見出し画像

[エストニアの小説] 第6話 #1 カティは不満だらけ(全17回・火金更新)

「幸せの2羽の青い鳥」は、アウグス・ガイリの短編連作小説『トーマス・ニペルナーティ:悪魔の舌をもつ天使』の第6話です。主人公のニペルナーティは全7話に登場し、それぞれの村で騒動を巻き起こします。
もくじへ(著者アウグス・ガイリについて他)
Original text by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 秋の野辺は穏やかな心地よさに包まれている。秋の静けさと平穏。風はなく、太陽の光もない。風なし、太陽なし。熟した穀物が息をつめ、今か今かと収穫を待ちわびている。夜はどんどん長くなり、昼は不安げに尻込みしはじめている。もうすぐ、あと2、3ヶ月もすれば、弱々しいくぐもった光が、(春の雪解け水みたいに)そこに残される。いまは昼の時間でも薄暗い。空気は黄色っぽくなり、大地の匂い、熟した穀物やホップの香り、飛び立っていく鳥たちの絶え間ない羽ばたきの音に満たされる。黄色みを帯びた青い空の高い高いところを、ツルたちが飛び去っていく。その鳴き声は三角形を描きながら次々に現れ、遠くへと去っていく。フーフーッ、フーフーッ、という声が秋のしんと静まった空に、昼も夜も響きわたる。フーフーッ、フーフーッ。畑で働く人々は、しばし帽子をとって額の汗をぬぐい、空に木魂する三角形にじっと目をあてる。そしてこの鳥たちと南風とともに、夏の日々と太陽も南へ去っていくと思う。

 畑は黄金色に染まり輝いている。小さな丘の上に緑が少し残っていたり、収穫の遅いジャガイモ畑で、紫や白い花々が黄色い花芯を抱いて咲いているくらい。ライ麦はすでに収穫されて積まれ、その円筒形の俵が農地いっぱいに広がっている。カラスやスズメがその上を声をあげながら飛びまわっている。ブンブンと悲しげな音をたてる脱穀機の音もすでに聞こえはじめた。このブンブン鳴る音で空気が震え、はるか彼方の畑や牧草地までそれが響きわたる。穀物のずっしりした荷が脱穀機の方へと運ばれる。働き者のアリが、夏の収穫物を巣に運んでいるような風景だ。

 森は黄色と赤に染まり、一瞬の陽射しを受けて、輝く金色の光の中できらめきを見せる。その瞬間、森は色とりどりに強い光を発し、人は真夏の太陽を避けるときのように、手で目をおおわなければならなくなる。カエデとカバノキはもう赤や黄色の葉を落としはじめている。毎晩、どっさりと葉を落とし、迎える朝には裸木の枝えだが露わになる。森の道はみな、落ち葉で深く埋められる。落ち葉と、わずかに残る暖かさと、秋の静けさに埋まる。ハンノキやハシバミの葉でさえ、ひだを寄せ色をくすませる中、ナナカマドの実は楽しげに赤い実を披露している。なんという静けさ、平穏さなのか、この森は。落ち葉の1枚1枚、マツカサの一つ一つが、空気を震わせ、音をたてる。どんどん森はまばらに閑散としていく。鳥たちはみな巣を離れ、リスだけが木々の間を飛びまわり、木の実や球果をかじっている。トウヒはろうそくのようにスクッと立ち、マツの樹冠は黄色い空の中に溶けていく。

 水は暗く曇り、川の流れは鈍い。音をたてることも、流れを速めることもなく、急くような真夏の活気はない。水の流れはゆっくりで、落ち葉や小枝を運んでいく。土手の茂みも葉を落とし、ホップがその茎にからみつき、白い花が毒性の匂いを放つ。1匹の白い蝶が暗い流れの上を飛んでいき、ホップの匂いに誘われたハチがブンブンと有毒な花のまわりを舞い、最後には麻痺を起こして草の上に落ちる。

 2人の人間が向こうから道をやって来る。ひとりは男で、もうひとりは若い女だ。背の高い男は猫背で、むっつり黙って歩いている。女は小さな荷物を右手、左手、右手、左手と弄んでいる。女は若く陽気で、髪を白いスカーフでおおっていた。もう一つのスカーフは肩に掛けられていた。その黄色の縁は地面に届きそうだった。疲れたように足を引きずって歩き、なんとか平らな場所を見つけて歩こうと、道のあっち側こっち側と移動している。そして一瞬も止まることなく口を開き、話しつづける。隣りを歩く男は、年長でその顔に笑みはない。手に荷物はなく、ただツィターを首から掛けていた。

 「まだこの先、ずっと歩くの?」 女の子が訊いた。
 「そうだ」 男がしぶしぶ答えた。
 「だけどもう3日も歩いてる」 女の子が抗議する。「それにあんたの農場はそれほど遠くないって言ってた。もう3日。ああ、なんてこと、足から血が出てるよ。もう倒れそう。教えて、トーマス、今夜には農場に着くの?」
 「今晩?」 トーマスは言葉尻をとり、上を見あげる。「いや、今晩は無理だろう、カティ。でも明日の朝までには、家に着くと思うよ。言っただろ、この道を歩くのは初めてなんだ、こんな遠くとは思ってなかった。それに道に迷ったしね。少し遠まわりしてしまった」
 「迷った?」 女の子はふてくされて言った。「だけどあんたは道を訊くってことをしなかった。人と出会っても通り過ぎるだけ、あいさつさえしない。出発したときから、あんたは変わってしまった。なんかつまらなそうで、不機嫌で、話も急にとぎれた。よその人を怖がってるみたいで、家も避けてる、敬遠している。干し草小屋やライ麦の山のところであたしを寝かせた。食べものは畑から盗んできたし。どうしてどこか農場に立ち寄ろうとしないの。そこに行けば食べものはいっぱいあるだろうし、寝る場所だってある。あたしのことを恥ずかしいと思ってるわけ? はっきり言ってよ、トーマス、あたしのことが恥ずかしいの?」
 「バカなことを言ってるんじゃない、カティ」 トーマスが叱った。「なんでわたしが君を恥じなくちゃいけない。それにどうして文句ばかり言ってるかわからないよ。昨日、昼ごはんにチキンを焼いてやっただろう。夕飯にはエンドウ豆を畑から採ってきた。両手いっぱいのきれいなエンドウ豆をね。それで焚き火をしているとき、ジャガイモを焼いて、エンドウ豆を食べ、澄み渡る秋の空から流れ星が落ちるのを見ただろ。空のどこもかしこもに、滝みたいに火の粉が降りそそいでいて、わたしたちはすわって、ひざの上に星を受けているみたいだった。それからわたしは片手を君の目の前にかざして、こう言った。見てごらん、見てごらんよ、君のひざは星でいっぱいだ、まるで輝く真珠みたいだよ。すると君は笑った、喜んでいた。なのになぜ今、文句ばかり言ってる? 明日の朝までには家に着く、それは確かだ」
 「だけどあのニワトリは盗んだものだし、夜はどんどん寒くなってる」 カティが言う。
 「なんだって!」 ニペルナーティが苛立たしげに言う。「畑には作物がいっぱいあるじゃないか。一口分もらうくらい、盗みとは言えない。鳥だってライ麦をつついてるし、ヒヨコだって地面を引っ掻いている。畑には種がいっぱい落ちているから、鳥たちはうろついてるんだ。どうしてわたしたちだけ、そうしてはいけない、ほんの少しの穀物をもらうだけだ。それに夜はまだそれほど寒くはない。わたしの腕の中にいて、君の小さな手をわたしの口に収めれば、暖かくなって頬は染まり、買ったばかりのストーブと同じくらいポカポカするさ。君にもわかるだろう? わたしは秋の夜が好きなんだ、穀物の熟した畑が好きだ。こんな風にして何週間も歩く。こっちの丘をのぼり、あっちの丘をくだり、ツルの鳴き声を頭上に聞き、道のそばの穀物のいい香りを楽しむ。そこにいる人たちに何を求めることがある? あの人たちの興味津々な質問がいやなんだ」

 女の子は口を閉じ、肩のスカーフを掛け直した。そしてこう言った。「知らない道を歩きはじめてからもう3日目、あんたは馬を使おうともしない。歩くことはかまわない、だけど足がもうだめなの。自分の目で見てみて。足に豆とすり傷があるでしょ。すごく痛くてヒリヒリするの。声をあげて泣きたいくらいよ。小さな石ころ、土くれを踏むたびにすごく痛い。道の真ん中に座り込んで、泣きだしたいくらい」
 それで男は、気をつかうそぶりを見せた。立ち止まり、カティの足を見て、女の子を抱き上げた。女の子は板切れのように軽かった。そしてすぐそばのライ麦を積んだ俵のところまで運び、自分の隣りに座らせた。
 「ああ、かわいそうなことをした」 男が優しく言った。「君の足は血が出て、傷ついてる。その足をクッションの上で休ませたいね。あー、なんて残酷なことをしたんだ、見知らぬ道を連れまわして、君の抗議に耳を傾けもせず。だけど本当に、もう遠くはないんだ、すぐに農場に着くから。そこに着いたら、君を休ませ、好きにさせてあげる。君の小さな足を治してあげよう」
 男は手を額にかざし、この先の道を確かめた。

 「いや本当だ、地平線に見える遠くの森は、わたしの森だろう。間違ってはいないはずだ。あれはわたしの森にそっくりだ。空をはしる木々の頭頂部は鋤のようだし、高い木々は見慣れたものだ。それに見た目の風景がわたしの育った故郷そっくりだ。いや本当だ、間違いはない、わたしの見立ては正しい。その向こうにわたしの農場がある、向こうだ、あの森の向こう」 男は嬉しそうに声を高めた。
 「どこ、どこなの?」 カティが嬉々として尋ねた。ニペルナーティの肩から、興奮で赤くなった首を伸ばした。「その向こう?」
 「いや、ちがう、そこじゃない」 ニペルナーティはそう言ってカティの手をとると、銃で狙いを定めるようにその方向を示した。そしてこう言った。「いいか、あの向こうの森だ。あの大きな森だ、青みがかった、鋤の持ち手が空に向かって伸びてるみたいなやつだよ。あの森の向こう側にわたしの故郷がある、そこに君を連れていきたいんだ」
 「じゃあ、行こう、あそこなら夜までに着ける」とカティは言って、頭のスカーフを直した。
 「ああ、バカな子だ」とニペルナーティは言い、カティをひざに引き寄せた。「その足では、この先1キロも歩けない。10歩あるいたら、うめき声をあげて倒れてしまうだろう。それにもう今日は終わる、夜はすぐだ。暗闇の中、君を連れて歩けない。夜はすぐだ、あたりは暗くなってる、空もどんどん色濃くなってる。今日はもう、歩くことはしない」

#2を読む

'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

いいなと思ったら応援しよう!