって何だったのだろうか。あの苦い経験が、わたしに与えてくれたものはなんだろうか、何度も、そう自分に問うてきた。

そして、そのたびに、気づかされる。この道は、わたしが通るべきだった道。すべてが「今のわたし」に至るために必要不可欠な経験。そして、改めて思い出す。こんな風に思えるようになったのも、すべては、彼女のあの一言のおかげだったのだと。

大学卒業後、わたしが初めに仕事を見つけた会社は、ワークライフバランスを重視した会社だった。正直なことをいえば、仕事の内容も、仕事以外の日常がどんな風だったのかも、あまり思い出せない。

悪い思い出はない。だから、きっとワークとライフのバランスはそれなりに保たれていたのかもしれない。とはいえ、そんな恵まれた環境にいることも理解できないほど、わたしはフラフラとしていた。やりたいことも、自分の活かし方もわからず、ただただ、さまようままに日々を過ごしていた。

それは、働き始めて3年ほどたったころ。その当時のわたしは、あいかわらず、焦点の定まらないままだった。ただ、仕事という意味では、それなりに成長し、やりがいを感じ始めていた頃だった。そんなある日、当時の上司が、何を思ったのか、こんな言葉をかけてくれた。そして、思えば、それが、わたしの人生のターニングポイントになった。

「馬鹿みたいに目標を信じて、コツコツと努力することが大切なこと。でも、そこには、必ず人生の光と影があるということ。そして、それでも人は、自分らしく輝けるということ。

あなたが、高校、大学と人生の早い段階で、身をもって学んだことは、とても価値がある。だから、その経験を風化させないで、誰かに伝えていってほしい。あなたの言葉には、彼らの人生を豊かにする力がある」

果たして、彼女がなぜ、こんなことを言ってくれたのかは、今でもわからない。だいだい、過去の経験を語るほど、彼女と近い距離だったのか、それの記憶だってあいまいだ。ただ、その言葉をかけられたときの、感覚は、いまでもはっきりと思い出せる。

なんだ、やっぱり、結局、そこなのか。

彼女の言葉を聞いたとき、わたしは、ぐるっと周って、元に戻ってきた感じがしたのだ。

勘違いしないでほしい。わたしはがっかりしたわけでない。むしろ、力がみなぎるというのか、自分の中にある一本の軸を再確認できたというのか。それまで、ふらふらと定まらなかったわたし。でも、わたしの進むべき道は、やっぱり自分の中に合ったのだと、自分で自分を信じられるような気がしたのだ。

そう、わたしがやるべきことは、場を作ること。人が、それぞれの力を発揮し、輝ける場所を作ること。それを、どうすれば、そんな場を作り出せるのか。その後、しばらくして退職を決意したわたしは、学問として、このテーマを扱うことを選んだのだった。

実際、大学での研究は面白かった。これまでの人生に対して、複雑な思いがあるからこそ、テーマに真剣に向き合えた。いわゆる学問・研究として扱うだけではなく、実践の場でどう活かせるのか。わたしは精力的に動きまわった。

学生とのやり取りでは、どのような声掛けをすれば、彼らがより積極的に発言し、人生の出来事に対し、より自分ごととして取り組めるのか、様々なアプローチを試みた。研究が進み、指導教官としての立場についてからは、チャンスがあれば、全国どこへでも行き、これまで会ったことのないバックグランドの学生たちと積極的に交流した。

さらに言えば、その実験対象は、同じ指導教官や教授たちにも広げてみた。学部内での指導方針などを話しあう場で、質問の仕方、発言に対する反応の仕方など、あらゆる角度からのアプローチを行い、彼らの反応を観察した。

その過程でカウンセリング、コンサルティングというものに出会い、それぞれの考え方、人間というものの捉え方に感銘を受けた。最近のお気に入りは、コーチング。これもまた、これまでわたしが知らなった切り口を見せてくれる。特に、人が人生において信じているもの、「価値観」に触れられたときは最高の喜びを感じる。

そんなすべての経験が、わたしの肥やしとなり、わたしの人生にさらなる深みを与えてくれている。だから、これだけは、はっきりと言える。間違いない。わたしは、充実した時間を過ごせている。学生たち、教授たち、それから、コーチングを学ぶ仲間たち、そんな人と人の間にいるすべての時間が、わたしを満たしてくれる。そう、わたしは幸せだ。ただ……

ただ、ふと思うときはある。

あのときの上司のあの言葉。あれから何年たったのだろうか。正直を言えば、わたしは、まだ道半ばである。学生たちは確実に変わってきている。あんなに頑なだった教授たちだって、なかには、わたしのやり方に賛同する人だって現れた。でも、どうやったら、人がそれぞれの力を発揮し、輝ける場所を作れるのか。その問いに対する答えはまだ見つかっていない。方法論として確立したとは、とても言えない。

ふぅ、ため息が出た。

こんなに、たくさんの人たちの笑顔に囲まれて。わたし自身が輝く場所は作れたのに……と思ったとき、ハタとした。

いや、違う。わたしはすでにできている。明確な言葉にはできないかもしれない。でも、感覚的にできている。わたしの周りには笑顔があふれ、それぞれが、それぞれに輝いている。そして、それを見るわたし自身も幸せを感じている。誰もが自由に踊り、それを見るわたしも踊り出したい気分。みんなが輝き、わたしも輝く場所は、すでにここにある。

ふと浮かんだのは、あのクリスマスパーティーのこと。あのとき、わたしは動いていた。自宅を会場として提供したときだってそうだ。タイタニックのお供として、クッキーを焼いたことだってそう。わたしは、考えるより先に動くタイプなのだ。動きながら答えを見つけるタイプなのだ。

だから、これでいいのだ。今はまだ、言葉にできなくてもいい。でも、きっと動き続ければ、言葉は必ずあとからついてくる。そのことは、野球の経験が証明してくれている。だから、わたしは動き続けようと思う。わたしが輝けるように、感じたままに、動き続けようと思う。そうすれば、周りは自然と輝き出す。そう、わたしは、ただ、クッキーを焼けばいいのである。そうすれば、わたしは、人を輝かせられる。今は、そう信じられる。

どこからか、甘い香ばしい香りしたような気がした。人生のジャイアント・キリング、わたしは、今、その真っただ中にいるのかもしれない、そんな風に思った。
(この話はフィクションです)

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