【〈哲学〉的雑-記】実存はどのようにして無意味となるのか
先日、ぼんやりと曲を聴いていて、ふと気になった一節があった。
なぜ気になったのか考えた末に、ぴんときた。
今回は迂遠ながら、以前から論じてきたことの整理もかねて、そのぴんときた理由について話せたらと思う。
まず、本質としては再三になるものの、前回から若干整理・捨象した概念、「観測」と「実存」について話したい。
まず、今回の根本となる概念、「観測」についてである。
(注: 「概念」という語は、今回極めて消極的な意味で使われる また、そこより出発する説明・アナロジー・比喩は本質的には限りなく真に近い偽であることに留意されたし)
「観測」とは、定義するとこうなる: 全全性を有する存在の質感。
全全性とは、今回が初出の概念である。その定義は「すべてがすべてであるという性質」である。もしもあなたのことで例えるなら、今この記事を読み、雑然とした考え事をしていたりして、スマホやPCに面と向かって、手や指を動かしたりする、そのすべてのことである。
全全性の特徴として、それが「根拠を持たない」ということ、そしてそれが「自明である」ということが挙げられる。
まず、全全性が「根拠を持たない」のは、すべてがすべてであるということは、そのすべてを外部から規定する、ということはできないからである(規定しようとした時点で、それはすべてに包含される)。
外部から規定する、というのは、人間の認識は(これは科学的(事実的)認識ではなく、主観的(意味的)認識を指す)「その概念で何が言えないのか」(その概念の外)を規定することにより、「何が言えるのか」(その概念の内)を考えるという性質を有するためである。
また、それが「自明である」のも、その定義が「すべてがすべてである」というトートロジーの形式を取り、また「すべて」が存在を指し示す(注: 「指し示す」や「示す」、「表す」という表現は使い分けている)、これらに対して以上、まさに自明なことだろう。
そして「観測」には、もうひとつ〈存在の質感〉というものがあった。これが曲者なのだ。〈存在の質感〉は、感覚質とは明確に区別される。感覚質があったとして、〈存在の質感〉があるとは限らない。「赤い感じ」「おいしい感じ」があったとして、それらが存在の質感を伴う理由はない。
今、このようにして、「赤い感じ」「おいしい感じ」というのがあるのはわかったが、それは〈存在の質感〉とは別のところで起きていても良かったはずなのだ。語弊のある言い方をすれば、「赤い感じ」などというものが〈自覚的〉に発生する必要はなかったのである。それが〈自覚的〉であるためには、それとは別に〈存在の質感〉がなくてはならない。
また、〈存在の質感〉は必ずしも感覚を表さない。よって、〈存在の質感〉は表す(そのものに到達する)ことが不可能な概念である。
また、〈存在の質感〉は全全性と癒着し、重なっている。しかし、「観測」について説明を試みると、後者、つまり全全性の側しか伝わらないということが生じる。これは全全性が世界内の仮想空間でも成立する(せざるを得ない)概念であるのに対し、〈存在の質感〉は世界”内”、ということが想像しえない。〈存在の質感〉は全全性と癒着しているといったが、まさに「存在の質感」はそれがすべてであることによって、原理的に表現しえない(そのものに到達し得ない)概念なのだ。よって、全全性も本来は伝達し得ない事柄のはずだが、「観測」の説明を試みるとそれのみが抽出されてしまう理由は先述したとおりだ。
また、この〈存在の質感〉は「ある」と概念の上では同様にもなりうる。つまり、「りんごがある」や「精神がある」と並列に、「〈存在の質感〉がある」と「言えてしまう」(絶対に偽であることを、文字の上では真であると認めざるを得なくなる)。
よって、全全性と癒着している〈存在の質感〉は、ことさら表すことが不可能なものになる。
しかし、「ある」と〈存在の質感〉に差異があることは、一応示すことができる。〈存在の質感〉(便宜上これを「すべて」とする)が「現に(ある)」ものであるのに対して、「ある」は究極的に(「現に(ある)」と対比して)「現に(ない)」ものであるからだ。
「ある」は「あるがあるがあるがある……」と重ね、メタ的な構造をつくることができる(これを以降「純粋化の構造」と呼ぶ)が、それにより「すべて」に到達することはできない。なぜなら、「すべて」は「現にある」にもかかわらず、「ある」は純粋化のプロセスにおいて、そうした構造を抱えているということだけが一義なのであり、その構造の中身は二義的なものからだ。よって、あるは「現にない」ことがはっきりとして、〈存在の質感〉(「すべて」)とは相違あるものであることがいえる。
しかし、「現に」という言葉を以てしても、結局「現に」という言葉が何なのかといえば、「ある」としか言えなくなり、そうなると言語の文法上の構造に収れんしてしまう。差異のあることは示せるが、やはり表すことはできない。
そうして、改めて「観測」の定義「全全性を有する存在の質感」を見返してみると、如何とも言い難い微妙な気分になるだろう。「観測」において語られるのは全全性、しかもそれが概念に堕落した姿なのだ。
さて、ここまで暗澹たる語り口で「観測」について説明を続けたが、ここで重要なのは、全全性の性質――それが「根拠を持たない」ということ、そしてそれが「自明である」こと――である。そして、これ以上は示しえないのが「観測」の特徴であるため、今から語ることは、その「観測」に「譲歩」してもらうことで発生する概念である。
「観測」が根拠を持たない、かつ自明である、そして表しえないものだということはわかったが、私たちには〈存在の質感〉とは別に、もっと卑近な感覚があるはずである。例えば、私たちが単純に「ある」というとき、それが「現に(ない)」かどうかというのは意識せず、ただ「ある」と思っている。また、私や他人の峻別も、私たちはいつの間にか有している。そして、その区別が成立しているにもかかわらず、私たちは分け隔てられたはずのそれと意思疎通を試みたりする。
こうした、原理を志向しようとすると不可解ではあるが、(何となく)そうした意味を持っているもの、これらのことを「実存」と本記事では呼ぶ。
この「実存」と「観測」は、明確に区別されるものだが、その力関係の中で「実存」は「観測」に収れんする。
まず、明確な区別がどこに据えられているかというところについて説明する。
本来の実存という語の文脈は、主観と客観の区別もないまっさらな存在の状態から、選択により価値を獲得していく、というニュアンスがある。
しかし「観測」は、そもそも「まっさらな存在の状態という原点」を本質存在と区別する能力を持たない。全全性の性質を思い出してみると、すべてが無根拠に、かつ自明にあるというものだった。このことから、「観測」は「すべてを無根拠ながらも自明とする」能力を有するが故に、それ以外のことについては不能(無能力)ということがいえる。
これは、世界が「観測」によってのみ成立しているためであり(より正確に言うなら、「観測」が「観測」によってのみ成立しているためであり)、それ以外を必要としていないためである。
そう、世界は「観測」以外を必要としていない。ということはつまり、「実存」という概念も、原理的には必要がない。これが、先述した「その「観測」に「譲歩」してもらうことで発生する概念」という一文の意図するところであり、「実存」は「観測」に収れんするというところの意図である。
「観測」はすべてを徹底的に〈無〉化(無ということから何かを言えるということもない究極の無)する。よって、言えることはないもない。しかし、私たちは、「言えることは確かにある気がする」という(通常の意味での)質感も持っている。これを説明(弁明)するのが、「実存」という概念なのだ。
さて、そんな「実存」は、かなり奇妙な様相を呈する。
まず、「実存」における意味を分解すると(注: このときはまだ「観測」とはかかわりがない)、それは選択そのものになる。選択とは、それに根源的意味はないが、「価値」を有する事柄である(また、選択は直線的時間の観念を要請しない あくまでも「移ろい」がその本質である)。この「価値」とは、選択と不可分にして淵源にあるものであり、選択が構造を表すなら、価値とはその実質である。
「価値」は、究極的には言語化されることがない。言語化された時点で、それは可能性に転落してしまうからだ(余談だが、永井均はこのようなことを「超越論的なんちゃってビリティ」と呼んだとか、呼んでないとか ウィキペディアでしか確認していないので具体的な文脈は把握していない こういうのも把握しておいた方が個人レベルの哲学でも面白いのだろうか 閑話休題)。
さて、こうして定義された「実存」と「観測」はどのように関わるか。
まず、「実存」は、結局は「観測」に〈無〉化される。かといって、「実存」の質感が〈無〉化されている、というのは直感に反する(あくまでも「直感」であり直観ではない 直観は「観測」のみを示すからである)。
さて、この質感をどう表現するか決めあぐねていたところに、本記事の最初の歌詞を意識の内に発見した。つまり、「実存」は「観測」に「浸み込む」のである。
「観測」を徹底した場合、「実存」の根源的なニュアンスこそ保てないものの、その形は確かに残るであろう。この形骸化が、「移ろい」的に発生する、ということが、「浸み込む」という表現の意図である。
同じことを繰り言のように繰り返しながらも、以前よりも精錬されてきている実感がある。このまま這うような速度ながらも、前進できれば良いのだが。
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