見出し画像

言語の可能性を押し広げるのが文学の役割(by 李琴美)であるとき、翻訳は何をすれば? 言葉のUpdateについて

いま、李琴美さんの『透明な膜を隔てながら』を読んでいます。日本語を学ぶようになった中学生時代の話、日本語で書く小説のこと、台湾から日本への移住、台湾での学校時代の出来事、さらには自身の性的嗜好(指向)と作品への反映などを綴ったエッセイ集で、興味深く読んでいます。

李琴美さんはあるとき日本語を学ぶことを思いつき、コミックやアニメ、JPOPなども利用しつつ、大学で学ぶようになるまではほぼ独力で言語を獲得していった人です。こんな風に学んでいったら、そりゃ身につくわ、と思わせられることも多々あり。第二言語として学んだ言葉を、小説を書くほどまでに高めていった経緯に対して、尊敬の念を抱きました。

タイトルにあげたように、李琴美さんはエッセイの中で、「文学は言語を用いた芸術表現であると同時に、言語そのものの可能性を押し広げる役割も担っている」としています。そしてそのとき、「本来自分のものではない言語で、果たしてそれが可能か」という問いを発しています。つまり日本語が母語*ではない作家が、それをしてもいいのか、それができるのか、と。

確かに、日本語が母語ではない作家が、小説の中でそれをしようとしたとき、「母語話者である」と自認する日本人読者なり批評家が、それを偏見なく受けとめ、受け入れることができるのかどうか。「この人の言葉づかいはおかしいのではないか」「日本語が間違っている」と言い出す人がいるであろうことは、十分想像できます。

著名な作家が、あるいはすでに高い評価を受けている日本語を母語とする文章家が同じことをした場合、面白い表現だ、言葉の可能性を広げた、と評価されることも、母語話者ではない作家がそれをしたとき、違う受けとめ方をされるのはあり得ることです。
*「母語」という言葉の問題点については後述します。ここでは「母語」をとりあえず使いますが、他に良い表現法が見つかれば変えたい気持ちはあります。

しかし母語話者であっても、わたし自身がそうなのですが、日本語をよく知っているとは言えないし、知らないこと、読めない漢字、意味のわからない表現がたくさんあって、第二言語として学んだ人より自分の方が日本語能力に長けている、知識が豊富である、創作能力が高いとは言い切れないのです。

たとえば大阪弁で何かを否定するときに使われる「あかん」という言葉。この語源は調べたところ「埒(らち)が開かない」の「あかない」から来ているそうです。そこで「埒」とは何か(これも知らなかった)を調べると、「馬場の柵のこと」とありました。転じて物事の区切り、限界も表すとのこと。表現として「らちがあかないね」と言っているかもしれず、でも大雑把な意味しかしからない、それはわたしが日本語で育った話者だからかもしれません。知らなくても頓着なく(!頓着も意味を知らない、あとで調べよう)使ってる。第二言語として日本語を学んだ人は、「埒」の意味まで知った上で、この表現を使用している可能性が高いです。

李琴美さんは基本的には、「言語というものは本来、誰かの所有物ではなく、もっと開かれた存在で、異なる時空間の人類に共有され、歴史と共に変化を遂げていくもののはずだ」という考えをもっているようで、それは全く正しいと思います。
ただそう主張していても、自分が「何か既存の規範(文法、言葉の辞書的意味、母語話者の言語感覚)に従うのではなく我が物顔で『可能性を押し広げる』努力をしようとするのは、どうしても憚られた」と書いています。

その気持ちはよくわかります。李琴美さんは「非母語話者」を「言葉の世界の難民」と位置づけ、「その言語使用の正統性は誰にも認められない」としていました。

そのような「偏見の膜」に隔てられながらも、つまり日本語の母語話者の作家が同じことをするとき以上の明確な意識、勇気、自覚をもって、文学の言葉を、日本語の可能性を押し広げようとしているのであれば、日本語の母語話者として、李琴美さんに対して最大限の感謝をしたい気持ちになります。

そして自分も、こうして文章を書いたり、翻訳したりする中で使う日本語をよく知った安心して使える、慣習的な表現のみに頼らず、たえず言葉を見直したり、表現したいことにぴったり合う言葉を開拓したり、面白くまた適切でもある言い方を考えていきたいものです。

ある言語に対して、知識があり十分使用法を知っていることも大事ですが、言葉に対して意識的で常に疑問を投げかけながら使っていくことも(第二言語の話者がしているように)、表現にとって大切じゃないかと思っています。よく日本語を知り、十分知識があると自信のある人は、慣習に従う方に傾きがちなところがあるかもしれません。

慣習に従うことを常とし疑問をもたないと、それがマイナスに働くこともあります。慣習というのは過去の、ここまでの古い時代に積み重ねられてきたやり方・考え方なので、その過去の物事の捉え方に?マークが付いたとき、使用が難しくなることがあります。過去には当然とされていたことが、より広い見地からふさわしくない、と判断されることは近年増えています。するとその考え方、そこから導き出された言葉は、差別的ではないかと疑問符がつきます。

最近気づいた、使用に問題があるかもしれない表現として「部族」「〜族」という言葉があります。わたし自身つかい続けてきた言葉なので、すぐに調べてみました。
「部族」は英語の「tribe」に当たる言葉で、たとえばアフリカのハウサ(ナイジェリアの一民族集団)であるとか、ガンダ(ウガンダの一民族集団)に対して、ハウサ族、ガンダ族というように使われています。沓掛沙弥香氏(大阪大学大学院・博士課程)のエッセイ「ことばが映し出す世界観と 象徴的暴力:「部族」という表現を問う」に、次のような記述がありました。

ラテン語で「野蛮」 の意味のtribiusに由来するtribeは、アフリカなど一部の地域に住む 人たちに対してのみ使われてきた歴史があり、西欧側からの偏見を 根底に含む。

沓掛沙弥香「ことばが映し出す世界観と 象徴的暴力:『部族』という表現を問う」

なるほど、tribeという英語自体、偏見を含む言葉だったのですね。それも知りませんでした。またこのエッセイでは、日本の広辞苑の説明を次のように引いています。

部族
人種・言語・文化などの特徴を共有し、一定の地域内に住んで同族意識を持つ集団。文明に属するとされる集団には使わず、未開とされる地域の集団に適用されてきたという点で偏見を含む 用語。

 『広辞苑』(第6版)

この例として、沓掛沙弥香氏は、北欧の少数民族サーミには「サーミ人」、スペイン/フランスのバスクに対しては「バスク人」という呼称が使われ、アフリカのヨルバはヨルバ族、ガンダはガンダ族と呼ばれていることをあげています。サーミ族、バスク族とは確かに言いません、聞いたことがありません。

日本の様々なメディアにおいても、この「部族」「〜族」は健在で、その理由はアフリカに対する先入観や偏見(遅れた社会、未開であるなど)がもたらすものと、エッセイには書かれていました。
差別意識がなくとも、むしろ好意をもって書かれた文章、たとえば旅行記などでウガンダを訪れた人が、「ガンダ族」と言っているのも目にしました。差別意識から言っているのではないなら、いいのではないか?
いや、そうではないと思います。親しみと尊敬をもって呼ぶのなら、ガンダ人と呼ぶべきでしょう。意識していなくとも、言葉の中に「差別」は発生します。

「部族」「族」は、すでに共同通信社のハンドブックには、○○族、○○部族の表記は原則として避けるべ きと書かれているそうで(沓掛沙弥香氏)、それでもなおこの言葉が、学界、一般社会で広く使われている現実は見逃せないと思いました。わたし自身、このことを知ったあとは「部族」「〜族」の使用をやめました。

「部族」以外にも、沓掛沙弥香氏の指摘には、米国の女性誌が「エイジング(加齢)」の表現をやめる宣言をしたこと、、日本遺伝学会が、「優性」を「顕性」に、「劣性」を「潜性」に改定したことがありました。
このような言葉は、おそらく山ほどあるのではないかと想像します。過去にあった伝統的な思想と慣習的な表現というものが、いま問われているのです。

このことからも、古くからの言葉をよく知り、慣用表現を使いこなしていることは良い面もあるけれど、それだけに囚われていると、落とし穴があるということになります。常に言葉への問いかけ、疑問を発することが求められるのが今の時代であり、文章を書く人はとくに、言葉のupdateを心掛ける必要がありそうです。

言葉はコミュニケーションの道具なので、共通の認識があった上で、話が通じる必要があるのも事実です。しかしだからと言って、通じやすいからと言って、過去の価値観に縛られた言葉を使いつづけることもできません。新語、造語だって流行りに乗れば、あっという間に共通言語になるのだから、部族をやめて○○人とすることだって、そう難しいことではないのでは。

最後に「母語」という言葉について。
まず「母語とは何か」をはっきりさせるため、「東洋大学人間科学総合研究所紀要 第 25 号」(三宅 和子)から、暫定的な定義を引用します。

「母語」:誕生後、最初に両親や周りの人から習い覚えた言語
「母国語」:母国(自分の国)の言語
「国語」:その国で公的に認められている言語/日本の学校の教科の一つ
「日本語」:日本列島を中心に話されている世界の自然言語の一つ

誕生後にまわりの人から習い覚えた言葉、を「母語」とするなら、それが父親であったり、祖父母であったり、それ以外の世話をしてくれた人であったりした場合、「母語」という言葉はふさわしくないのでは、という考えは当然でてきます。
ケースごとに「父語」「祖母語」「保育士語」のように呼ぶよりは、たとえば「第一言語」と呼ぶ方が普遍性は高いかもしれません。しかしそこにも問題があります。第一言語と母語が異なる人がいるからです。

友人のMさんはポーランドに生まれ、14歳のときにアメリカに家族で移住しました。両親はポーランド語を話しますが、Mさん自身は英語が第一言語となりました。14歳というと、ある言語を「母語」と同等に習得するギリギリの年齢かもしれません。が、Mさんはポーランド語もある程度使えるようですが(詩人で作品は英語で書いているが、時々ポーランド語の詩を英語に訳すこともある。その逆はないかもしれない)、第一言語は英語になっています。

こういった例はたくさんあるので、「母語」を「第一言語」とすることは難しそうです。

これまでわたし自身、「母語」という言葉を大量に使ってきました。英語の「mother tongue」も同様です。「母/mother」ということを意識せずに、習慣的に使ってきたわけです。「母国語」と「母語」を意識的に分けて使ってきた、ということはありますが。

注釈付きであれば、「母語」とするところを「第一言語」「第一言語話者」とするメリットはあるかもしれません。「第一言語(母語を含む)」「第一言語話者(母語話者を含む)」のような使い方で。この場合の「第一言語」は、その人間が最も自由に使える言葉、といった意味になります。
オックスフォード現代英英辞典の説明では、そのように説明しています。

mother tongue : the language that you first learn to speak when you are a child
母語:子ども時代に最初に話すことを学んだ言葉

first language : the language that you learn to speak first as a child ; the language that you speak best
第一言語:子ども時代に最初に話すことを学んだ言葉、あるいは最も自由に話せる言葉

オックスフォード現代英英辞典(筆者訳)


「第一言語(母語を含む)」を使う良い点として、「母語話者」や「native speaker」がある言語にとって特に偉い(優位性がある)わけではないことを示すことができるかもしれない、ということ。「第一言語」「第二言語」「第三言語」といった順番があるだけで、この言い方をすることで「言語と人間の関係性」における視点の相対化ができる、そういうことじゃないかと気づきました。

そうなれば、李琴美さんが「第二言語話者」として、日本語の可能性を作品の中で押し広げることへの(日本語話者の)抵抗感も少し減るのでは。李琴美さんのエッセイの中の発言を再録して、この記事を終わりにします。

言語というものは本来、誰かの所有物ではなく、もっと開かれた存在で、異なる時空間の人類に共有され、歴史と共に変化を遂げていくもののはずだ。

李琴美『透明な膜を隔てながら』(早川書房、2022年8月)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?