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VIII. ドビュッシーの音楽、ラヴェルの音楽

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

ドビュッシーの性格と音楽史の中の位置
フランス音楽における印象主義
ドビュッシーとラヴェルの対比
ラヴェルの音楽の特質

 アシル=クロード・ドビュッシーは特異な性格の持ち主である。変わり者で、好奇心が強く、孤独な人間。芸術家肌で、鋭敏な神経をもち、想像力豊か。ドビュッシーの音楽はこのような特徴を反映している。それと共に独創性があり、伝統やハーモニーの常識から完璧な離脱を見せることで、音楽史に新たな時代のはじまりを示した。

 ラヴェルは(特に初期の頃)しばしば、ドビュッシーを真似ているという非難を受けていた。ドビュッシーが若いラヴェルの作品に大きな影響を与えていたことは疑う余地もないが、ドビュッシーの気性や音楽を検証すれば、ラヴェルとはまったく違うことがわかるだろう。

 ロマン・ロランが「夢を描く偉大な画家」と称したドビュッシーは、幼い頃から夢見がちで感情過多な傾向があった。ドビュッシーはパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで1862年に生まれた。モーリス・ラヴェルが誕生する13年前のことだ。ドビュッシーの両親は陶器店を経営しており(ラヴェルの先祖は、磁器の製造をしていたと言われている)、子ども時代のアシル=クロードはほとんど学校教育を受けなかった。内気で感じやすい子どもで、色に対して深い感受性をもっていた。父親は息子を軍隊にやりたかったが、本人は画家になりたいと思っていた。幼いドビュッシーの色に対する愛着は、のちに音楽の新たな表現へと翻訳された。画家がパレットで色を混ぜるように、音階のもつ色調を音楽の中で表現した。

 8歳のとき、アシル=クロードは(のちにアシルは省かれた)ショパンの弟子にピアノのレッスンを受け、その教師がパリ国立高等音楽院への道をつけた。ドビュッシーは11歳のときここに入学し、その2年後、ソルフェージュで一等賞を獲得した。しかしピアノでは2等賞以上にはならなかった。14歳のとき、最初の作品を作曲し(歌曲『星の夜』)、そのときすでに伝統から脱却し、自分自身の音楽言語を見つけようという熱意が見られた。のちに自分独自のスタイルを繰り広げるのを待たず、ごく早い時期に、実験的な和声進行や未知のハーモニーを常に試し、そのことで音楽院で不評をかっていた。
 
 正統ではない(許可されていない)様式を使用しつづけたことで、ドビュッシーはハーモニーのクラスで失敗したと言われた。自分を非難した人々に対して、ドビュッシーは「なぜそんなに驚くんです。始まりと終わりの音を抜きに和音を聴くことはできませんか? 何が問題なのでしょう。聴いてください、聴くに耐えますから。もし理解できないなら、校長先生のところに行って、わたしがあなた達の耳を破壊していると伝えてください」

 ドビュッシーが18歳のとき、音楽院の初見演奏で一等賞を獲得した。この楽譜を読む高い能力は、ロシアの裕福な音楽パトロンで、チャイコフスキーの「最愛の友人」であるマダム・フォン・ミークの注意をひいた。マダム・フォン・ミークは若い「de Bussy(ド・ビュッシー:当時このようにサインしていた)」をシュノンソー城で夏の間、ともに過ごすために雇った。特別演奏会でトリオを演奏することと、自分の娘たち(この中の一人とドビュッシーは恋に落ちた)にレッスンをするというものだった。

 「わたしの可愛いピアニスト、ビュッシーは頭のてっぺんから足の爪先までパリジャン、<パリっ子>なんです。とても機知に富んでいて、モノマネは絶品。グノーやアンブロワーズ・トマをやらせたら完璧で、すごく面白いの」 マダム・フォン・ミークはこうチャイコフスキーに書き送っている。ドビュッシーはこのロシアの富豪家族と数年間、夏をともに過ごし、スイス、イタリア、ロシアと一緒に旅もしている。

 当時ドビュッシーはワーグナーに非常に興味をもっており、この間に2度、バイロイトを訪れている。しかしこのドイツ人作曲家の音楽の魅力は、じょじょに低下していった。ドビュッシーの微妙で暴力性とは無縁の特質から見て、ワーグナーは芝居がかっていると感じられたのだ。最終的にドビュッシーの初期のワーグナーへの尊敬は、反目へと変化した。それにより、ドビュッシーの独自性は、大きく異る道へと進んでいった。29歳のとき、ドビュッシーはエリック・サティと知り合った。同時代の多くの若手音楽家と同様、サティの大胆不敵なオリジナリティに魅了された。(のちにサティの『ジムノペディ』から2曲をオーケストレーションしている)

 1884年、ドビュッシーはカンタータ『放蕩息子』でローマ賞を受賞。当時ドビュッシーは、ヴァニエ夫人に心を奪われていた。かなり年上の夫をもつ若く魅力的な女性で、美しい声をもち、若きドビュッシーの歌曲を心からの熱意をもって歌っていた。ヴァニエ夫人に、ドビュッシーは『マンドリン』と『艶なる宴』の第1集を捧げている。ドビュッシーはローマのメディチ荘で、所定の2年間しか過ごさなかった。そこを「牢獄」と呼び、パリとヴァニエ家に帰ることしか考えなかった。ローマ滞在中に作曲したのは、Envoi de Rome(ローマ賞受賞者の演習)として、『選ばれし乙女』1作に留まっている。(メディチ荘:ローマ賞受賞者はここにある在ローマ・フランス・アカデミー に滞在して、フランス政府の奨学金によって、イタリアの芸術にふれる機会をもつ)

 ドビュッシーの関心は、ヴァニエ夫人からガブリエル・デュポンへと変化した。「緑の目のギャビー」は、ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』にインスピレーションを与えたと言われる。この頃、この作品の創作は始まったが、10年後まで完成されることはなかった。1902年にメアリー・ガーデンとジャン・ペリエの主演によって上演され、パリの音楽界で最大の評判を呼んだ。アパッシュ*のメンバーはこのオペラを非常に評価し、すべての上演に出席した。ドビュッシーはレジオン・ドヌール勲章を受賞し、その音楽は一世を風靡した。
*アパッシュ:1900年ごろ、パリの詩人や音楽家たちがつくった芸術家のグループ。意味は「ごろつき」で、リカルド・ビニェスの命名。ラヴェルとドビュッシーもメンバーだった。

 1899年、ドビュッシーはロザリー・テクシエと結婚するが、少しして、エンマ・バルダック夫人との恋愛のため、「リリーロー」を見捨てた。ロザリーとの離婚が成立したのち、エンマと結婚する。唯一の娘「シュシュ」が1905年に生まれる。シュシュのためにドビュッシーはピアノ組曲『子供の領分』を書く。娘は父親が亡くなったあと、たった1年しか生き延びられなかった。

 数多くの恋愛に加え、ドビュッシーは他に2つ愛してやまないものがあった。それは猫と緑色だった。家にはいつもリヌという名のグレーのアンゴラネコがいた。またドビュッシーの性格の中にもネコ科の特徴が潜んでいた。アンドレ・スアレス*はこう言っている。「ネコが自分の手でからだを撫でるように、ドビュッシーは自分の魂を音楽で愛撫して喜びを得ていた」
*アンドレ・スアレス:フランスの詩人、批評家。1868〜1948。

 1909年はドビュッシーの病のはじまりの年だった。それによって晩年の長い年月、苦しむことになる。第一次世界大戦をとおしてそれは続き、肉体的な痛みに加えて、戦争でフランスが敵の手に落ちているという苦しみから憤りが膨らんでいった。ドビュッシーは激しいドイツ嫌いとなり、サインには「フランスの音楽家、クロード・ドビュッシー」と書いた。2回、がんのために手術を受け、1918年3月25日のパリ爆撃のさなかに死んだ。

 ドビュッシーは靄と泉、雲と雨の、そして夕暮れと木漏れ日の詩人だった。月に、海にうたれて正気をなくし、星を散りばめた空の下で魂を奪われる人だった。すべての感性が音楽的インスピレーションに貢献した。自然をハーモニーへと変換し、自分の感情をそこに響かせた。

 ドビュッシーの音楽は、前の時代のロマン主義や硬直した古典の様式に反抗せざるを得ないところがあった。自分独自の様式、流動性の中にあるはかなさや空想的なものをを発展させることで、ここから逃れようとしていた。この様式が印象主義として知られる音楽となった。

 「印象主義」という言葉は、19世紀後半に多く使われるようになった。この用語は、1867年に展示されたモネの絵「印象:日の出」から来ている。「光と空気の習作」と名づけられ、写真のように写実的に表すのではなく、見た光景を感覚的に表現しようとするこの技術は、新たなアートの誕生となった。しかしながら人々は、印象主義的な絵に関心を示さなかった。「芸術的価値のほとんどない未完のスケッチ」というのが、モネやその仲間たちの作品への評価で、「印象主義」という言葉はあざけりの対象となった。

 印象主義の画家たちと関係が深かったのが、象徴主義の詩人たちだった。詩人たちは自分たちの詩を新しい解釈とみなし、詩作品を音と色による表現と捉えた。このような暗示は彼らにとって理想的ではあったが、詩の意味が効果のために犠牲となることもあった。彼らは言葉のもつ音楽性をとおして、微妙でカラフルな雰囲気を作ることに長けていた。ドビュッシーがここに参入すると、音と色と感情の新たな融合が生まれ、音楽と詩と絵が結び合わされた。

 ステファヌ・マラルメの家は、当時の印象派の画家や詩人の集まる場所となった。ドビュッシーはこのサークルの一員になる。ドビュッシーの指向がこの若い画家たちの影響を受けて、その理想を表現しょうとしたのは必然であり、音楽でそれに続こうとした。音の世界に彼らの技術を取り入れ、思考や感情、香り、色、詩、風景、あらゆる対象に誘発された抽象的な心象風景から、あいまいな音調を示そうとした。必要のない細部を省き、リアリティを再生産するのではなく、リアリティから呼び起こされた感情を表そうとした。

 ドビュッシーはマラルメの最もよく知られた詩に音楽をつけた。『牧神の午後への前奏曲』である。多くの人はこれを過去最高の音詩と評価し、繊細な感覚と光輝くもの、夢のような夏の霞の情景や異教徒の喜びを完璧に捉えているとした。マネはマラルメの『半獣神の午後』の第1稿に挿絵をつけている。主要な印象主義の詩人、画家、作曲家のインスピレーションの手を経ることで、この作品は、これぞ印象派の芸術と見られたのではないか。

 『ペレアスとメリザンド』の中で、ドビュッシーはオペラに新しい様式を与えた。オーケストラ伴奏によるアリアの連続ではなく、自然な、話すようなやり方で声をつかい、豊かで普通とは違うオーケストラの効果によってドラマチックで夢見るような空気を作り上げた。この方法をラヴェルはオペラ『スペインの時』でつかっている。ドビュッシーは、自作のオペラについて次のように語っている。

わたしは美の法則に従おうとしてきました。オペラを扱う上で、これまで無視されてきたと思われるものです、、、『ペレアス』の中にそのすべてを見いだせたとは思いませんが、他の人々が、個々の作品の中でさらに発展させることで、この道を進めるようにしたつもりです。それは長く存在してきた従来の重荷からの解放、自由なオペラと言っていいものです。

 ドビュッシーの音楽は、「空気感」が基本にあり、雰囲気の創出、喚起であり、憂愁や官能、ときに明るさを表現する。この面で、感情の表現より光景を描写するラヴェルとは実質的に違いがある。これはラヴェルの精緻で内省的な気性によるもので、夢見がちなアシル=クロードとは違う道を選んでいる。

 いくつかの側面では(多くは小さな点で)、この二人は似ているところがある。たとえば、東洋風の書法の中で、五音階をつかって書いている。またどちらも、近代的なハーモニーによる中世の旋法をつかった。古典様式を擬似的に利用するためだ。どちらの作品も、伝統的な宗教への忠誠に対抗し、異教的な性格をもっている。そして最後に、タイトルの付け方において、両者の間には類似性が見られる。(記事末尾に注釈あり)

 次の曲名のリストを見れば、言葉の使い方において、両者には明らかな類似があるのがわかる。

ラヴェル

水の戯れ
スペイン狂詩曲
マ・メール・ロワ(マザー・グース)
クープランの墓
ハイドンの名によるメヌエット*(動画・上)

ドビュッシー
映像
水の反映
イベリア
子供の領分
ラモーを讃えて
ハイドンを讃えて​*(動画・下)

*ハイドンの没後100年(1909年)を記念して、6人の作曲家がハイドンにちなんだピアノ曲を制作。その中にラヴェルとドビュッシーがいた。作曲はルールとして「HAYDN」の5文字を音名に置き換えたモチーフを使用する。ラヴェルはこの「シラレレソ」を冒頭から使っている。

 このような類似があったにしろ、この二人の作曲家の比較は終わりを見る。もっと大きな違いによって差異がさらに広がる。モーリス・ラヴェルは本物の古典主義者であり、過去のフランス人作曲家の継承者である。中でもクープランのような。彼の明快で注意深く練られた音楽は、ドビュッシーの曖昧もことした想像性に満ちたスタイルの正反対にある。ドビュッシーには自らの官能を音楽の中で表す好色的な面があり、一方ラヴェルは自分の感情を見せることを恐れ、自らが得た認識のみを音楽に変換する理知の人である。ドビュッシーは主に全音音階で書き、ラヴェルの方はドリア旋法、ヒポドリア旋法、さらにはフリギア旋法*さえ使用した。
*教会旋法(ドリア旋法、ヒポドリア旋法、フリギア旋法など):8〜9世紀頃以来、少なくとも16世紀頃まで西洋音楽理論の基礎であったが、機能和声の発達によって長調・短調の組織に取って代わられた。しかし19世紀末以降、新たな音楽の可能性の追求の中で教会旋法がしばしば用いられている。(Wikipedia)

 さらに重要なことは、この二人の作曲家には、音楽の様式、内容において大きな違いがあるということ。ドビュッシーの歌は、エロティックな方向へ向かい、ラヴェルの方はいつも情景描写であり風刺やミニチュア化に進む。ラヴェルの生来の作風は、秩序あるリズム(ダンスで表現されるような様式内にある色彩や空気感)にあり、一方ドビュッシーはあらゆる形式から逃れ、前奏曲が象徴的な作品となっている。

 ドビュッシーの音楽は非常に個人的で、作品は個人のもつ要素に限定される。最終的に、ドビュッシーは自身の芸術を可能なかぎり遠くまで発展させた。そしてすべてを使い果たした。ラベルの方は、このような制限から逃れている。一つのスタイルに固執しないからである。新たな様式を常に探しもとめ、その音楽性は非個人的で、客観的である。

 この二人は、音楽がそうであるように、性格や特徴も似ていなかった。容姿においては、ドビュッシーは中背でがっしりしており、広い額にカールしたフサフサした頭髪の大きな頭の持ち主だった。黒く濃いあごひげを蓄え、ふっくらとはしているがやや不健康そうな、浅黒い肌をもち、シリア人と間違えられることもあった。一方ラヴェルは、痩せて贅肉がなく、背は小さく、生活のすべてにおいて几帳面で潔癖だった。ドビュッシーは怠け者で(その全体が彼の芸術)、ラヴェルは疲れを知らない勤勉活動家だった。ドビュッシーは数々の恋愛からインスピレーションを受けており、ラヴェルは孤独と森の中を果てしなく歩くことでそれを得ていた。

 本質における違いはあっても、ラヴェルはドビュッシーに負けず劣らずのフランスの音楽家だった。二人の共通の特徴として(多くのフランス人に共通することでもあるが)、ワーグナーと二人が「ドイツ学派の面倒な音楽哲学」とみなしているものへの反感があった。実のところ、この学派への抵抗が始まったのは、普仏戦争がきっかけだった。当時のフランスの作曲家たちは、隣国ドイツの影響をあまりに長く受けてきたと感じており、ラモーやクープランなどフランスの初期の伝統に従い、自分たちのスタイルに戻るべきだと感じていた。

 国の特徴というのは、音楽ほど明白ではない。それぞれの国が、音楽作品をとおして、いかに国民の精神や気性を解釈してきたのかを見るのは興味深いことだ。ドイツ人が感情を表現する道を探すのに対し、フランスの音楽家は「論理的な官能主義者」と呼ばれてきた。彼らにとって過度の感情表現は敵であり、感情よりもその場の印象を描写することを好んだ。フランスは音楽的であるより文学的で(多くの教育を受けた若者たちの野心は本を書くことだった)、音楽も感情的であるより知性的であろうとしたし、少なくとも最近まで*、音楽とはオペラや歌をとおして詩の解釈をすることだった。明快で率直な表現、フランス音楽は簡潔さとバランスの良さを求め、いつもその表現は抑制的だった。
*最近まで:この本の出版は1940年なのでその当時。

 ラヴェルはドビュッシーだけでなく、他の作曲家の真似もしていると非難されてきた。あるところまで、これは真実である。ラヴェルのピアノ曲のいくつかはリストやショパンをモデルにしていた。フォーレやサティはそれ以外の作品のための研究素材だった。オーケストラ作品については、疑問の余地なく、リムスキー・コルサコフ、シャブリエ、サン・サーンス、ヨハンとリヒャルトの両シュトラウスの作品から重要な示唆と連想を得てきた。ラヴェルはこれ以外にも多くの作品を学び、そのすべてを自分の作品への刺激とした。この意味で、ラヴェルには独創性がないと言われるかもしれない。
 
 しかしながら「純粋な独創性」とは何か、それを説明することは可能だろうか? すべての創作物は、他の人の作品の吸収や同化の結果ではないのだろうか。それに加えて外界からの刺激があり、さらにはアーティスト個人の視点が素材を新たな形へと変化させるのでは? アーティストの創造力を刺激するものは何であれ、本物の、正当な素材となる。もちろん、そこで出来あがったものは、他者の創造物のコピーではない。

 ラヴェルは若い作曲家たちにこのようにアドバイスをしていた。「モデルを見つけ、それを真似するんだ。きみが言うべきことを何も持っていないなら、複製する以上のことはできない。もし何か言うべきことがあるのなら、きみの持てるものが真似に終止してしまうことはないはずだ」 あるパターンからの組み立ては、ラヴェルの音楽の典型的な特性である。フランス人はこれを「pastiche(模倣、寄せ集め)」と呼ぶが、「transformation(転換、変形)」と言った方がよいだろう。ベルギーの音楽学者、ウエリーは、ラヴェルの「模倣」は元になるモデルを忘れさせ、借りてきた素材に新たな技能の印を刻みつける、と言った。

 ラヴェルは何にも増して、手を下したことの痕跡なしに効果を生むことを願っている。作品の中にそれが見えることを防いでいる、、、これを達成するために、自分の内部から、目立った新奇性を産み出さないようにしている。これがラヴェルが発明するところの模倣の中にあるもので、「無」から作品を生んでいるように見せたりしない。ラヴェルは画家がするように「モチーフ」に取り組む。モーツァルトのソナタに、サン・サーンスのコンチェルトに、画家が木々を見て仕事をするように、自分の身をそこに置く。ひとたび作品が完成すると、モデルになったものの痕跡を見つけることはもはや不可能、、、

 ラヴェルは自分のイメージによって作品をつくる特権をもち、そのことで神から断罪されることはない。古代の音楽を真似たフランスの古典派のやり方を継承しているだけだ。

 ラヴェルが若かった頃、ドビュッシーと近しい仲だった。伝統に対する反抗心、そしてモーツァルトに対する熱狂を共有していた。モーツァルトの四手連弾曲を二人でよく弾いた。しかしこの個性ある傑出した音楽家たちが、最後にはライバルになることは避けがたいことだった。二人の間の対立はじょじょに深まり、完全に疎遠となった。

 とはいえ、互いの音楽家としての尊重は消えることはなかった。ラヴェルはバイオリンとチェロのためのソナタを「クロード・ドビュッシーの想い出に」として捧げ、「最も重要で、最も影響力のある今日の作曲家」と彼を評している。ラヴェルはドビュッシーの『舞曲』と『サラバンド』をオーケストラ曲に、『牧神の午後への変奏曲』を四手連弾用に編曲している。この著名な音詩はラヴェルのお気に入りの楽曲だった。“Je voudrais en mourant entendre L’Après-midi d’un Faune.” 死ぬときは『牧神の午後への変奏曲』を聞いていたい、とラヴェルはよく語っていた。

*前奏曲、夜想曲、ワルツなど昔からのタイトルではなく、描写的なタイトルを使ったのはラヴェルが最初だと言われている。しかしドビュッシーもそうだが、サティの影響ではないかと思われる。(著者による註釈)

'The Music of Debussy and Ravel' from "Bolero: The Life of Maurice Ravel" by Madelene Goss
日本語訳:だいこくかずえ(葉っぱの坑夫)

下の動画:「バイオリンとチェロのためのソナタ」より III. レント





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