人生を棒に振る簡単なやり方

自分の人生を簡単に失うやり方をご存知でしょうか。ネタバレをすると「他人の人生を生きる」ことです。さらに細かく分類すると①他人の目を気にして生きること②他人の人生を気にして生きることの2つに分けることができます。このnoteでは②の「他人の人生を気にして生きること」が如何に自分の人生を失うことに貢献しているのかということについて私の考えを書いていきます。


自分に関係あることと関係ないこと

メディアは「○○市で事故があった」やら「○○な事件が発生」といったニュースを流す。我々人間は多少なりとも「大変だ」とか「気の毒に」とか感情が動く。でも冷静に考えると、それって自分の人生にどう影響を与えるのだろう?という思考に行きつく。

酷いとか無慈悲とか言われるかもしれないが私は常々そのように考えている。仮に、全ての悲しいニュースに反応する人間がいるとしたら、1年間で5500万人の死者がいるこの世界に生きる以上、1日15万回以上悲しむバグ人間が出来上がるはずだ。

ここまで誇張した表現を使うと「そんな人間はいない(笑)」などと思うかもしれないが、私から言わせれば前述したニュースの例で感情が動いている人間はそんな状態に見える。

別に悲しむなと言いたいのではなく自分の感情(人生)を割くべきかどうかについてはきちんと考えたほうがいいと思うという主張だ。


暗い話をしますが・・・。

新型コロナウイルスの影響で数々のニュースが蔓延っている。給付金がどうだとか対策がどうだとか。その一つ一つに耳を傾けてはやれ補償しろだの、やれこの政策は失敗だだの、私から言わせればどこに人生使っているんですかって話だ。

ここで「給付金については自分の人生にかかわる!」という反論を貰うだろうと思うが私が言いたいのは「そのニュースに一喜一憂して貰える補償が変わるのか」ということだ。

もう一度言うが「自分の人生をどこに使うか」というのは、今の我々に一番求められている価値観なのではないだろうか。


「このnoteで考えさせられた」

「考えさせられた」は実は少し前の私の口癖だ。考えるきっかけというかトピックを貰っている状態なので自分の頭を動かすいい練習になるし、自分なりの意見を持つこともできる。いいことだ。


以前の私はそう思っていたがいまは違う。厳しいことを言うようだが「考えさせられた」という言葉は普段どれだけ自発的に考えていないかを表す言葉である。いつも自分なりに頭を使って自分の人生を生きている人からはそんな言葉は出ないと今では考えている。


私はすべての人間に自分だけの素敵な人生を謳歌してほしい。


ご高覧ありがとうございました。



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