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「何百年と続くために、変化に敏感でいたい」 聖護院八ッ橋総本店・鈴鹿可奈子専務

皆さまこんにちは!「八方良菓の京シュトレン」でお世話になっている方を訪れる「八方良菓の取材紀行」。今回は生八ッ橋の製造時に切り落とされる耳の部分をご提供いただいている「聖護院八ッ橋総本店」の鈴鹿可奈子専務を訪ねてきました。

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「京都行くんやったら、帰りに生八ッ橋買ってきてな!」
昔、家族の誰かが京都に行くと言えば、私は決まり文句のようにこの台詞を言っていた。

独特なニッキの香りがするしっとりとした生地の中に、優しい風味のあんが包まれた生八ッ橋。
なかでも虜になるほど美味しいと感じる八ッ橋の包装紙には、大抵「聖護院」の文字が刻まれていたような気がする。

「八方良菓」の京シュトレンには、仕上げの粉砂糖の役割を果たす存在として、聖護院八ッ橋総本店の、製造過程で切り落とされてしまう生八ッ橋の耳が使用されている。洋菓子なのに、一口食べた瞬間から京都らしい風味を感じるのは、きっとこの生八ッ橋のおかげだろう。

今回は、聖護院八ッ橋総本店で、専務取締役を務める鈴鹿可奈子(すずか・かなこ)さんに、会社の歴史やポリシー、そして新しい挑戦について伺った。

創業から300年以上、愛され続ける理由の裏には「ブレない軸を持ちながら、変化し続けること」を大切にする姿勢が見えてきた。

聖護院八ッ橋総本店

地元でつくり、地元の人たちが気軽に食べるお菓子としてあった八ッ橋

聖護院八ッ橋総本店の創業は、1689年、江戸時代にまで遡る。

鈴鹿さん:お琴の名手で近代筝曲の開祖といわれる八橋検校さまが亡くなられ、黒谷の金戒光明寺の塔頭のひとつである常光院に葬られたことから、参道である現在の本店の場所にてお参りに来られる方々に検校さんを偲んでお琴の形をした八ッ橋をつくったことが始まりだと言われています。

現在は八ッ橋の知名度が高くなっているが、当初は生八ッ橋はなく、生地を硬く焼いた「八ッ橋」のみを作っていたそう。

鈴鹿さん:生八ッ橋が生まれたのは100年ほど前でしょうか。八ッ橋を焼く前の生地をしがんだりしていたのがはじまりではないかといわれています。だんだんとそれが進化を遂げ、生八ッ橋そのものでも美味しいものをと配合や原材料など独自のものに変わったのだと思います。1960年にあんこと合わせてみたところ好評だったことから餡入り生八ッ橋「聖」が生まれ、今ではそちらがスタンダードだと思われる方も多いようですね。

また、すっかり「お土産もの」というイメージがついている八ッ橋だが、本来は地元でつくり、地元の人が日常的に食べるお菓子としての認識が強かったという。

聖護院八ッ橋総本店・鈴鹿可奈子専務

鈴鹿さん:正式なお茶席で使われるような上生菓子ではなくて、日常のおやつで軽く食べられるお菓子です。京都では、おばあちゃんの家に行けば、必ず八ッ橋の缶が置いてあるような、そういった感覚です。

明治時代、正岡子規が書いた手紙の中には「京都に八ッ橋というお菓子があり、美味しいから買って帰った」ということが書かれており、その言葉からも、当時は特にお土産ものといった認識はなかったことが伺える。

鈴鹿さん:おみやげという認識が強くなった背景には、京都駅ができたことが大きく影響しています。京都駅で八ッ橋の立ち売りを始めて、それがきっかけで京都以外の方にも知ってもらえる機会になりました。

しかし鈴鹿さんは、地元でつくられ、地元で消費されてきた八ッ橋本来の姿も後世に残していきたいと考えていた。


八ッ橋の中身は変えずもう一度地元の方にも親しんでもらえるお菓子へ 鈴鹿さんの挑戦

鈴鹿さん:私が入社した当時、地元に住む若い世代の方は、自分のために八ッ橋を買うことが少なくなっているように思いました。

いつのまにか「お土産もの」というイメージが一人歩きし、地元の人との距離ができてしまった八ッ橋。鈴鹿さんは、もう一度八ッ橋の原風景を取り戻そうと、ある挑戦をはじめた。

鈴鹿さん:これまでずっと同じ包装紙を使っていたのですが、季節によって包装紙を変えてみたんです。私たちの会社の理念として、長年私たちが作るものを愛してくださるお客様がいらっしゃるので、商品自体を大きく突然変えることはしません。日頃八ッ橋が常に横にある方々にも、また季節を変えて何度も京都に来てくださる方々にも、楽しい仕掛けが出来ればと考えました。

鈴鹿さんの想いは見事に地元の人に届き、「包装紙が季節で変わって新鮮な気持ちで買えることはもちろん、いつも美味しくて安心できるものだから、中身を変えないでいてくれて嬉しい」という声が多数届いたという。

その後は、八ッ橋を素材としても楽しんでもらいたいという想いから、様々な食材と合わせる楽しみを提案するブランド「nikiniki」を立ち上げ、地元の人たちに八ッ橋の新たな可能性を知ってもらう機会を多数つくっている。

鈴鹿さん:軸はブラさずに、変化には敏感でいたいといつも思っています。安居さんとの取り組みも、そういった想いから始めたものでした。

事業を続けていくために環境のことを考えるのは当たり前
変わっているというよりは昔に戻っているのかもしれない

大量生産・大量消費の時代、八ッ橋の製造過程で切り落とされてしまう耳の部分を見ながら、「もったいない。何か使い道はないものか」と考えていた鈴鹿さん。

鈴鹿さん:事業を続けていくために地球の将来を考えることは欠かせません。昔は、切れ端も袋に入れて販売していたそうですが、すぐに硬くなってしまうこともあって、改めて実験してみてもあまり美味しいものではありませんでした。余ってしまったものを使って、さらにいいものを作れないかと思っていました。

そんなときに「八方良菓」のシュトレンづくりへのお誘いをもらった鈴鹿さんは、二つ返事で食材提供を引き受けたそう。

鈴鹿さん:真面目にフードロス問題と向き合おうと思えたのは、安居さんとの出会いが大きかったです。なにかしなければと思いながらも、アクションの起こし方が分からなかった。その方法と勇気を安居さんから教えてもらった気がします。

鈴鹿さんは「八方良菓」との取り組みを皮切りに、八ッ橋の切れ端を使ったデニッシュパンを「京都祇園ボロニア」と開発したり、切れ端を練りこんだアイスバーを開発したりと、余った八ッ橋の活用法を次々と生み出している。さらに八ッ橋が生まれるきっかけとなったお琴の名手・八橋検校さんが目が不自由だったことから、聖護院八ッ橋総本店では以前より障がい者雇用に先代社長の時代からずっと力を入れてこられたという。その点でも福祉作業所と製造連携する「八方良菓」との親和性が感じられる。

「京都祇園ボロニア」と開発された「はんなりデニッシュ 聖」

鈴鹿さん:アクションは起こさないといけない、そして起こすと何か未来が見えてくることを学びました。近年、京都の食分野全体でサーキュラーエコノミーを実践しようという機運は高まってきています。私たちのような老舗企業が率先して動くことで、つながりが生まれ、どんどんアクションが大きくなっていけばな、と。

変わってきているというよりは戻ってきているのかもしれないですよね。元々日本文化ってそういうものだと思うのです。八ッ橋も折れているものは近所の方にお配りしていましたし、使い捨てではない「通い箱」の習慣もありました。食事は残さず感謝していただく「もったいない」の精神は日本の文化のそもそもの教えじゃないですか。そこに立ち返るような取り組みを今後も率先してやっていきたいです。

後書

「竹のようにしなやかな人だな」
鈴鹿さんの話を聞きながら私はそう思った。「伝統を守りながら美味しい八ッ橋をつくり続ける」という太い軸はぶらさずに、時代や環境に合わせながら少しづつ売り方を変化させていく。
変わらない安心感と変わっていく頼もしさ、その両方を兼ね備えているからこそ長く愛されるのだ。

「余ったものも全て商品にする」そんな時代の当たり前を、聖護院八ッ橋が京都の地で先頭に立って築いていく。

企画・撮影・取材 安居昭博
執筆・取材    能勢奈那


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