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全人類への教育者か、Google?

タイトル画像(マネの『温室にて』)、描かれた当時は「不道徳なほどエロチックな絵だった」ということを最近学びました(いったいどこが?? 後ほど説明)。Google Art & Cultureでのことです。ほぼ毎日5つ更新で、LGBTQ+から仏教建築、世界各地の名所や歴史的な名画まで、アクチュアルなテーマ、トピックが高解像度のビジュアルコンテンツで提供されています。

これを見ていて思ったのは、パソコンやスマホがあれば、世界中の子どもたち(教育機会に恵まれている子も、それほどでない子も)が、世界に存在する過去から現在にいたる様々なもの、事象に気軽に、無料でアクセスして、自分の好みや興味にしたがって学べるのではということ。

だいたい一つにつき、10ページくらいのコンテンツが多く、1ページにつき数行のテキストが付いています。どれもユニークな視点や切り口から題材を扱っているように見えます。(言語は基本、英語ですが、Google翻訳が利用できるようで、日本語で読むことも可能でした)

絵画に関するものがけっこう多く、印象派の画家たちやフリーダ・カーロは人気なのか、何種類もの違うコンテンツが提供されています。グーグルらしいアプローチとしては、ストリートビューをコンテンツに入れ込み、たとえばモネの描いた場所や風景を現在のストリートビューで見せて、絵と比較させたりもしています。

個人での利用もですが、たとえば学校でこういうコンテンツを英語の授業に利用する、というのも面白いのでは、と。短いシンプルな英文なので、中学生くらいになれば、先生の補助があれば読んで理解できるようになるでしょうし、こうやって実際につかわれているテキストで英語を勉強することは、子どもたちのその先の意欲にもつながります。英語を学ぶ一つの方法論にもなり、それを学ぶ意味もわかります。

また、教材がそれほど豊かではないアフリカの小さな国で、英語とアートと文化を学ぶのに、Google Art & Cultureは役立つかもしれません。そのコンテンツは世界中で共有されているもので、地域の時差なく、子どもたちが一定レベルの(西洋的価値観に偏っているのではという批判があったとしても)まあまあスタンダードな、新しい知識を享受できるのです。

グーグルはこのGoogle Art & Cultureをなんのために作ったのでしょう。単に自社の最新技術を世界に披露するためにアートを利用した? 見方によっては、(楽しみを含む)教育へのアクセスの機会を強化している、と受け取れないこともありません。

グーグルというのはいったい何者なんでしょうか。と、このアート・プラットフォームを見て思いました。

アメリカ発のインターネット関連サービス&製品のグローバル企業? いやいやそうかもしれないけれど、、、そもそも企業なんでしょうか。まあ国家ではないけれど。でもときに国家を超える存在かも。。。

「企業」とは:
企業(きぎょう、英: business)とは、営利を目的として一定の計画に従って経済活動を行う経済主体(経済単位)である。 社会的企業を区別するために営利企業とも言う。(Wikipediaより)

「国家」とは:
国家(こっか)とは、国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。
領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体である。(同じくWikiより)

サーチエンジンから始まったグーグル、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンが設立した当時、1998年の時点でGoogleは企業だったのか。まあそうだったとしても社会的企業の側面が大きかったようにも見えます。

領土があるわけではなく(未来都市のプロジェクトはあっても)、よってそこに居住する人々もいないし、政治組織でもないことから、国家ではないでしょう。でもサイバースペース上に領土があると言えばいえるし、そこに居住する人もものすごい数いる、ということで言えば、疑似国家みたいな風にも見えます。

そうだとすると、わたしはそこの人民(people)です。メールからドライブ、カレンダー、地図、、、そういう機能に頼って日々暮らす、その「領土」の住人であり、人民なのかもしれません。

人民とは:
人民(じんみん)またはピープル(英語:People)は、法学・政治学の用語で、近代以降における「政治的主体としての民衆」のことをいう。(同じくWikiより)

で、このGoogle Art & Culture、仮想人民に対して教育までするんでしょうか。覇権的思想のひとつ? でもそうだとしてホラー映画でいうと餌食になった人が、喜んで餌食になりたがる、つまりコンテンツを楽しく享受して、能天気に「グーグルってすごいね、面白いね」と向こう側の住人としての深度を増していき、ますます良き人民になっていくとしたら。。。

もちろんグーグルが嫌いな人、グーグルに関わらない人、もいるでしょうが。2000年ごろ、グーグルがサーチエンジンとして始まったころ、日本ではほとんどの人がヤフーで、グーグルは利用者が少なかったし人気もありませんでした。

ここでGoogle Art & Cultureの内容について少し書いてみます。タイトル画像のマネの『温室にて』を見たとき(それが初めてのGoogle Art & Culture体験だった)、解説のアプローチがユニークだなと思いました。この絵の二人はヌードでもなく、服を着てただ座っているだけ、しかも夫婦らしい、それなのに何故これが問題なのか、スキャンダルなのか、という疑問がテキスト冒頭にありました。そして二人の手は近くにあるものの触れてはいない、とか、女性のもう片方の手は手袋をしているけれど、夫のそばにある方の手はむき出し、とか、結婚指輪がはっきりと見えている、とか、、、絵から観察されること並べています。

なぜこの絵が不道徳と受け取られるのか、の答え:当時の文献によると、温室というシチュエーションは、新奇でエキゾチックなもので、不倫の場面やエロチックなことを想像させるものだった、とのこと。温室という場、それが時代背景から見て、特別な場所だったということのようです。

といったようなパースペクティブが、一つの見方として示されます。絵を見るという行為にそれほど慣れていない者にとって、へぇ〜、絵ってそうやって見るものなんだ、と思わせられるところがあります。

Ambiguity is a fascinating thing, especially in art.(曖昧なこと、両義性のあることは興味深く、そそられる、中でもアートにおいては)

これはこのコンテンツの中で最初の方に書かれていた文章。絵を見るという行為のインストラクションとして面白いと思いました。ちなみにマネの『温室にて』の解釈については、日英でザッとウェブを検索してみたところ(温室が19世紀後半、不倫を想像させるような場であったかどうか、など)そういう記述は見つかりませんでした。このコンテンツを制作した美術館かギャラリー、あるいは美術団体の独自の資料による解釈なのかもしれません。Googleで検索すると上位の結果に、日本語のブログでこの絵に触れているものがあり、そこでは「この絵は夫婦の絆を描いていて、その中心が二人の結婚指輪だ」というようなことが書かれていました。おそらくこちらの方が一般的な解釈に近いのかもしれません。

ただ絵そのものを分析する以外に、描かれた当時の社会状況や慣習を背景に絵を見てみるのも、Ambiguityを探索するという意味で面白いと思います。この絵とは別に、温室が19世紀後半どのようなものであったかについては、Google Art & Cultureの記述はおそらく間違ってはいないのでしょう。

美術以外のカルチャー関係では、
"Changing Face of the Pride Flag"(過去数十年のプライドフラッグの変化を紹介 LGBTQIAとその活動)というコンテンツがありました。前文によると、アクティビズムと図像学は密接な関係があり、政治運動は画像や記号によって、その目標を可視化してきた、とのこと。

ここで取り上げられたのは、6本の縞模様の「レインボーフラッグ」。LGBTQ+の活動の象徴として現在よく見られるデザインです。ここに行き着くまでの、デザインの変更や修正、批評が写真とともに紹介されていました。なんでも1978年以前は実際的なシンボルがなく、「ナチスドイツの同性愛者の強制収容所の囚人の制服に印刷されたピンクの逆三角形」を、意識向上などの目的のために、活動家たちが使っていたそうです。

現在は6色のフラッグに、黒と茶を加えた8本縞模様のプライドフラッグも提唱されているようです。(2020年のBLM運動の影響か)

デザインと社会活動の結びつきに目が開かれますし、デザインというのが見た目の美しさだけでなく、意味の伝達にとって重要だということが、LGBTQ+の活動の歴史を通じて理解できました。ちなみにこのストーリーは、イギリスのジャーナリスト、ジェイク・ホール氏提供によるものでした。

と、簡単に二つの例でGoogle Art & Cultureを紹介しましたが、どのコンテンツにもたいていちょっとした面白いパースペクティブが示されています。旅行ガイドに近いものもあり、好みによって選んで楽しむことができます。

Google Art & Cultureが全人類の教育のアプローチとして役に立つのでは、と思ったのは、途上国や新興国に暮らす子どもたちへの教育機会ということだけでなく、日本の子どもたちへの教育機会としても意味があるのでは、と感じたことからきています。

日本の子どもたち、小中高生を考えたとき、教育機会はあり過ぎるくらいあるのではないか、と思うかもしれませんが、世界標準(日本語では嫌われている言葉かもしれませんが)のパースペクティブで見たとき、問題はないのかと言われれば、わたしは大いにあると思っています。

学校では様々なジャンルにわたって幅広い知識を得たり、それを利用する技術を学んだりするわけですが、その根本にある思想が歪んでいた場合、問題を引き起こす可能性があります。深い知識や高い技術も、どんな思想のもと伝達されるかによって、生きも死にもします。そこに問題があれば、最終的に社会にとって害になることもあるでしょう。

日本の学校教育における歪んだ思想とは? 

わたしが歪んでいるのではないか、あるいは間違っているのではないか、と思う点は大きくは二つあります。

一つは学校における子どもたちの人権です。日本人の子どもと、外国籍あるいは外国由来の子どもを含む人権です。最近、生徒の人権に関する二つの記事を読みました。一つはメンズサロンの美容師の方が、子どもたちの頭髪のあり方について問題を提議していました(NHKウェブのニュース)。自分のところにやって来る子どものお客さんに、学校の規則内でカットをしても(髪が耳にかからないなど)、先生から注意を受け、やり直しを命じられたり、ひどい場合は坊主にされてしまうことがあるとのこと。どこが問題なのか(どこをどう切ればいいのか)を教師に美容師がたずねても、部外者には答えられないなど回答が得られない、要するにその先生がイメージする「学生らしさ、清潔で、不良のように見えない髪型」でなければダメということのようです。たとえばツーブロックのようなカットにしていると、事件や事故に合いやすい、といった先入観です。

学校の頭髪規則問題は、以前から何度も取り上げられてきたことですが、いまだ解決はされていないようです。それも少数の極端な学校でそういう例がある、ということではなく、数多くの普通の学校で起きているようです。「頭髪証明」という言葉を知っている方も多いと思います。地毛が少し茶色っぽかった場合、これは生来のものであり染めていません、という証明を学校に提出しなければならないというもの。極端な場合は、黒く染めるよう学校から指導されます。

NHKのニュースサイトの記事では、子どもの頭髪をバリカンでジョリジョリ刈っている写真が使われていました。校則から外れていると思われた髪の子どもが、教室でみんなの前で罰として、先生にバリカンで髪を刈られることがある、という判例のイメージ写真だと思います。こんなことが21世紀のいま、日本の学校で行われているとは、ちょっと信じがたいです。

誰が考えても、これは、あきらかに人権侵害です。

もう一つの記事は「『黒人の髪型』が校則違反になる学校の超理不尽」という東洋経済オンラインの記事。バイエ・マクニールさんという日本在住20年近くになるジャーナリストのレポートです。近年は外国からやって来たり、ミックスルーツだったりする子どもが学校でも増えているようですが、そんな一人、中学に入学したばかりのナオミさん(仮名)は、縮れた髪の性質上、10〜12本くらいの三編みにして登校したところ、校則違反と言われたそう。校則で許されているのは、ポニーテールか耳の後ろで縛るツインテールで、それ以外は校則違反とか。アフリカ系の人に多い縮れた髪は、真っ直ぐな日本人の髪と違って、洗髪から乾燥までケアが難しく、この髪の性質に適しているのが10本くらいの三編みなのだ、という説明が、ナオミさんのお母さんからありました。でもそんな(人間個々の多様性を考慮した)「個別の事情」なんてものに、校則はびくともしません。

それにしても、ポニーテールかツインテールしかダメって、どういう根拠からくるものなのか。

こういった論理性から外れた、がんじがらめと言っていい校則のもと、学校や先生の命令を疑いつつ、国語や算数、生物や歴史を学んだとして、いったい何が、どう身につくのでしょう。自主的な生き方ができる子に、自分の意見がもてるよう、個性を伸ばす??? よく日本の教育界で聞く言葉ですが、まったくのお題目に過ぎないですね。

もう一つ、人権以外に疑問に思ったのは、学校や先生たちの、自分たちの厳しい指導は、子どもたちが進学や社会に出た際に困らないようにするため、という考えが基になっているように見えること。ある教育委員会は、「就職先や進学先の求める生徒像や価値観を考えたとき生徒の不利益とならないか心配だ」と校則の見直しに不安感を持っているとありました(NHKウェブ「都道府県の4割が公立高校の校則の見直しを進める」)。

つまり今現在の日本(ある意味、日本限定の)社会の枠に、成長過程にある子どもたちをはめていくということです。でも今現在の社会は、10年後には変わっています。いまあるものに合わせる、というのは日本の思想でよくあるパターンですが、子どもたちが困らないようそれにはめる、というのはいまの体格に合わせた服を着せたままにしておくようなものです。10年後には服からからだがはみ出し、着れないものになっています。

いまある社会のみを前提に子どもを育てたら、教育したら、どういうことになるか。いやいや日本は10年たっても、20年たっても変わりませんから??

そうではなくて、教育のすべきことは、いまある社会にいま現在の子どもを順応させるのじゃなくて、未来を見据えて、どんな社会であってほしいか、どんな社会人として生きていってほしいか、そういう理想(これも日本語では嫌われる、あるいは信じられていない言葉の一つ)に向かって、子どもと共に考え、先生も学校も成長していく、変わっていくものでは?

社会の規範に子どもを合わせる、のではなく、子どもたちがよりよい社会をつくっていけるよう、子どもたちの頭脳も借りながら、未来の規範を作り直していくのが本当じゃないのかな。

これが日本の教育が歪んでいるのでは、と考える理由です。

Google Art & Cultureの話からずいぶん遠くへ来てしまったように思われるかもしれませんが、このプラットフォームを見たとき感じたことには、このような日本の教育事情への疑問も含まれていました。

日本の学校教育のもろもろの価値観の中だけで成長していったら、子どもたちは将来困るのではないか、という心配です。人権侵害がまかり通っていたり、たとえよくない点があっても、日本社会の規範や常識に合わせて子どもたちを枠にはめていくこと。

あるべき教育が学校には望めないのであれば、その外に、それを救う、がんじがらめの環境から逃れて、子どもたちが自由に面白く学べる場所があった方がいい、、、世界標準に近い価値観(一人一人の子どもの人権を認め、多様なパースペクティブを支柱にした思想)の中で、学校では得られない知の喜びを手にできる場所。そんなプラットフォームの一つとして、Google Art & Cultureのことを考えてみました。

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