見出し画像

紙芝居のおじさん

元ブログ、2015年08月19日の記事を、若干の加筆修正をして載せます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

駄菓子屋はきっと探せばまだあると思うが、あっても行くことはないと思うこのごろ。でも、小さい子供の口にはとても美味しく夢のようなものばかりだった不思議。

ワタシが幼稚園くらいのとき、夕方になると紙芝居のおじさんが近くの児童公園に来た。

おじさんは紙芝居の箱と、水あめ、せんべい、チョコレートソースを載せた自転車を公園に置き、チンドン屋さんとは違う叩き方で太鼓と小さな鐘を鳴らし、地区を回る。その音を聴き、子供たちがどこからともなく集まり、おじさんの後ろを付いて歩くのだ。

長い列が出来てやがてもとの公園に戻る。最初から公園で待ち構えていた子供たちも駆け寄ってくる。

紙芝居は随分時代がかっていて、絵もかなり古く、さらにはストーリーも前回の続きなのかどうかよくわからないのであった。

子供たちは紙芝居より、その後の買い物を楽しみにしていた。10円で水あめか、チョコレートせんべい、たった二種類の買い物。

どちらにしようかいつも悩んだ。 我先に駆け寄ってきた子供たちも、誰いうともなく整列して順番を待つ。

割りこもうものならたちまち弾かれ、ルール違反の子に鋭く厳しい声を飛ばすのも子供たちであった。

薄いせんべいにチョコを塗ってくれる。

水あめは割り箸に取ってくれる。

ぐるぐる回して真っ白にして食べる子供と、そのまま食べて透明感を楽しむ子供と。

いつも、その日自分が選ばないほうを選んだ子が羨ましく、明日は絶対あっちにしようと思う。

その明日になれば、またあっちが良かったと思う。

いっそ20円もらって両方買えばいいのだ、とか、たいした変わりは無いと思うのは大人の考え。

そのたった10円が実は大金なのであり、大人は10円以上与えることは決してしないのだった。正しく厳しい貨幣経済だった。

10円を毎回貰えて、それらを買える子ばかりではなかった。
そういう子達は紙芝居が終わると、恨めしげに、どこかすねたように寂しそうに、そして吹っ切るように走っていなくなった。

「買い物」が終わった子供ももう、おじさんも紙芝居もどうでもよく、三々五々散っていった。

今はどんなものでもそこそこ手に入る。自分でケーキを焼いて、我が子に食べさせるなんて、随分贅沢なこととも思う。

水あめはおじさんが練り上げて来るようで、ペコペコ凹んだアルマイトの弁当箱に入っていた。
10円で買う水あめは、今の子供の口に合うだろうか。
今の親なら、怪しい、汚いと通報さえしそうだ。

しかしそれでお腹を壊した子などいなかった時代である。

ああいう時代を過ごした昭和の子供と、今の、ものに溢れ、与えられてばかりの子供と、どちらが幸せかなど野暮を言うつもりは無い。時代が違うのだ。

そして、あのおじさん。
たかだか10円の菓子を子供に売り、どんな生活だったのだろうか。それでも確かに子供たちの心にしっかり残る仕事をしていたとそれだけは思う。

おじさんは幼少期の一時、確か春と秋、ほんの何回か児童公園での縁である。いつぞやの夏は、町の神社の祭礼で見かけた。その時は「紙芝居」ではなく、何かのクジ、運試しのようなものだった

あの時の情景が鮮明に蘇る。普段忘れていてもだ。
セピア色になってもいない。
色あせた紙芝居や、つややかな薄いピンク色した水あめ、チョコ煎餅のチョコのやわらかさも甘さも、集まった子供たちのセーターの色も、おじさんが最後に必ず寄る公衆トイレのコンクリートの色も、キーコキーコと音を立てて鳴るおじさんの商売道具を積んだ自転車も・・・・。

夕暮れ、「その日の仕事」を終えたおじさんは、必ず公園のトイレでゆっくり時間をかけて用を足し、帰っていく。

ワタシはいつもそれを見届け、その後はまっしぐらに走って帰った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?