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自殺について――徹底的〈不可解〉について

死にたい。いや、少なくとも、生きたくない。しかし、その意識だけで死ぬことはなかなかに難しいらしい。
そもそも、私は死をどこか理想的に見ているところがある。単純に、生存が世界だとすれば、死は世界の外である。そこへ飛び出したい、と希うことは、通常の他人から見ても何の不思議もないだろう。

しかしながら、生存を世界とし、死を世界の外とするのは、いささか単調なものの見方である。
たとえば、時は明治、藤村操という哲学青年が「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、『不可解』」と書き残し、自殺した。だが、もしも万有の真相が不可解ならば、その不可解はまさにそれを選択する己にまで浸潤しているはずであり、よって自殺の動機にはならぬと思われる。そのため、藤村の自殺は精神病理的であったとの考察も、相応な説得力がある(堀正士「藤村操の「哲学的自殺」についての 精神病理学的一考察」を参照)。
しかし、それでも私は藤村に共感する。その自殺が精神病理的ではないと言いたいわけではない。私はそれが外界的なものの見方であり、世界を背負う実存としての(内界的な)表現に欠けることを指摘したいのである。

そもそも、万有の真相が不可解であるとは、世界が不可解であるということである。こうした形而上的な判断要請は、決してあらゆるものを完璧に説明するわけではない。正確には、その事象の性格について説明することはできるが、その事象の関係性にまでは踏み入ることができない。唯物論は人間の心を説明するが、その関係性にまで踏み入れないのと同様である。しかし、これは逆に、その関係性を残しつつも、それ以外のすべては判断要請に収れんするともいえる。この作用のことを「形骸化」と呼ぼう。
こうした形骸化は、形而上には無限であると同時に、形而下には虚無でもある。「不可解」を例にとるなら、世界は万物を不可解たらしめるものの、同時に不可解であるはずのものがそのように表現することができている。そうして、その達成した表現をも無限は収れんし、(しかし)それは記述されてしまうだろう(不可解性の虚無化)。だが、これは「せめぎあい」にはならない。常に勝っているのは形而上にある無限の側である。不可解とは形而下にとって(形を持たない)純粋な力動であり、それを表すことはできないためである。では、このような中で、自殺する主体となる自分はどこにあるのか。
実は(この「実は」とは、内界/「外界」への脱出ではなく「内界」/外界へと潜ることを表している)、自分という主体は、こうした「せめぎあい」もどきからも外れた形而下の内容の場にいる。当然「自分」は形而上にとって形骸化されており、世界にとって本質的ではない。だが、まさに本質的ではないからこそ、「自分」は世界と断絶し、世界と関係のない「かたち」(関係性)を保つことができている(しかし「自分」は常に世界との「せめぎあい」もどきに加わることもできない 「自分」がせめぎ合うのは〈不可解〉そのものではなく「不可解」という記述である)。この形骸化を経て残った「かたち」のことを「自覚」と呼ぼう。

「自覚」は、形而下の内容でありながら形而上に収れんしないという性質を有する。これは形而上の内容でありながら形而下に収れんしない世界(〈不可解〉そのものは「不可解」によって記述できない)とは逆の性質である。また、世界はその(〈不可解〉と「不可解」の)「せめぎあい」において常に勝利していた(それはもはや自明だから「せめぎあい」は疑似的なものである)が「自覚」はその(「不可解」と「自覚」の)「せめぎあい」において常に敗北している(この場合もそれはもはや自明なものだから「せめぎあい」は疑似的なものである)。よって「自覚」が自殺をする道理は世界にはない。しかし、形骸化によって「自覚」はもはや世界と関係のないものである(関係するのは、ただ「敗北している」、また世界にとってそれが非本質的であるということにおいてのみである)。ここにまず「自覚」が虚構的にならざるを得ない第一の要因がある。形而上が形而下に照射され虚構的にならざるを得ないのに対し、「自覚」は形而上から逆照射されそれを虚構的にする。このことはまさに世界を〈不可解〉とするに値する事象だと思う。
次に、他者との関係性により「自覚」が虚構的にならざるを得ない第二の要因がある。「自覚」にとって、〈他者〉は希求せざるをえない存在である。なぜなら、世界にとって「自覚」は虚構なのであり、その徹底的かつ絶対的な力動から逃れることを試みるためには〈他者〉によって世界を「開かれる」必要があるためである。しかし、世界に〈他者〉はいない。ここに「自覚」が(世界の転倒を試みる)死を望みだす萌芽が見られる。だが、このような苦悩に苛まれる人間を他人から見れば、彼が何を悩んでいるのかわからない。なぜなら、まさに他人が彼にとって〈他者〉であるために、その世界を「彼の世界」に置き換えてしまう。他人にとって「彼の世界」は更に非人称的な世界に包摂されるものであり、よって「彼の世界」における問題は端的に疑似問題である。これが(自覚が虚構的にならざるを得ない)第二の要因、〈他者〉からすれば「自覚」はなにごとでもないということである。
このような二つの要因から「自覚」は窮地に追い込まれる。いや、実際には既に(このときの既にとは「時間的視点にかかわらず現に」ということを指す)「終わっている」。世界はまさしく〈不可解〉で閉じているのであり「自覚」によってそこから逃れる(開けようとする)試みは絶えず失敗する。こうなるとき「自覚」は何を希求するか。〈他者〉に自らが開けることを期待し、それを原動力にしつつも、今度は逆に「自覚」を「閉じる」ことを望む。〈他者〉へ開けることが「『自分』が『生きている』(世界内存在としてある)」ことの「自分」を変容させようとする試みであるのに対して、「自覚」を閉じるとは「自分」をとにかく世界に埋没させようと(閉じようと)することを望む。〈他者〉へ開けることは恐らく単純な意味で生きていれば(たとえば「会話」を通じて)可能であるが、それが徹底的に形而上からすれば虚構であることが意識される段階において(書き忘れていたが、太字はそれが〈不可解〉のみならず「不可解」にとっても徹底的に失敗しているか、絶対的に間違っていることを指す)、とにかくそれを意識している「自覚」を消そうと試みるのである。このとき、同じ体、同じ名前、同じ思考を持つ人間がたまたま生き残っていてもいい。そうしてその人間が同様のことを苦悩していてもいい。肝要なのはそうした事態から「自覚」を取り去ることであり、生存の有無は関係がない。
このように、世界から「自覚」を取り去ろうとすること(世界を〈閉じる〉こと)、世界から「自覚」を解放すること(世界を〈開ける〉こと)、この二つの側面が重なる地平が死であり、自殺である。

このようなことから、藤村の自殺は、必ずしもその深刻性に欠けるというわけではないと思う。彼の自殺は徹底的に浅薄であり、また同時に深淵を描き出していた。また、純化された自殺は、まさに藤村のような形態を取るのではないだろうか、と筆者は思う。カミュは『不条理な論証』において「存在論的論証の結果を理由としてひとが死ぬのに出会ったことがない」と言うが、まさしく自殺とは精神の錯乱であり、病理的であり、かつそれにはかかわらない形で世界の矛盾を赤裸々に暴くのではないだろうか。
よって、筆者は改めて藤村の自殺に共感し、この記事を終わる。

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