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巨人の地、ヒーウマー島へ:小説の向こう側

先週更新した「メヒス・ヘインサー [エストニア] 短編小説集」3つ目の話、『氷山に死す』について書いてみようと思います。
Photo by Serigei Gussev(CC BY 2.0).jpg(ヒーウマー島の巨人像)

『氷山に死す』(Death among the Icebergs)は、メヒス・ヘインサーの作品で最初に読んだものでした。これを読んでこの作家に興味をもち、本になったものも含め、他の作品を探してまわりました。読んだのはすべてエストニア語から英訳されたものです。

"Death among the Icebergs"は、Words without Borders(WWB)という非営利の翻訳プロジェクトで見つけました。このサイトはかなり昔から知っていて、よく立ち寄っていました。様々な国や地域の言語から、小説やエッセイが英語に翻訳されて掲載されています。最近目についたものとしては、接する機会の少ない若手ロシア人作家の特集や、インド系アメリカ人作家、ジュンパ・ラヒリのエッセイ(イタリア語で書いた小説を自分で英語に訳すことについて)の寄稿がありました(これは翻訳ではなく、本人が英語で書いたもの)。

さて『氷山に死す』ですが、日本語にして7000字くらいのそう長くはないけれど、まあまあ読み応えのある長さの作品です。短編小説にはとても短いものもあるので。

最初に面白いと思ったのは、主人公の女の子の出自でした。小説の舞台はエストニアですが、主人公のコンチータ(いかにもラテン系の名前ですね)は、チリからやって来た留学生です。エストニア語とエストニアの歴史を学ぶため、この地にやって来ました。

コンチータのエストニア行きは、まったくの偶然というわけではなかった。実のところ、彼女の祖父は子どもの頃(1944年)に、両親とともにエストニアを追われてドイツに渡り、そこから南アメリカに移住した。つまりコンチータの四分の一は、エストニアの血が流れていることになる。
(『氷山に死す』より)

サラッと書かれていますが、ここにはエストニアの近代史が深く刻まれています。1944年というのは、エストニアがソビエト連邦に再占領、併合された年です。1940年に占領されたのち、独ソ戦争で1941〜1944年までナチス・ドイツに占領され、またソ連の支配下に戻ったというわけです。

ここで想像を巡らせるのはコンチータのお祖父さんの両親は、どういう人だったのかということ。最初読んだときは、ソ連から逃れるためドイツに渡ったと思ったのですが、よく考えると、その後、ドイツから南米へ行っているということは、ナチスの関係者だった可能もあります。

1944年、ナチス・ドイツの崩壊が予想されたため、ソ連の支配に移行するエストニアにいることができなくなり、ドイツに逃れ、そこから連合国の追求を避けて南米に移り住んだ、という推測です。当時、ドイツからアルゼンチンなど南米に逃れたナチスの関係者は多くいました。ナチスというと非常に悪いイメージがありますが、当時のエストニアでは少し事情が違ったようです。

「あなた方はナチといえば悪人だと思い込んでいるけど、ここでは違った。彼らはていねいにドアをノックして家を訪れ、子供たちにはチョコレートをくれた。ロシア人は違う。彼らは家に押し入り、殺し、奪っただけだった」
 ドイツ軍は自己の戦力とする目的でエストニア人を徴兵したが、エストニア人側でも多くの有意の若者が母国を守ろうと立ち上がったのも間違いなかった。これらエストニア兵は、武装SS(親衛隊)部隊に組み込まれて、憎むべき彼らの敵ソ連との戦いに加わった。
(小森 宏美編著『エストニアを知るための59章』より)

「...」のところは、齋木伸生というこの章の書き手が、シニマエという攻防戦のあった小さな町の博物館の研究員から、祖母の経験として聞いた話。このような状況があったとすれば、コンチータの曽祖父が、エストニア兵として親衛隊に加わっていてもおかしくはないように思えてきます。

コンチータの祖父は、1944年当時まだ子どもだったので、その後南米チリで成長し、おそらく地元の女性と結婚し、子どもをもうけた。それがコンチータの両親のいずれか、ということでしょうか。もしこの推測が当たっているなら、コンチータは「四分の一は、エストニアの血が流れている」だけでなく、「遠い親族に親衛隊だった人がいる」ということにもなります。

しかしそうであってもなくても、そのことが、この物語に直接関係する部分はないと思います。主人公の出自の背景として、ある種のリアリティをもたらす効果はあるかもしれませんが。要はまったく違う文化圏から、主人公がやって来て、土地の男と恋に落ちる、そこがポイントだと思います。

この小説が気に入ったもうひとつの理由に、小説の舞台となっている場所、ヒーウマー島があります。小説を読む際、まずGoogleマップで場所を探し、位置を確かめました。

ここは「巨人の島」と呼ばれていて、それはエストニアの民間伝承や、それを元にした叙事詩『カレヴィポエク』から来ているようです。この「巨人」ですが、コンチータがはからずも恋に落ちる、この島出身の男の存在と響きあうものがあります。からだが小さくて気まぐれ、活発なコンチータと、大きなからだに禿げかかった頭、不器用そうな動作が特徴の孤独な中年独身男、この二つのキャラクターが好対照を成しています。

大きな図体に頭の回転の鈍いこの男は、からだが小さくてお天気屋のコンチータを楽しませてくれた。コンチータは、アーレがブツブツと悪態をついたり、天井の配線を直したり、オオカミやマツテンのホコリを払ったり、黄色い建物のまわりの道路をほうきで掃いたりするのを(その間ずっとブツブツ言っていた)こっそり覗き見ていた。
ところが、こっそり冷笑しながら覗き見ていたものが、あるとき違うものに変わっていた。
(『氷山に死す』より)

チリからやって来たお天気屋の小娘が、穏健で善人の見本のような博物館の雑用係にちょっかいを出す、まあ、本気でなかったということではないのですが。物語としてはこの逆よりずっと面白そうですし、今の時代においては現実味があります。

夏の静寂と、ホコリをかぶったぬいぐるみの動物や古い地図のまっただ中で、どこから見ても穏健な巨体の男は、そのからだの内に長いこと眠っていた狩りの感覚が目覚めるのを感じ、顔をあげた。
(中略)
.....アーレはうめき声をあげたが痛みからではなかった。それは沼地や巨大なトクサの中を歩きまわったあと、ようやくこのような喜びにたどり着いた、孤独な太古の生きものの叫びだった。
(『氷山に死す』より)

二人が最初に愛を交わしたのは、何千年も昔のヒーウマー島の起源を表した地図、シルリア紀やデボン紀の石が詰まったガラスケースのある博物館の裏部屋でした。このロケーションとトクサの中を歩く巨人のイメージがうまく作用して、思わぬファンタジーが生まれます。

ところでこの「巨大なトクサ」というのが気にかかり、少し調べてみました。イメージとしては、人間の高さをはるかに上まわるトクサの原が広がる太古の時代の風景が浮かびます。

IN DEFENSE OF PLANTSというサイトで、面白い記述を見つけました。「3億5千年前くらい昔、デボン紀にはたくさんの属を維持し、最盛期を誇っていたトクサ(学名:Equisetum)は、原始の森の相当部分を形成していたが、今ではたった一つの属のみが生き残っている。現在では背の高さもずっと小さく、ひょろりとしているが、かつては30メートルを超すものもあり、トクサにおおわれた風景というものがあった」というようなことが書かれていました。

巨大トクサ-CC BY-NC-ND 2.0

トクサの中で最も大きいのが巨大トクサ(Equisetum giganteum)で、現在はメキシコと南米で見られるそう。(上の写真:Photo by Chad Husby licensed under CC BY-NC-ND 2.0)

トクサという植物が、この小説に、中でも主人公の男にもたらすイメージは効果的だと思いました。トクサ以外では、ジュニパーという木がこの島の風景を彩っています。ヒーウマー島と陸続きの島、カッサリ(ここにある博物館で男は働いていた)を取り囲むように生えている木で、「ジュニパーの木が茂る道」をコンチータとアーレは恋に燃える熱い日々、互いの肩に腕をまわして歩きます。

ジュニパーという木は、日本ではあまり馴染みのない(エッセンシャルオイルを除いて)植物だと思いますが、アメリカの沙漠地帯でもよく見られ、低木から高木まで多くの種類があるようです。わたしは以前に、カリフォルニアの沙漠地帯を舞台にした童話やノンフィクションを読んだり、訳したりしていたので、ジュニパーと聞くと、それだけで乾燥地帯の荒涼とした風景が浮かんできます。

メヒス・ヘインサーの小説は、『氷山に死す』にかぎらず、エストニアの地名やそれに伴う風景、土地の植物などの具体性がリアリティをもたらし、物語に埋め込まれた非現実性を際立たせ、不思議な効果をあげています。現実をより鋭く深く表現するために、幻覚や幻想やあり得ない現象を並べて対比させる、あるいはアナザ・ワールドとして読む者の足元をぐらつかせ、現実を再認識させるということなのでしょうか。

この小説を訳している間、何度もGoogleマップやストリートビューで描写されている場所や風景の確認をしました。「左右両側から波がうち寄せ二人の足を濡らす、島の突端の岬まで行き」というセンテンスでは、最初、何を言っているのかよく理解できませんでした。カッサリ島の地図を隈なく見ていて、本当にそういう場所があるのを発見しました。そこは島の最南東部にあるSääretirpという細く長い岬で、上のタイトルフォトの巨像Leigri(ヒーウマーの伝説の英雄)の近くにある場所です。地学的には岬ではなく、エスカーと呼ばれるもので、氷河が後退したあとできる砂や礫による堆積物。

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Photo by Hiiumaamudeliklubi(CC BY-SA 3.0)
この小説のページの背景にもその場所の写真がつかわれています(下の写真)。石の堆積が見えていますが、これも氷河によるもの。(ページでは文字を読みやすくするため、色を落としています)
Photo by Kazimierz Popławski(CC BY-NC 2.0)

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恋愛小説を読むとき、その舞台の背景、ロケーションや土地の言われ、主人公の出自を知る必要があるか、と問われれば、なくても読めるし、知らなくても問題ないと思います。ただ、背景を知ることで、物語の理解の深度は少し増しますし、新たな想像が生まれるきっかけにもなります。

小説を読むとは、未知の世界に足を踏み入れることでもあるとすれば、登場人物の顔や関係性だけ見ているのはもったいない。一人の人間は、自然の一部であり社会の一部でもあります。一人の人間にどのような自然や社会が映り込んでいるのか、それがどのようにその人を成り立たせているのか、そういったことを読みとるのも小説の楽しみの一つのように思います。

最後に数日前に、エストニア文学センターのケルティさんが知らせてくれたヘインサーの出たばかりの短編小説集を紹介します。新作、旧作を織りまぜたコレクションで、『氷山に死す』ほか葉っぱの坑夫で取り上げている作品がいくつか入っています。言語はエストニア語です。以下はその本の表紙。

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