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[エストニアの小説] 第7話 #8 マレットとニペルナーティ(全10回・火金更新)

 「ヤーノス・ローグだったの?」 ニペルナーティが小屋に入ると、マレットが訊いてきた。「あいつの声を聞いたけど。あたしが森にまだ行かないんで、訊きにきたんじゃないの。ちょっとした理由があって、あんたがここを出ていくのを待ってて、行けないって言ってくれた?」
 「きみはわたしがここを出ていくのが、そんなに待ち遠しいのかい?」 ニペルナーティが不満げに言った。
 「だけど、どうして。叔母さんのカテリーナ・イェーのところに行くんじゃないの?」 マレットが驚く。
 「明日には、確実にここを出ていく」とニペルナーティ。「太陽が出る前に、出ていく」
 マレットは黙り込む、そしてベッドの中で手足をバタバタさせる。「それは本当なの?」
 「間違いない」とニペルナーティ。「もうここでやることはない。それにきみはヤーノスとの結婚式の日取りまで決めてるんだろう? きみはヤーノスに会いに森まで出掛けていって、あいつの筋肉に魅せられたんだろ? わたしにはわかる、ここではよけいものだってね、きみの邪魔になるだけだ。だけど明日の朝にはここを出ていくから」
 「じゃあ、この火打石みたいに固い胸とジュニパーの根っこみたいな頑丈なからだは、ヤーノスのものね。わたしはもう決めたの。森に行ったときに、二人で結婚式のことを話し合った。ヤーノスがどんな男か、あんたは知らない。あの人は斧を3回振るだけで、木を倒せる。斧はあいつの手の中で稲妻みたいに踊って、あちこちで閃光が飛んで、いくつものうなり声をあげながら木が次々に倒されていく。こういう男と一緒になるのは、いいことだと思わない? あいつは金をたくさん稼いで、そうしたら自分たちで新しい小屋を建てる。もし神様が許してくれれば、網と舟も買う。ヤーノスといれば人生には先がある。あいつは働くのが好きで、1日として怠けたりしない。遠い北にあるカバの木の小屋にあんたが住みはじめたときには、シバの女王を待つことなんかない。あたしがあんたのところに行くなんてことないから。あたしはバカじゃない。なんであたしが、年寄りの船乗りなんかに会いに行く必要がある? あー、シバの女王はもっと面白い旅をするはず」
 「わかった」 ニペルナーティが神経質な面持ちで言った。「明日、わたしはここを出ていく」
 「それは結構なこと」 マレットが冷淡に言った。「この家にはもう食べるものもないし。どうしたものか、考えてたんだから。明日の昼にあんたに何を食べさせようかって。あんたは賄いと宿泊の代金は払ったけど、お金がかかるから、もうもたなくなってる。あたしは自分の貯金をそこに足しもした。このままでは暮らせない」
 ニペルナーティが返事をしないと、マレットはベッドから出て不機嫌そうに居間に行き、バタバタしているかと思ったら、また戻ってきた。
 「あんたが何故、そんなに急いでいるか知ってる。ヤーノス・ローグを怖がってるんだ。あいつがあんたをどう脅したか、明日までに出ていかないと殺すって、そうだよね。あんたは怖くて、ここを出ていく時だって考えてる。あー、あんたはヤーノスの前で、怖くて震えてるんだ。あいつがどんだけ怖がらせたかってこと」
 「大口叩きのことなど、ちっとも怖くない」 ニペルナーティが平然と言った。
 「だけどあんたは」とマレットが強い調子で言った。「ここを出ていくなんて、一言も言わなかった。一言もね。それなのに今は慌てて出ていこうとしてる。もう1日たりとも、ここにいたくないんだ。ヤーノスがあんたを脅したからさ」
 「ヤーノスじゃない、わたしを追い出そうとしているのはきみだ」とニペルナーティ。「あたしが?」 マレットは驚いている。
 マレットはニペルナーティのところに行って、涙を溢れさせた。
 「嘘をついてる、嘘をついてる」 マレットは小さな拳でニペルナーティの胸を叩いた。「あんたはいつも嘘をつく。あんたは誠実に話すことができない。あんたの言うカテリーナ・イェーの船や財産、船からの手紙、ここにまた戻ってくること、どれもこれも、みんな嘘。一つの嘘から次の嘘へ、服が虫にくわれるみたいに、あんたは嘘にくわれてる。人間がどんなものかだって、あんたにはわかってない。あんたのことで知りたいことなど、もうない、一切ない、あたしの前から消えて、すぐに! 風みたいに、ここから吹っ飛んでいって、あたしの力ではできないから」
 マレットは子猫みたいにベッドに飛び込むと、ワッーと泣き出した。そして頭を枕の下に埋めた。

 ニペルナーティはびっくりしてマレットを見ていたが、近づいて、震える肩に手を置いた。
 「いったいどうしたんだい?」 優しい声でそう訊いた。「きみに何か悪いことをしたのかな?」
 「悪いことをした、すごく悪いことを」 マレットは泣き叫んでいる。「どうしてあたしに、ヤーノスのところに行くよう言ったの? あたしは100回も言ったはず、あいつが嫌いだって、あいつのことなど一言も聞きたくないって。なのにあんたは他に言うことがないみたいに、ヤーノスが、ヤーノスがって。この前、森に行ったときだって、あいつの姿など見もしなかった。ただ森の中を歩きまわって、作業してる人たちと話してただけ。あたしが帰ろうとしたときになって、あいつがあたしを見つけて、こっちに走り寄ってきた。元気かいって。あたしはこの通り、あんたに関係ないでしょ、って言った。それで話は終わり。なのにあんたは結婚式のことを決めつけたり、恐ろしいことを話してる。あんたは酷い人、意地の悪い奴。できることなら、子どもにするように、毎日カバの枝打ちをしてやりたい。ふざけてやるんじゃない、本気でやる、だからあんたの皮膚は擦り傷だらけ。そうしたら、多分、あんたも少しまともになる。ああ、神様、どんだけ嫌な大人になったことか、あんたは。誰に教えられたのか。あんたはこんな風に酷いやつなんだ。あたしの息子にどう言うか。『いい、小さなトーマス、これがあんたの父さん』 そう言うのがどれだけ屈辱的か。いや、あんたは父親などになれない。あんたは野蛮すぎて、今も教えを必要としてる。あんたは頑丈な女を見つけるべき。樽にするように、あんたにタガをはめる。そうすればあんたもおとなしくなる。子羊みたいに、その女の隣りを歩いて、じっと黙ってる」
 「きみは、わたしのために、そういう女になりたくないかい?」 ニペルナーティがにっこり笑って訊いた。

 「あたしが? あんたどう思う?」 マレットが苛立たしげに言った。「そういうやつと、どこに行ったらいいのやら。シルバステ海岸の誰もが笑うだろうね。ほら、見てごらんよ、って。シーモン・バーのところのマレットが見つけた男だよ、本物のカカシだ。ほらね、あんたはまた笑ってる。あたしがいい女だって、あんた本気で思ってるのかしら? だけどあんたがあたしの男だったら、いい、よく聞いて、もしあんたがあたしの男だったら小屋に閉じ込める、それで教えてやる。塩水に漬けた棒であんたを叩く、あんたの嘘八百をからだから叩き出してやる。あんたは昼も夜も、いっときも気が休まらない。で、あんたが充分に教えを受けたら、サウナに連れていく、新しい服を着せる。そうしたら初めて、あんたと人前に出れる。だけどまだ、あたしはあんたを誇りに思えない。そしてこう言う。『怠け者の夫を手にしました、神よ、神よ、どうやってこの男と暮らしたらいいでしょう』 これがあたしの言うことだから」
 「きみは無慈悲な女の子だな」 ニペルナーティがマレットの髪をなでながら笑った。

 「無慈悲なんかじゃない」 マレットが言い返した。「だけどあんたといるには、それしかない! ちゃんとした男には、優しくするし従順にもなる、抱きしめて、愛するんだ。若いシカみたいに夫のまわりを飛び跳ねる。だけど相手があんたの場合、そうはいかない。言うことをきかない馬を制御する必要がある。そうじゃないと、あんたはサッサとどこかに行ってしまう。馬はみんな荷を引くけど、ムチを与えられないと引かない馬もいるんだ。で、あんたはムチが必要な馬だね。腕のいいやつじゃないと、あんたに荷を引かせられない。あたしならできるだろうけど、やりたくはないね」
 「きみはやりたくないんだな?」 ニペルナーティはそう言うと立ち上がった。
 「なんですぐにそうやって逃げようとするの?」 マレットが非難するように言った。「自分の聞きたくない言葉が出ると、そうやって出ていく。戻って、ここに、ベッドにすわって、明日出ていくのか、いかないのか、ちゃんと言ってほしい」
 「わたしは」 と、ため息をつきながらニペルナーティ。
 マレットがその髪の毛をネコをつかむように握った。
 「あんたはどこにもいかない!」 そう叫んだ。「あんたはどこにも行かないんだって! 明日も、あさっても、その先もね。あんた、あたしに打ってほしいの? あんたを打ってやる、父さんがあたしにしたみたいに。あんたをベッドの柱に縛ってやる、塩水に木切れをつけて、それから打ちはじめるのさ。朝に一つ、昼に一つ、夜に一つ、あんたは打たれる。その間ずっと、ベッドに縛られてて、食事もなし。ああ、男たちがそうされたら、どんな気持ちになることか。下の下だね。いい気味だわ。もう1回聞くよ、明日あんたは出ていくの、出ていかないの?」

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'The Queen of Sheba' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


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