見出し画像

親として、子どもにしてあげられること。

「子育てに正解はない」と言うけれど、だからって、どんなことをしてもいいと言うことではないですよね?


また、「一人ひとり、個性を持った子どもなんだから、一つの方法なんてないと」も言えますよね。

けれど、大人一人で、0歳児は3人の子どもを、1.2歳児は6人の子ども、 3歳児で20人、 4.5歳児では30人を見ないといけないという国の基準になっています。

大人一人で、子ども見る人数は、それ以上を超えてはいけない。と言うことですが、そもそも、それ以上、見ることができると思いますか?

小学校に上がってからも同じですよね?

個性が大事とか、一人一人を尊重することを、現場に求められますが、求める前に、それができる環境なのか?と言うことを、まずは考えるべきではないかと私は思うのです。

そうする事で、親自身も現場に一存するのではなく、親として何ができるのか?ということを考えてもらえるようになるのではないかと思うのです。

私が、最後に居た保育現場では、“自律”した子どもを育てるというスローガンを掲げ、職員一丸となって、保育を高め合う為に、膨大な時間をかけて会議で話し合っていました。

私自身も、人間を育てる大きな担い手である保育者の仕事に誇りをもっていたからこそ、会議の場では保育を熱く語っていました。

しかし、語れば語るほど逆効果で、同僚との温度差を感じ、逆効果を感じました。

「子どものことを語っているのに、どうして、伝わらないのだろう?」
「私の伝え方が間違っているのか?」
「もっと同僚に認めてもらえるような私にならなければ、いけないのか?」

そう悩み続け、答えを探し続けた先に見えたのは、子どもの事を考える前に子どに携わっている大人自身のことを考えるべきだったと言うことです。

「子どもに関わる仕事をしたいと思った原点はなんだったのか?」
「今、どういう想いで、この仕事をしているのだろうか?」

「仕事だから、保育士だから、当たり前でしょ。」ではなく、

「その人が、どう言う思いで、毎日、仕事に来ているのか?」を考えることを見失っているのではないのか?」と言うことに目を向けるようになって行きました。

結局、「そこは要らない。そんな事をする必要は感じない。」という結論に達したので、

私が、自分の意思を貫こうとすることは、返って園が目指すところに邪魔をすることになると言うことがわかり、

自分の思いを届ける場所を変えた方が、自分にとっても幸せなことだと言う結論に達しました。

「森を見て木を見ず、葉を見て木を見ず」と言う諺がありますが

「子どもの躾ができていないのは、家庭での躾ができていないからだ。」

「子どもが話を聞けないのは、そんな保育をしているからだ。」と「森」の問題にしている発言を、会議では、よく耳にしましたが、

それを言っている側の人は、果たして、それが全て完璧にできているのでしょうか?

逆に、「躾は、こうしなければいけない」とか
「話を聞けるようにするに、こうすべき」と「葉」の説明もよく聞きましたが...。

まずは、「木」を見てみませんか?

自分の大切な子どもの未来を守るために、他人任せではなく、親として何をしてあげられるのか?

他人は、責任をとってくれません。

あなたは、子どもの素晴らしい可能性を、どれだけ知っていますか?それを可能性を開花してあげられるには、自分は、どうあるべきなのか?

まずは、自分自身の在り方からを見つめるところから、始めませんか?

親自身が変わらないのに、子どもにだけ変わるように求めていたって、そんな姿を見ている子どもは、矛盾を感じるのも当たり前ですよね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?