実存と実存者 自由について
世界において、私たちはどのような存在だろうか。人間である、ポリス的動物である、不幸な存在であるなど……そうした実際的な判断は、今回のnoteにおいて解き明かすことを試みるものの埒外である。本試論において、その究明への道程を照らし出すことを試みるのは、実際的なものの反対、現実的なものとしての私たちの存在である。だが、現実的とは、実生活に即した、という意味ではない。それは私たちの「今/ここ」の感覚から出立するものである。詳しくは以前の記事を参照されたいが、今回はその前提について、さわりの部分を表白したいと思う。
世界とは、そもそも一体何であろうか。そのことを、実際的な側面から表現すること、それ自体は、実は容易い。なぜならば、どのような言説においても、その頭に「実際には~」という表現を備えることが可能であり、そこには「実際はそうかもしれないし、そうではないかもしれない」といった、潜在する様相への「孔」が開かれているためである。そして、このような実際性の表現は、まさにそうした潜在への孔のために、現前し生起している「今/ここ」を語ることができない。実際性における文法は、自らを明確に語るようにはできておらず、ついには認識的閉鎖に陥らざるを得ないのだ。このことを打開し得る転換点として、私が提案したいのは、「語る」から「示す」への転回、即ち、実際性の志向から現実性の志向への転換である。
ならば、そもそも現実性とは何だろうか。現実性とは、現前し生起する、そしてあらゆるものの場である「今/ココ」(あくまでもメタファーではあるものの、現状はこの理解で構わない)の状態を指すといえる。実際性においては、ある命題の真偽を問うことはできても、その命題の存在する「場」は真偽の圏外であらざるを得ない。たとえば、A=Aであるという命題があるとき、その「=」という場を、命題の真偽は説明できない。現実性は、そうした実際性においては隠伏されていた全命題の「場」のことなのだ。
さて、この全命題の「場」とされた現実性を「示す」には(注: 示すとは、あくまでも実際性の圏域で「語る」ことを、現実性の〈名前〉として表現することである 本論考において語ることと示すことは峻別される)、三種類の現実性が考えられる。
一つは「現象」である。現象は、実際性における「本質」が、現実という無寄与成分において擾乱の相を取ることである。
私たちが直接的に知ることができるのは「今/ココ」という質感のみであると言ってもよいだろう。しかし〈今〉という概念には直線的な時間軸の成立を前提としており、〈ココ〉も同様に地理的な場の成立が要請されている。そのようにして「今/ココ」は実際性においては不確実なものとして切り捨てられざるを得ない。そのようにして蟄伏し、世界にとっての無寄与成分(影響を与えない成分)と化した「今/ココ」は、だからこそ、現実性において、世界を擾乱たらしめる。それが起こるのは「今/ココ」が即ち、脱-本質の性質を有するためである。このとき、実際性という本質性(帰属性)から、現実性は決別することになる。
しかし、ここから更に「今/ココ」へとその脱-本質の性格を踏み込むなら、現象は「現実様態」と化すことになる。このとき、蟄伏していたはずの「今/ココ」は反転し、擾乱の相と化していた実際性(本質性)は隠滅されることになる。しかし、あくまでも、このような(本文のような)実際性における文脈でしか示し得ない現実様態は「これが「これが「これが現実なのだ」」」…というように、ある種の破格を伴って、無様相の無限累進を実際性の遠心力により行うこととなる(図解などについては前記事を参照されたい)。
では、このような脱-本質化(場の剔抉)は、現実様態において完遂されているだろうか。否である。現実様態は、現象に対してよりいっそう無様相であるものの、まさにそのように示すことにより、様相がこぼれだしてしまっている。よって、ここからまだ先に、現実性は歩を進めることが可能である。そのようにして表出される現実性とは(剥き出しの)現実である。ここにおいて、現実は徹底的にその区別の”落差”を失う。たとえ無様相であったとしても、そこに無限累進のようなものはないし、かといって実際性もない。ここにおける「ない」とは端的かつ絶対的な落差の不在であり、このことを解釈すれば現実様態を示すことになるか、現象を示すことになる。現実はその構造のみを徹底的に有することとなり、現象や現実様態にはあった、質料や実質の匂い(生起可能性)すらここにはない。しかし、現実とは「(未だ)起きていない」というような否定的な事実を指すのではなく、あくまでもそれは「今/ココ」ということによって指そうとしていた肯定的な現実のところにある。現象が「落差がある」、現実様態が「落差がないとの落差がある」ということならば、現実とは「落差がない」ということになる。
さて、ここまでが、今回(通常の意味で)語られる実存と実存者の与件である。今まで考えてきた三種類の現実性から、「存在し得ないもの」としての実存を割り出していく。
まず、現実とは落差の不在、現象とは落差の顕在を指すのであった。そして、現実は現象に徹底的な勝利をし、現象は現実を徹底的に収れんする(なぜ収れんするのかについては前記事を参照)。そしてこれらの事態は、同一の命題によって表現することができる。それは「すべてがすべてである」という命題によってである。現実の場合「すべてがすべてである」とは、すべての実質や質料もろとも払拭し、0ミリメートルの薄い皮膚のような構造として立ち現れる命題である。このとき、すべてとは全くの「空っぽ」であり、そこにはその他のテーゼが生起する余地はない。
では、現象においての「すべてがすべてである」とは何か。これは、むしろすべてがすべてに「充満」することによって示される命題である。現象とは、無寄与成分がマドラーとなって、無限の事物が攪拌され、落差のみが示される状態のことを指すのであった。このとき、事物を区別する境界は消え去り、それはただ「すべて」としてあることになる。この「すべて」とは、現実の用法とは端的に違うものの、双方ともその極限において重なってしまう。そして、現実と現象は「すべてがすべてである」という命題の所在を奪い合い、しかもそれが拮抗によるのではなく、互いが互いを徹底的に圧倒することによって、甚大な相克の相を示す。そうして、このときに宙づりになった「すべてがすべてである」という記号そのものが、本記事の最初に示した「実存」にあたるのである。では、この実存とは、一体何を示すのか。
この実存は、畢竟「何も示さない」ということがその指示になる。「すべてがすべてである」という記号は、現実と現象の隙間にあるものの、それは全くの0の隙間である。というのも、現象と現実の相克において、それらは真空パックの二つの風船が膨らみ合うように拮抗しているのではなく、むしろ「重なって」しまうことにより、そこには何らの隙間の余地もないのである。では、この実存とは、そもそもどういったものなのか。それは、現実と現象との間にある繋辞のようなもの、と表現することができるだろう。すなわち、実存とは、現実と現象の相克を正当化するための投錨の概念なのである。このとき、実存は「ない」よりもっとないものとして表白される。これは、現実様態のときのような破格を示すのではなく、そこには端的に文法がないのだ。つまり、「ない」ということも、「ないということもないということも…」ということもない、ということもない。そのようにして、実存は、現実と現象との間を貫通することになる。このとき、現実をn+1次元、現象をn次元とするなら、その隙間のあり得なさが判然とするだろう。
さて、私は実存を表現する際に「実存とは『すべてがすべてである』というときの記号である」というような表現をした。しかし、ここには、たとえそれが記号であったとしても、それが記号であることの、またはその記号内の文法が成立してしまっている。では、実存も、現実と同様に示さざるを得ないものなのか。否、実存とは、語るとも示すともつかないものである。しかし、あえて実存を語ろうとするならば、それはただ示されるほかにない。このとき、実存は、実存を受肉した「実存者」へと変貌する。このとき、実存の「文法のなさ」は、どのように表現の技法が試されたとしても、そのことは文法が発生してしまう。実存は、まさにその性質や、自らのまなざしによって規定されないがために「文法のない自由」を謳歌していたが、それが実存者においては「文法のある自由」へと置き換えられる。そして、その実存者と実存の区別を、現実というわたしも、現象というわたしも峻別することができない。ここであえて形而下的に語るなら、実存とは、人間の漸近し得る、最後の形而上なのだ。
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