XIII. バレエ作品実りの年
・1912年のラヴェル
・『高雅で感傷的なワルツ』
・『アデライド、または花言葉』
・『マ・メール・ロワ』をバレエ作品に
・ストラヴィンスキーとシェーンベルク
・『ホヴァーンシチナ』のオーケストラ編曲
・『ステファヌ・マラルメの3つの詩』
父ジョセフ・ラヴェルの死後、モーリスは母親とともに、エトワール凱旋門に面したエトワール広場(現在のシャルル・ド・ゴール広場)の端、カルノー大通り4番にあるアパートに移った。弟のエドゥアールはそのときまだ母親と兄と一緒に住んでおり、ルヴァロワ・ペレにある自動車工場での仕事をつづけていた。エドゥアールはボネット一家と仲がよく、長い時間をともに過ごしてきた。ボネ氏はラヴェルの父ジョセフの右腕として、工場で長く働いてきた人で、ジョセフの死後は工場長を務めていた。1917年にラヴェル夫人が亡くなると、エドゥアールはボネット家と同居することにし、当初はサン=クルーに、最終的に工場の隣りのルヴァロワ・ペレに家を建てた。
エドゥワールは優しく内気な性格で、朝早くに起きて仕事に出ていく働き者だったので、兄のモーリスのいる家にほとんどいなかった。一方、モーリスは根っからの夜型人間で、すっかり疲れ果てるまでベッドに行こうとしなかった。モーリスはカフェで食前酒を前に何時間も過ごすのが好きだった(後の時代にはカフェがナイトクラブになった)。そして友人たちが疲れて家に帰ったあとに、ラヴェルは長い散歩に出ることがあり、それは夜明け近くまで長引くことも珍しくなかった。
白髪になった今も、変わらず優しいラヴェル夫人は、息子の一番大事な人だった。「モーリスと暮らせる女性は他にいない」 ボネ夫人はある日そう言った。「モーリスは変わった習慣の持ち主……朝遅く起きて、一日中パジャマで仕事をしていた。朝の7時に母親が『モーリス、7時よ、夕食にしましょう』って言うの」
「あ、それは無理だ……ちょっと歩いてくるよ」
「ささっとパジャマの上に服を着て、散歩に出ていくんです」
「9時、いえ、10時になってもまだ、ラヴェルは戻ってこない。すると母親は、息子の時間観念のなさをよく知っているから、召使いに『もう待てないわ』と言って一人で食事していました。11時か12時になってやっとモーリスが帰ってくると、散歩ですっかり疲れてる。でも時間の感覚はなし。モーリスはずっと長い時間、森で音楽の仕事をしていたってことだと思う」
1910年になって、ラヴェルの見た目は大きく変わった。皆の知るファン・ダイク髭をきれいさっぱり剃り落とし、ロラン=マニュエルいわく「仮面をとって素顔を見せた」。以来、ラヴェルは髭なしのさっぱりした顔になった。音楽も変化し、新しい、今まで以上に鋭くて明快な様式になっていった。『ダフニスとクロエ』に加えて、シューベルトを手本にしたワルツ集『高雅で感傷的なワルツ』にとりかった。それは「『夜のガスパール』の基礎となる技巧がもっとシンプルな書法として加えられ、ハーモニーが強調され、輪郭がよりはっきりした」と言われた。
『高雅で感傷的なワルツ』は、ラヴェルがスコアに記しているように、「暇つぶしの楽しみ」に捧げられた。7つの短いワルツと、各テーマを散りばめ洗練させた長いエピローグから成っていた。最初のワルツはびっくりするような不協和音の組み合わせで、聴く者を驚かせた。しかし分析すれば、合理的で道理にかなったものであることがわかった。導入部分がなく、最初のワルツがすぐに、ザラザラした不協和のコードを繰り返しながら始まる。
2番目のワルツは物憂げで官能的。3番目は生き生きとして、風変わりで珍しい音の組み合わせ。つづく5つのワルツは色彩と感覚が全開。驚くような多様性があり、誘惑にドラマ、哀れみが表現されている。エピローグは詩的な美しさに溢れ、優しく感傷的に終わり心動かされる。「ややドライな官能がこの音楽を生かしている。電気的にゾクゾクさせ、猫のようなしなやかさ、ボードレール的喜び」(ロラン=マニュエル)。
『高雅で感傷的なワルツ』はラヴェルがこれまでに作った中で、最も大胆不敵な作品である。設立1年目の独立音楽協会が、現代作曲家の作品の匿名コンサートをやると決めたときに、ちょうど仕上がった作品だ。聴衆は様々な曲の作曲者を当てることになった。
コンサートの晩、ラヴェルは友人たちとボックス席に座り、聴衆のワルツへの反応を待っていた(この作品はルイ・オベールに献呈され、本人が演奏した)。このときまでにラヴェルは傑出した若手作曲家の一人として認められており、新たな作品は耳のいい聴き手から高い賞賛を得ていた。独立音楽協会の匿名コンサートにやって来た彼らは、ベテランの聴き手であり、新しい音楽に慣れた人々だった。
ところがこの聴衆は『高雅で感傷的なワルツ』に明らかに戸惑いを見せた。何人かの人は怒りを露わに、非難の口笛や野次を会場に響かせた。褒める人はほとんどいなかった。作曲家は誰か当てた人は少なく(サティと思う人たちもいた)、ラヴェルはこの曲を書いたのが自分だと知らない友人たちの激しい非難の声を聞く羽目になった。
この大騒ぎの間、ラヴェルは何のリアクションも見せなかった。後に、批評家たちがこの曲の作者を知ると、評価を改め、最初に聴いたときに見つけ損ねた質の高さに注目した。この経験によって、ラヴェルは批評の真の価値というものを知ることになる。
『高雅で感傷的なワルツ』は元々ピアノ曲として書かれたが、次の春、ラヴェルはこれをオーケストラ作品にした。クラシックとモダンのダンスのコンサートをやるマイル・トワノワが、ラヴェルにワルツを自分のプログラムで使えないかと聞いてきた。ラヴェルは喜んで賛成した。その当時、ダンスやバレエに関心が高かったからだ。『ダフニスとクロエ』は最近仕上がったところで(最後の曲「バッカス祭」にまだ磨きをかけていたが)、このワルツ集を舞台作品としてドラマチックに見せられないか考えていた。この作品はバレエでは、『アデライド(アデライード)、または花言葉』と名づけられた。
時代設定は1820年、花によって自分の官能をあらわす美しい高級娼婦のサロン。最初のワルツがはじまると幕が上がり、たくさんのカップルが踊っている場面になる。花瓶が部屋を飾り、優雅で上品な女主人アデライドがその芳香を嗅ぎながら、あちらへこちらへと動きまわる。彼女はオランダスイセン(官能性を表す)のところで立ち止まる。
ハンサムで上品な若い男、ロレダンが、2番目のワルツがはじまるとやって来る。そしてラナンキュラスをアデライドに差し出す(「なんというあなたの美しさ」を意味する)、そして希望を表すサンザシの花も手渡す。しかし彼女はロレダンの申し出に心動かされない。友愛の象徴であるバイカウツギを選ぶ。そしてがっかりする求婚者にそれを渡す。ロレダンはこれを拒み、(「わたしの心は燃えている」を意味する)アイリスの花を手に取る。アデライドはそれを受け取り、くちびるに付け、(「深い愛の告白」を意味する)黒いアイリスでロレダンの気持ちに報いる。ロレダンはアデライドの足元に身を投げ、ヘリオトロープを差し出す。「愛しています」と。しかし彼女の返事は(「考えておきましょう」を意味する)マーガレットだった。
第3曲ではアデライドはマーガレットの花びらを1枚ずつむしり、それでロレダンが本当に自分を愛しているとわかる。ところが彼女がロレダンの抱擁に応じようとしたとき、金持ちの求婚者(公爵)が「富の保証」を意味するヒマワリの花束とダイアモンドのネックレスをもってやって来る。アデライドはそれに圧倒され、自分のコサージュの花を彼に与える。
アデライドは公爵とダンスをし、ロレダンはそれに対抗するため、移り気な女性を踊りに誘う(第6曲のワルツ)。しかしアデライドの目は金持ちの求婚者にのみ注がれ、拒否されたロレダンは小部屋に引き下がり、そこから陽気に踊る仲間たちを憂鬱な気持ちで眺める。
最後のシーン(エピローグ)では、お客は退散し、公爵はアデライドの招待を期待してその場に残る。しかし彼女は(「プラトニックラブ」を意味する)アカシアの小枝を差し出す。公爵は花言葉を理解し、悲しげにおじぎをして去る。するとロレダンに希望が湧くが、移り気なアデライドは(「忘れっぽいこと」を意味する)ケシの花を差し出す。ロレダンはそれを押しやって、部屋から出ていく。
アデライドは一人残され、バルコニーの扉を開け、オランダスイセンを手にそこに立つ。そのとき第1番目のワルツがかかる。突然ロレダンが隣りのバルコニーに現れる。(絶望の象徴である)イトスギとマリーゴールドの小枝を手にしている。そしてピストルを取り出し、額に当てる。アデライドは自分の移り気を後悔し、赤いバラの花をロレダンに投げる。二人が抱き合う中、幕が下りる。
ラヴェルは『アデライド、または花言葉』を2週間のうちにオーケストラに編曲した。そして自身で、4月22日のシャトレ座のマイル・トワノワのバレエを指揮した(オーケストラを指揮したのは1899年の『シェエラザード序曲』以来)。マイル・トワノワのプログラムには、他の作曲家の作品もいくつかあったが、『アデライド』ほどの成功をなしたものはなかった。独立音楽協会での初演は失敗に終わったが、バレエ作品の方は大きな成功となった。
この時期、色鮮やかなバレエというドラマチックな媒体をとおして音楽に生命が宿るのを見ることにラヴェルは魅了され、劇場での演奏に特別な関心をもった。1912年はラヴェルにとってバレエ豊作の年となった。『ダフニスとクロエ』と『アデライド』に加えて、ラヴェルは『マ・メール・ロワ』のオーケストラ版を書いてバレエ作品にした。ジャンとミミーのゴデブスキー家の子どもたちのために数年前に書いた、小さなピアノ組曲だ。
妖精のお話は素晴らしいバレエ作品に編曲された。ラヴェルは賢明にもオリジナルの子どもっぽい簡潔さを、バレエでも継承することにした。32人編成の小さなオーケストラを使い、小人たちの国のスケール感で細部を書き下ろした。バティニョル通りの小さな劇場アート・シアター(現在のエベルト劇場)での上演という影響もあった。
ラヴェルはミニチュア仕立てを強調するため、舞台の中に舞台を作るといった表現を考え出した。ターバンを巻いた小さな黒人の踊り手二人が、ステージの中にある幕を引くと、聴衆の目の前でシーンが変わった。衣装を担当したジャック・ドレザの魅力的なデザインだった。
『マ・メール・ロワ』のバレエ版では、ラヴェルは「眠りの森の美女」を中心のストーリーに据えたが、とはいってもピアノ版からかなりの数の曲も使われた。まずフロリナ王女が美しい庭で踊っていて、老いた乳母が紡ぎ車のところに座っている。王女は錘(つむ)にぶつかり針が手に突き刺さる。宮廷で仕える者たち、女官たちが気を失った王女のまわりに集まり、大騒ぎになる。仕えの者たちは王女を長椅子に寝かせ、厳粛な「パヴァーヌ」を踊る。妖精が現れて王女を見ると、眠る王女に夢を授ける。
つづくシーンでは魔法にかかったフロリナ王女の夢が表される。最初に美女と野獣の会話があり、野獣がハンサムな王子に変身するところで終わる。二人の小さな黒人が舞台の中のステージの幕を引いて、次の夢を紹介する旗印をかかげて次のシーンへと導く。
「美女と野獣」から「親指小僧」とその兄弟の話へと変わり、親指小僧は哀しげな表情で、家に帰るときの印になればと、森の中で道々パンくずを落として歩いていく。しかし親指小僧と兄弟が眠っている間に、鳥たちが全部パンくずを食べてしまう。
次はパゴダの女王レドロネットとその恋人である緑の蛇の話で、東洋風の(アジアではなく中央ヨーロッパから見て東の地域か)グルグルまわる踊りと色鮮やかな衣装が見られる。この夢が終わると、二人の小さな黒人はいなくなり、フロリナ王女が一人庭に残される。美しい王子がやって来て、眠る王女を見つける。王子がキスをすると、王女は眠りから覚めて生き返る。そしてバレエは「妖精の園」の音楽とともに終わりを迎える。
『マ・メール・ロワ』『アデライド、または花言葉』『ダフニスとクロエ』はわずか6ヶ月の間に、それぞれ初演された。1912年はラヴェルの「バレエ豊作の年」と言ってよかった。
1913年までの間に、ディアギレフのバレエはその斬新さで世に知れ渡った。珍しい素材を探す中で、ディアギレフは、自分の独自性を最高レベルで表現してきた、そして優れたオーケストラ編曲者である二人を合わせることを思いつく。ストラビンスキーとラヴェルはどちらも、この上ない素材をこの男に提供してきた。ディアギレフはこの二人がムソルグスキーの作品で新たなスコアを作ることを提案した。
ムソルグスキーは、42歳という早すぎる死を迎え、オペラ『ホヴァーンシチナ』を含む数多くの未完の作品を残していた。リムスキー=コルサコフはムソルグスキーの死後にこの作品を完成させたが、ディアギレフは新たなオーケストレーションをすればもっと効果的だと考えた。そしてストラビンスキーとラヴェルの両者に、その制作を依頼した。
*ストラビンスキー/ラヴェル版のバレエは、1913年6月パリで上演された。
ストラビンスキーはその当時スイス(レマン湖のほとりにあるクララン)に住んでおり、ラヴェルは自分がそこに行けば、『ホヴァーンシチナ』を一緒に制作できると考えた。ラヴェルは通常、夏はバスクの海岸沿いにあるシブール(サン=ジャン=ド=リュズ)かビアリッツで母親と過ごした。スイスへの2度と、1905年のオランダへの旅を除けば、当時ラヴェルはほとんど旅をしたことがなかった。
イゴール・ストラビンスキーはラヴェルより7歳年下だった。そのダイナミックなスラブ的気質は、洗練され抑制の効いたフランスの作曲家ラヴェルとは好対照だった。そうであっても、この二人は完璧に互いを理解し合っていた。ストラビンスキーの大胆なハーモニー、古い型式への反抗、新たな価値の創造は、ラヴェル自身の音楽概念にぴったり合っていた。両者とも伝説やファンタジーを音楽の舞台に設定することに喜びを感じており、また同じ詩人を尊敬していた。(1910年、ストラビンスキーはヴェルレーヌの詩『巨大な黒き眠りが』に歌を書いている。同じ詩で初期にラヴェルも歌を書いている)
ストラビンスキーは初期の時代に、ドイツの作曲家アルノルト・シェーンベルクの作品に大きな関心をもっており、かなり影響も受けていた。シェーンベルクは1874年、ラヴェルの1年前にウィーンに生まれ、今日(当時)の音楽界において最も独創的な存在だった。シェーンベルクの基本はクラシック音楽ではあるが、調性やメロディによる進展を複雑な構成による領域へと導き、音楽史の中で類似するもののない独自の発展をみせた。ラヴェルはシェーンベルクを比類なき才能に恵まれた音楽家とみなしていたが、明晰さと秩序を愛する自身の中のフランス的精神のためか、このドイツの作曲家の精巧な心の働きを理解することに難しさを感じていた。シェーンベルクの表現は不必要に複雑であり、音楽的な論法として超えられない領域がある、とラヴェルは感じていた。それを「不協和派」とラヴェルは呼んだ。未来の音楽は、無調の実験からメロディへ戻ってくると、ラヴェルは信じていた。
シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」とストラビンスキーの音楽は、ラヴェルがスイスに滞在していた1913年の夏、作り始めた歌集に直接的な影響を与えなかった。それは『ステファン・マラルメの三つの詩』で、ピアノ伴奏と弦楽四重奏と二つのフルートおよびクラリネットによるものだった。ラヴェルの初期の歌の一つ『聖女』はマラルメの詩による作品だった。そしてラヴェルが今回選んだのは、『ため息』『むなしい願い』『壷のなかから一飛びに躍り出た』で、1番目の歌はストラビンスキーに、2番目はフローラン・シュミットに、3番目はエリック・サティに捧げられた。『ため息』は憂鬱な長いため息で、柔らかで単調な伴奏がついている。『むなしい願い』はアルペジオと豊かなハーモニーできらめく曲。『壷のなかから一飛びに躍り出た』は、翌年の夏にサン=ジャン=ド=リュズを訪れた際、付け加えられた。
この歌の中で、ラヴェルは『高雅で感傷的なワルツ』でとった方向性を最大限に広げていった。「ダイアモンドの輝き、透明性、硬度と氷の冷たさをもったこの世のものと思われない雰囲気に」到達する。とはいえ、ラヴェルは実験的な様式に常に挑戦したものの、公けに革命的と呼ばれることはない。トリスタン・クリングソルはこう言う。
ピアノのための3曲が、1913年、ラヴェルの作品リストに加えられる。『前奏曲(イ短調)』が、後年の作品のすべてと同様にデュランから出版される。例外的にMathotから出版された他の2曲(『シャブリエ風に』『ボロディン風に』)も1913年に書かれ、それぞれラヴェルがごく若い頃から尊敬していた、題名にあげられた作曲家に捧げられた。
1917年、ディアギレフはラヴェルに、イタリアの詩人フランチェスコ・カンジュッロの台本によるバレエ作品を依頼した。ラヴェルはこのバレエを書くことを手紙で伝えていたが、作品に手はつけられなかった。少なくとも、その痕跡はどこにもない。次の年、ディアギレフはスペインで『アランフェスの庭』と題したバレエを発表、シャブリエとフォーレ、それにラヴェルの『スペイン狂詩曲』からテーマを使っていた。
ディアギレフはその後、ラヴェルに "ワルツの極致" を書くよう依頼するが、『ラ・ヴァルス』が届くと、自分のやりたいことに合わないと思った。ラヴェルは深く傷ついた。ラヴェルはディアギレフの拒否は、アーティストとしての自分の能力に対する返答であると解釈した。このことから二人の間に大きな亀裂が起こり、回復することはなかった。
1925年、ディアギレフとラヴェルはモンテカルロで再会した。ディアギレフは過去のことを忘れたいと願い手を差し出したが、ラヴェルは背を向け、和解に応じなかった。周囲からのお世辞やへつらいに慣れているディアギレフは、ラヴェルの拒絶に腹を立てた。ディアギレフはラヴェルに決闘を申し出たが、運良く友人たちがいてこれを防いだ。
ラヴェルのオーケストラ化された作品は、バレエにおいては、ほぼ一時期に作られた。ラヴェルのリズムに対する鋭い感覚はダンスに適しており、バレエ作品としてうまく解釈された。一方で、バレエ作品として書かれた音楽は、交響曲作品として大きな成功を得ていた。これはラヴェルの作品が非凡な技巧と音楽性に満ちていることの証明である。