なぜ私が今noteを始めるか
今noteでは読書の秋2022というイベントをやっているらしい。
読書感想文と言う言葉で、嫌でも私が1番最初に思い起こすのは、高校1年生の時に校内で優秀な読書感想文の一つに選ばれたことである。
選出されると言ってもプリントされて全校生徒に配られるだけである。なお配られる前に選出された生徒は呼び出され、プリントで配って良いかどうか確認されるのだが、その時に私はある理由から断固拒否した。結果としては聞き入れてもらえず公開されることとなるのだが、強く拒否したのに単なる謙遜と思われたのは、おそらく固辞する理由について説明できなかったのが大きいだろう。
まもなく校内で配られることになったが、私が懸念していたような事案もなく、ましてや感想を言われることもなかった。誰も読んでいなかったのかもしれない。スクールカースト最下位の私は、誰からも関心を示されないという特権を保持していたのである。(余談だが倫理の授業の発表で先生にかなり誉められたのにも関わらず、他の生徒同士がそれぞれに感想を伝え合う中、私1人静かにしていたこともある。)
さて、私がなぜ読書感想文を公表されることを強く拒んだのかというと、Amazonのレビューを上手いことまとめて感想文っぽく仕上げただけだからである。(単なる宿題だし、20年近く前のことでもう時効だろう…ということにしていただきたい。)
レビューを丸写ししたわけではないので、感想文の一部に検索をかけても出てきづらいとは思うが、もしこの本の読者がAmazonのレビュー上位何件かを読んでいたならまず気がつくはずだ。
16歳の私はただ夏休みの宿題を出せれば良くて、文章を考えるのが面倒だったのだ。
優秀な読書感想文に選出したのは国語の先生方だったが、気がつかないのは今思うと僭越ながら滑稽にも思える。ニッチな本の感想ならまだしも、何点かしか用意されてない学校の推薦図書だったのだ。
あの時本当のことを伝えていたらどうなっていただろうか…。おそらく先生方はプライドを逆撫でされて、選出を取り下げて宿題のやり直しさせるだけでは済まされなかっただろうから、やっぱり言わなくて良かったと思う。
約20年程前既に高校生全員が携帯電話を持っているのが普通だったくらいのネット環境ではあったが、昨今のネットの依存度の高さや論文wikiコピペや宿題代行など多くの問題が多く知られる今、同じことをしたらすぐバレるだろうか。やっぱり国語の先生を持ってしてでもバレないのだろうか?
仮にバレなかったとしても今私が高校一年生の時に戻れるなら、レビューをまとめるのではなくありのままの感想文を書くだろうと思う。悪いことをしたくないからではなくて、きっとその方が楽しいのだ。体育が嫌いだった私が大人になって運動に楽しさを覚えたみたいに、今は文章を書く楽しさを知っているから。読書感想文なんて面倒くさくてかったるいと思っていたけれど、本当は文字を書き連ねることに制限なんてなくて、誰にとっても平等に自由に創造性を発揮できることを知っているから。もし周りを気にせず固定概念に囚われず、自由に私の気持ちを表現できていたら、楽しいだけじゃなくて私の学生生活そのものが変わっていたかもしれない。それほど言葉を紡ぐことの可能性が無限大なことを、今の私は知っている。
だから私はnoteを始めようと思う。
Amazonレビューを上手いことまとめてドヤってた高校一年生の私に、本当の文章を書く楽しさを教えるために。
(ちなみに高校2年生の時は、引用まとめはやばいと学習して、推薦図書の最初と最後だけちょっと読んで適当に感想文を書いたのであった。こちらは期限をとうに過ぎて提出したためそもそも選出する可能性すらなかったが。)
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