見出し画像

忘れる順番

声から忘れる。
次に顔が思い出せなくなって、
最後に、思い出を忘れる。

亡くなった人のことを忘れる順番。
これを始めて目にしたのは、祖母が亡くなった大学4年生の頃だったかと思う。


「次はいつけぇってくるんだ」

ゴールデンウイークに帰省した私に祖母が問いかけた。

中学校に打合せに行くから今月もう一回帰ってくるよ!
6月いっぱいは教育実習だからずっと一緒にいられるよ。

「そうか。」

それから10日後に祖母は亡くなってしまった。


2007年3月。
私は初めて沖縄に旅行した。
なんでそうなったか詳細は忘れてしまったが、「あっこちゃんは沖縄にいった方がいい」という声楽の師匠の一声で決まった。
晃子にはばあちゃんがお金だしてやるからと言われ、師匠とスタジオの生徒さん家族との3泊4日の沖縄旅行があれよあれよという間に決まっていたのだった。

祖母は沖縄は国頭の生まれ。戦時中17歳で上京、三菱重工のボイラーマンをやっていた祖父と出会い、終戦後千葉にお嫁に来たそうだ。
沖縄へは1970年の海洋博のとき1回しか帰っていないと言っていた。

沖縄旅行の目的は祖母の代わりにお墓参りをすることだった。
祖母の姉さんの子、つまり祖母の甥っ子で父のいとこになる方と待ち合わせをしてお墓に向かった。このご夫妻は一度千葉の家に来てくれたことがあり、久しぶりの再会を喜んでくれた。
簡単に線香だけあげさしてもらえればと思っていたのだが、祖母の弟のお嫁さん(初めて会う)も一緒に来てくれ、ウートートゥをし、線香をあげ、最後に亀甲墓の前で皆でジュースを飲みながらサーターアンダギーを食べるという沖縄の正式なお墓参りをさせてもらえた。


お墓参りの後は那覇に戻りユタさんに会うことになっていた。スタジオの生徒さんが以前見てもらったことがあり、紹介してくれていたのだ。
ユタとは霊能者さんのイメージが近いかもしれない。霊視をしたり、一族の祀りを取り仕切る人らしい。

「あなたのお父さん、もう一人きょうだいがいるよ」

思いもよらぬ言葉をもらった。
私の父は2人の姉がおり、3人姉弟の末っ子だ。もう一人いたなんて話を聞いたことが無い。

いつものようにゴールデンウイークは実家に帰り、沖縄の話を祖母に話して聞かせた。
初めはあほさぁ!そんなのいねぇよと言っていたが、「山から転がり落ちて流れちゃった最初の子はいるよ」と話してくれた。

それだ!
うちのお墓がある墓地の入口に水子供養のお地蔵さんがあったはずだ。あそこはいつも色鮮やかな風車が刺さっていた。そこに私が代わりに行ってくるよと伝えた。

「畑にしきびが生えてるからそれ切って持ってけ」

お賽銭とおさごとお線香としきびを持って正蓮坊へ向かった。
祖母の代わりに。

「晃子ありがとうなぁ。ばあちゃんは嬉しいよ」

ずっと胸にしまっていた記憶だったんだろうか。
私が沖縄に行かなければきっと果たされなかったお墓参り。

祖母が亡くなったのはそれから10日後だった。


祖母は私が生まれる頃からずっと膝が悪かった。晩年は外を出歩くことはほとんどなかった。いつもマッサージの先生に家に来て施術してもらっていたのだが、亡くなる1週間ほど前から先生はしきりに「長谷川さんが変だ、いつもと違う」と言っていたらしい。

間に合った…のかもしれない。
それか、もう思い残すことは無くなったのかもしれない。
あのとき沖縄に行けてよかったと思っている。


祖母が亡くなってから13年経った。
今でも忘れていないか、折にふれ耳の奥に隠れている祖母の声を探り出す。
よかった覚えてた。
毎回そう思い安堵するのだ。


画像1


この記事が参加している募集

最後までお読みいただきありがとうございます。娘のおやつ代にさせていただきます…!