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読了記録/ノルウェイの森

雑記

私の父は新作が出れば必ず購入はする(読むとは限らない)という程度には村上春樹を好み、彼がたしか大学生の頃に読んで衝撃を受けた本なんだと教えてくれたのがこの「ノルウェイの森」だった。
"父が影響を受けた本"というのは私にとって大層魅力的で興味を唆られるもので、当時高校生だった私が本屋さんで文庫版を購入した時に感じた高揚感をいまでも覚えている。


購入した勢いそのままに1度読破し、わたしはこの「愛と喪失」の物語に衝撃を受けた。
なんと切なくなんと心を揺さぶる小説なんだと。
そこから報われない愛の物語を好むようになり、大崎善生さんの本と出会った…というのはまた別のお話。
とまぁ父と同じように私もこの本に確かな衝撃を受けたのであった。それから私の1番好きな本という枠にこの小説は収まり、その後ふと手に取って読み返すことはあったが、2度目の読破は大学生の頃だった。


この度恐らく3度目の読破を果たした。そして思い出した。読み終えた直後の酷く混乱し何処かに放り出されたような感覚。物語が主人公が途方に暮れた状態で終わってしまうんだから、同調するわたしの心は全く同じような状況になってしまうわけだ。
やれやれまったく。

基本的にわざわざ読み返す本というのは自分がその本の"なにか"を求めている時で切迫感に近い感覚で手に取り、読み始め、途中で満足してしまうこともあるのだけれど。今回は読み切らねば、一体全体どんな話だったのかを思い出さなければという切迫感だったから、通勤の車内で耳読し家に帰って余裕があれば文庫に戻って読み進め、そして今日読み切ってやろうと読んでしまって、読み切ったいま迷子になっている。

自分が何処にいて何をしないといけないのかとかそういうことがすっかり分からなくなってしまった。
こんな風になりたくて読みたくなるのかこんな風になることを忘れてしまってるからたまに思い出せと潜在的に命令されてるのか分からないけれど、何度読んでも哀しくて辛くてどうしていいのか分からなくて、どうしようもない気持ちになる。


キズキもハツミさんも直子もみんなみんな素敵な人なのに、僕は君たちのことをとても気に入っているのに、どうして置いて行ってしまうんだ。緑のお父さんは死期が近い事が分かっていても、それでも急にふっと逝ってしまう。置いていかれる。それでも僕は生き続けるしかないのだ。

置いてけぼりは僕1人ではない。ひとりぼっちではない。レイコさんだって緑だって血の通った体温のある生身の人間で同じような喪失を抱えて、 感じて、寄り添ってくれる人だ。
だけど死者は自分の魂の一部を持って行ってしまう。読んでいて本当に"自分の魂"が持って行かれたような感覚に陥るし、喪失と悲しみに襲われる。突然なのだ。失うというのは。

"僕"がそうだったように、自分が今何処にいるのか分からなくなってしまう。そんな感覚にまで引きずり込まれて、混乱して、そしてゆっくりとじんわりと自分の現実の世界に戻っていく。

混乱が少し落ち着いてきた。


初めて読み切った高校生の頃と変わらない。怖い。ここまで自分が引きずり込まれていく物語は。
久しぶりに何かに"没入"した。この没入感を欲していたのかもしれない。

この本は教えてくれる。
「死は生の対極ではなく、生に内包されているのだ」という考えは、「草原にふと現れる底が見えない井戸に柵はなく落ちてしまうことが確かにあるのだ」ということは、そして「いつだって喪失は突然訪れるのだ」という哀しい事実は、決してフィクションではないのだ。生き続ける限り己の身に起こりうる、降りかかる「現実」なのだと。

自分の人生に必要な本なのだと、改めて思った。

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