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[手紙] アメリカ・ツアーから(1) 1927.12.31.〜1928.2.7

1928年にラヴェルをアメリカツアーに招いたのは、フランス系アメリカ人ピアニストのE.ロベール・シュミッツ(1889 〜1949年)でした。シュミッツとラヴェルは旧知の仲で、シュミッツ自身ピアニストとしてフランス在住時代に、アメリカでコンサートツアーを行なっていました。その後、アメリカに渡ったシュミッツは、フランス系アメリカ人の音楽ソサエティ「プロ・ムージカ」をつくり、アメリカ各地に支部をもつようになります。その団体をつうじて、シュミッツはラヴェルのコンサートツアーを開く計画をたてました。
以下、アメリカ・ツアー中のラヴェルから友人や弟に送られた手紙です。

1927年12月31日 フランス号より
ネリー&モーリス・デラージュへ

新年おめでとう、わたしの愛する友よ。われわれはダンスホールでワイワイと飲んでますよ。たいした騒ぎで。ジャズに紙テープ、風船にシャンペン、ロシアのカルテット、飲んだくれアメリカ人たち。まるでモンマルトルだね。

1928年1月3日
今晩のうちに船は錨をおろして、明日には上陸すると思う。ここまでの旅は、とても楽しいものだったよ。わたしのスタジオの写真は絵葉書の裏にある。仕事のために「デラックス・スイート」がまるごと使えて、、でも酷使はしていないよ。

心からの愛を
モーリス・ラヴェル

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1928年1月3日 フランス号より
ロラン・マニュエルへ

明日、わたしたちはニューヨークに着く。こんな楽しい年越しを過ごしたことはなかったよ、実に。手紙をここに送ってほしい。それとレクチャー*のことを忘れないで。
c/o Bogue-Laberge, 130 West 42nd St., Suite 1201, New York.

愛を込めて
モーリス・ラヴェル

*レクチャー:ラヴェルが1928年4月7日にヒューストンで行ったレクチャーの原稿のことと思われる。タイトルは「現代の音楽」で、ロラン・マニュエルはテキストの準備を手伝ったようだ。(訳注)

1928年1月13日 コプリープラザ・ホテル(ボストン)より
大好きな弟、エドゥアールへ

もしヨーロッパに生きて帰れたら、わたしはきっと長生きするね! まあ、ここまでのところ、なんとか生き延びてるよ。マネージャーいわく、最悪のところはもう通り過ぎたとさ。港に船が着いたと思ったら、ジャーナリストの大群が、カメラを手に船に押し寄せてきて、あと風刺画家もね。我々は上陸するために、しばし記者たちをその場に残して立ち去ろうとした。まあ遅きに失したけど、すごいもんだった。

ニューヨーク滞在中は、ピアノの練習がちっともできなかった(4日間が4ヶ月のようだった)。非常に快適なランガムホテル(12階建てのホテルとも言えないような建物で、わたしの部屋は8階)に落ち着いてすぐから、電話が鳴りっぱなしだった。絶え間なく花束や上等なフルーツのバスケットが届けられてね。リハーサルに、ジャーナリスト集団(写真家、映像作家、風刺画家が交代でやってきた)、手紙や招待状(マネージャーが処理していた)、レセプションと忙しい。夜になればお楽しみの時間がやってくる。ダンスホールに黒人劇場、巨大な映画館とね。昼はタクシーに乗せられて、あれこれの用事をするために走りまわってて、昼のニューヨークを見てないんだ。わたしはフィルムに収められたりもして、2cmの厚さのドーランを塗られてね。ボストン交響楽団がわたしの作品のコンサートを、ニューヨークでやることも忘れていたよ。わたし自身が舞台に立つことにもなった。3500人もの聴衆が席を立って拍手喝采、ヒューヒューと口笛の嵐で最高潮に達したよ。日曜の夜はプライベートコンサートがあって、そのあとイブニングを着たまま、ボストンに列車で向かった。

1928年1月14日 昨日のつづき

オーケストラのリハーサルの間は、なんとか平穏に過ごしている(オーケストラは素晴らしいよ)。おとといはケンブリッジでコンサート、昨日はボストンで。人々はわたしがイギリス人に見えると言っていた。クーセヴィツキー*がわたしのことをフランス人指揮者の現存の最高峰だと言ってくれた。『スペイン狂詩曲』を準備なしに指揮しなければと思ってるときにね。それをまた今晩やって、明日のコンサートのためにニューヨークにすぐに戻って、それから2、3日滞在することになっているシカゴに向かって、そこからまたテキサスに行くんだ。ちょっとした暇にこうして手紙が書けるというわけだ。今日はレセプションがないからね。ケンブリッジとボストンのレセプションは、ニューヨークのトーマス・エジソン夫人のところでのものほど疲れなかったけど。あのときは2、300人もの人たちがわたしの前に列をなして、ときに英語で、それより多くの人がフランス語で話しかけてくるんだ(ここの人がフランス語で話すのには驚いたね)。

ニューヨーク同様、夜はお楽しみの時間。ダンスホールにチャイニーズ・シアターなど。新聞の切り抜きをいくつか同封するので保存しておいて。心からの愛をみんなに。

大好きな弟へ
モーリス

*セルゲイ・クーセヴィツキー:アメリカで活躍したロシア人指揮者、作曲家(1874〜1951年)。ボストン交響楽団で長く指揮をした。(訳注)

1928年1月16日 ニューヨークからシカゴへ
大好きな弟、エドゥアールへ

この手紙をシカゴに向かう急行列車のラウンジカー(特別客車)で書いている。ニューヨークを午後2時45分に発って明日の朝9時45分に到着する。20時間足らずだよ。ニューヨークでのコンサートはうまくいった。嬉しくなるような批評が(ニューヨーク・タイムズの)まるごと1ページに載っていたよ。ニューヨークのフランス語新聞だけが、わたしについて何も記事にしなかった。

愛を込めて
モーリス
ニューヨークでもボストン同様、春みたいな陽気だった。今は雪模様だよ。

1928年1月30日 オーバーランド・リミテッド(大陸横断旅客列車)にて
親愛なるルネ・ポランへ(ボストン交響楽団の第一バイオリン奏者)

アメリカに着いてから、これが手紙を書ける最初の機会となりました。あなたにわたしのスポークスマン(ボストン交響楽団での通訳)になってほしいと頼もうと、急いでいました。またあなたの楽団(現在、世界最高と思われる)がわたしの作品を完璧に演奏してくれたのを聴いた喜びを伝えたかったのです。演奏の誠実さはわたしの音楽の精神をつかんでいて、それに深く心を打たれました。

この美しい演奏は、ボストンでもケンブリッジでも、真に聴衆の忘れがたいものになったと思います。すぐに感謝の意をお伝えできなかったことをお詫びします。

モーリス・ラヴェル


1928年1月30日 オーバーランド・リミテッド(大陸横断旅客列車)にて
ルネ・ポランへ(つづき)

それから個人的に、親切なメントール*(ギリシャ神話のよき指導者)にお礼を言いたいです。ボストンの魔力を受けとめるのにおおいに助かったし、本物のメントールよりいかめしくもなく、わたしは運がよかった。

シカゴでもクリーブランドでもすべてうまくいった。こちらではオーケストラの団員にとってかなり難しいものがありました。プログラムの楽曲は、メンバーの多くにとってまったく未知のものでしたから。『ラ・ヴァルス』は4速で駆け抜けました。『高雅で感傷的なワルツ』は完璧な出来で、これはわたしの作品の中でも最も演奏の難しい曲ですからね。これについてはクーセヴィツキーに直接、お礼の手紙を書こうと思っています。彼の親切に救われましたから。彼のオーケストラのスコアはすぐに返送されたと思います。

フランスでまたお会いしましょう、またアメリカでもお会いできたらと。
モンフォールで89番にかける前に、パリでまず電話することを忘れないで(グーテンベルク 0-28)。

*メントール:ここでは通訳を務めてくれたポランのことか。(訳注)
写真:1906年のオーバーランド・リミテッド

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1928年2月7日 ロスアンジェルス・ビルトモア・ホテルにて
エドゥアールへ

エドゥアール、こちらは夏みたいだよ。35℃もある。さんさんと輝く太陽。フランスでは温室で育つ花々が、大都市の街なかで満開。背の高いヤシの木も自然に生えている。映画の街、ハリウッドまで遠出した。スター揃いで。ダグラス・フェアバンクス、彼はフランス語が話せる。サンフランシスコからロスアンジェルスまでの旅は、とても楽しいものだったね。わたしはほとんどの時間、後部デッキで風に吹かれて過ごしたよ。ユーカリの森、オークに見える背の高い木、でもトチノキだ。変化に富んだ山々はゴツゴツした岩の山あり、豊かな緑あり。もうすぐ凍えるような季節の場所にもどると思うと、いやになるよ。山のような手紙が来ている、君以外の人たちからだ。明日の夜はホテルのボールルームでコンサート*。午後は映画を見に、ライオンファクトリー(MGM)に行くつもり。

愛を込めて
モーリス
チャーリー・チャプリンとランチを食べることになっていたんだけど、わたしがというより、彼にとってあまり楽しくはないだろうね、向こうはフランス語ができないから。

*2月8日にビルトモア・ホテルで、『バイオリンとピアノのためのソナタ』などが演奏され、ラヴェル自身の演奏で『ソナチネ』『ハバネラ』『亡き王女のためのパヴァーヌ』も披露された。

アービー ・オレンシュタイン編 "A Ravel Reader: Correspondence, Articles, Interviews"より 日本語訳:だいこくかずえ(葉っぱの坑夫)
タイトル画像:Sivi Steys(CC BY-SA 2.0), New York City, 1925

[手紙] アメリカ・ツアーから(2) 1928.2.10〜1928.4.14


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