見出し画像

芸事と音楽家。ショパンとコンクール。

先日、日本ではやや興奮気味の内に終了したように見えた、ショパン国際ピアノコンクール。コンクールにあまり興味はないけれど、2015年にたまたま前回のこのコンクールをネットで見て、音楽コンクールもライブ配信の時代なんだと驚きました。そのときは開催のことを知らなくて、リアルタイムではなく、コンクールが終わってしばくして、アーカイブ配信されているものを見たのですが。

前回見たときに強く印象に残ったのは、審査発表のあとで、審査員全員の採点表が公開されていたこと。第一次予選からファイナルまで、すべての参加者の成績が、すべての審査員の採点でリスト化され、誰でも見れるようになっていました。こんなにオープンなコンクールって、他にもあるのだろうか、と興味津々。ただ今のところ、今年の採点表は未公開のようですが。あれは実験的な試みだったのか。

このコンクールでは、すべての演奏がライブでもアーカイブでも視聴できることもすごいと思いましたが、前回開催のとき、ビデオを見ていて一つ気づいたことがありました。コンクール終了後まもなくだったからかもしれませんが、ビデオは半日ごとくらいのまとまりで各ステージが公開されていたように思います。その後、参加者ごと、楽曲ごとのビデオに切り分けられたのではと想像します。この半日ごとくらいのまとまりのビデオを見ていたら、始まりから終わりまでそっくりそのまま録画が公開されていたのです。途中休憩の2、30分くらいの間も、ずっとビデオが回っていて会場風景をそのまま流していました。

なんでもないことのようですが、ライブ感が高まる感じはありますし、その場の時間の流れをそのままに、無駄な部分を切り取らないという思想はどこから来るのかと興味を持ちました。意図されたものなのか、そこのところはわかりませんが、演奏と関係のない部分を切り取ることが、技術的に難しいとも思えないので。

ライブ映像ということでいうと、一般に、ヨーロッパなど海外放映のものは、たとえばサッカーの試合の中継なども、チームのバスが会場に到着するまでの過程、選手がバスから降りてスタジアムに入っていくところ、試合前のウォームアップ、そして会場の外観や周囲の環境などを丁寧に映し出すことが多いように思います。つまり中心となる試合(コンテンツ)のみが重要なのではなく、どこの街でどんな会場で、どのような時間の流れの中でコトが起きているのかを記録する、という意志が働いているように見えます。日本ではオリジナル映像ではなく、切り取った中身の映像のみを公開することがよくあります。必要ないという判断なのでしょうが、ちょっと残念です。

さて今回のショパン国際ピアノコンクールですが(5年に1回なのですが、パンデミックの影響で1年遅れて今年開催)、優勝者の人の情報が日本語ではほとんど読めなかったので(あらゆるメディアが日本人入賞者の情報のみで埋め尽くされていたため)、コンクールの公式サイトに行ってみました。優勝したのはブルース・リウという中国系カナダ人の人でした。優勝直後の本人の話がサイトに載っていたので、それを読んでみました。

ブルース・リウさんによると、このコンクールを特別なものにしているのは、世界中のショパンを好きな人が、この場に一同に集まってくることだそうです。その人たちはみんな非常に熱心にコンクールを見、専門家のような人もときにいる。見ている人の各参加者(演奏家)への評価はさまざまで、この人がいい、この人は嫌い、とあるだろうけれどそれは全然かまわない、ショパンの音楽への理解のレベルがここではとても高いので、それで良いのだとしていました。

ちなみに各演奏者のビデオには、視聴者が❤マークを付けたり、コメントを書き込んだりできるようになっていました。優勝者発表前のブルース・リウさんの演奏ビデオは、一般視聴者の人気はあまりなかったようで、❤もコメントの数も控えめでした。

ブルース・リウさんの話ですが、優勝者のコメントとしてはなかなかのものだなと思いました。このコンクールの意味をこの人はそのように捉えているのだな、とわかりちょっと感心しました。このときまだリウさんの演奏はほとんど聴いていなかったのですが、演奏者のものの見方を知ったという点でよかったと思います。

そういえば、前回のこのコンクールで2位になったリシャール=アムランさんも、ショパンは自分の音楽がこんなにたくさんの人に楽しまれていることに、そして「コンクールというオリンピックか競馬のような場で演奏されていること」に驚いているかもしれないとインタビューで答えていました(サイト「ピアノの惑星」)。コンクールというものを、出場者である演奏家自身がこのように捉えていることに少しびっくりしました。なんというか<自分 ↔ コンクール>に収まらない視野の広がり、外からの視点をリウさんもリシャール=アムランさんも持っていることが感じられました。

音楽家として、また人間としての見識でしょうか。前回、今回とこのコンクールの審査員を務めているピアニストの海老彰子さんが、前回コンクール後に話していたことにも目がとまりました。「今回のショパンコンクール全体を聴いていて私が感じたのは、自分自身も含め、日本人はもっと人間として生きてゆくエネルギーを強くもっていかなくてはいけないということです。(中略)ステージでの外見などに気をとられすぎず、気骨のある、太いものを持った生き方をしていかなくてはいけないと思いました」(サイト「ピアノの惑星」) 意図の詳細はこれだけではわかりませんが、演奏と生き方は密接に繋がっている、あるいは人間としての生き方がしっかりあって初めて、音楽は意味をもち人に伝わるということでしょうか。ピアノの練習や楽曲の研究さえしていれば優れた演奏家になれるというものではない、という風にも聞こえます。

ピアニストを含めた楽器の演奏家は世界中にたくさんいるわけですが、何が演奏に違いを生むのかは興味深い問題です。演奏家にとって重要なことは何か。楽器をうまく扱うこと、つまり演奏技術を高めることに精進していれば良い演奏家になれるのか、求められた楽曲を完璧な技術で弾けることが演奏家にとっての最終目標なのか、とかいろいろ疑問はあります。おそらくその最初にくるのが、何のために自分は音楽をやっているのか、音楽で何を達成したいのか、という自覚や意志なのかもしれません。

物心つく前からピアノを習っていて、かなりの才能が認められて周囲からこれはピアニストになるしかない、と思われてきたような人は、案外何のために音楽をやっているのかの自覚がもてないまま、それを要求されることもなく演奏家になってしまうことがあるかもしれません。芸事としてのピアノ、少しでもうまくなり、少しでも楽曲の意味を理解し、少しでも良い演奏ができるよう日々努力し、、、完璧といえる演奏に近づいて、大きなコンクールで優勝してその実力を認めてもらう、それがピアニストとしての一つの達成目標となる。こういった演奏家はアジアにはたくさんいて、そういう人たちがショパン国際ピアノコンクールに集結します。近年は日本や中国、韓国からの参加者が非常に多いようですが、このコンクールを制覇して、次のステップに進み、今後の活動に生かしたいということなのでしょう。

今後の活動、、、たとえば優勝なり入賞すると、グローバルにコンサートツアーが組まれる、あるいは組みやすくなるということがあるかもしれません。世界各地でソロで、有名オーケストラと共演してピアノを演奏してまわることができるようになる。そういうことが演奏家としての成功であり、そういうことがやりこと、ということでしょうか。

一方で同じピアニストでも、コンクールに出場するための準備の時間やエネルギーを、自分の追求する音楽のために使う人もいます。ショパンコンクールのようなコンペティションでは、出場するために年月をかけてショパンの楽曲を研究、練習する必要があるでしょう。さらに1度ならず2度の挑戦ということになれば、2倍の年月をコンクールのために使うことになります。それは音楽家としての人生にとってかなりの代償になるかもしれず、大きな決断が必要になりそうです。

音楽家として何がやりたいか、に尽きると思いますが、コンクール出場、 優勝 or 入賞で世界ツアー、という道だけが演奏家にとっての花道とは言えない、そんな風にも考えられます。

ヴィキングル・オラフソンというアイスランドのピアニストがいます。何がきっかけだったか*、彼がバロック時代のフランスの作曲家ラモーと、同じくフランスの近代の作曲家ドビュッシーをミックスしたアルバムを出したのを聴いて、とても面白いと思いました(どっちがどっち?みたいな曲の配列になっていた)。このアルバムを聴いて以降、ラモーはわたしのお気に入りの作曲家の一人になりました。

またオラフソンはミニマル・ミュージックの作曲家に分類されることの多い、フィリップ・グラスのアルバムも出しています。これも聴きましたが、フィリップ・グラスがこういうピアノ曲をつくっているとは知りませんでしたし、オラフソンの演奏で聴くグラスはとても魅力的に(いつの時代のどういう音楽?のように)聞こえました。最近は『モーツァルトと同時代作曲家たち』というタイトルのアルバムを出したようで、これもぜひ聴いてみたいと思っています。同時代作曲家の中にエマニュエル・バッハ(S.バッハの息子)が入っていて、好きな作曲家の一人なので、どんな演奏をオラフソンがしているのか興味があります。実はE.バッハの曲をピアノで弾いていて、これってモーツァルトじゃない? あるいはモーツァルトはこれを聞いたに違いない、と思ったことがあるのです。(E.バッハはモーツァルトより40歳以上年上)

<ラモーとドビュッシーの組み合わせ><モーツァルトと同時代作曲家たち>どちらのコンセプトも、オラフソンという演奏家の強烈な音楽観やインスピレーションから発生したものに見えます。そしてその音楽観を生んでいるのは人間性であり、オラフソンがこの世界をどのように見ているかの現れだと思います。演奏家というのは「再創造」をする人、つまりすでにある作品を解釈して高い技術で「再現」して提供する人と見られてきました。実際、いまでも大半のピアニストやピアニスト志望者はそれを目標に活動していると思います。

しかしそうではない道も、演奏家にはありそうです。音楽というものを歴史の縦軸、地理的な横軸で見渡し、視点を定めて世界を再構築し、演奏をつうじて新しい音楽の見方、聴き方を提出する、そのような音楽家のあり方もきっとあると思います。

オラフソンはウィキペディアの経歴を見るかぎり、コンクールとは違う場所に演奏家としての、あるいは音楽家としての道を敷いてきた人に見えます。またわたしが一度インタビューしたことのある、ドイツのチェリスト、アニャ・レヒナーは非常に若いときから、自分の音楽世界を探索し、構築してきた音楽家で、アルゼンチン、アルメニア、カタルーニャ、エストニアなど国外の音楽家たちとタッグを組み、クラシック音楽の境界線を押し広げてきた人。文化を異にする作曲家とのコラボレーションを積極的にやっています。またバンドネオンやギターの奏者と、レヒナーのチェロの共演はユニークで、たとえばシューベルトのような純クラシック音楽も、新たな世界が目の前でひらかれるような、心躍るものがあります。レヒナーはチェロという楽器を通してどんな音楽世界を築きたいのか、それを活動の中心に置いてきた演奏家だと思います。彼女に若い音楽家へのアドバイスとして、どのように自分の道を選び、キャリアを積んでいけばいいのかを聞いたとき、「キャリアについては考えないこと。それは音楽とは関係のないことだから」ときっぱり言われてドキッとしました。

音楽家としてどのような道をゆくかは、きっと無数にあるに違いなく、コンクール受賞歴から始まる世界ツアー実現もその一つに過ぎないということ。

音楽を聴く側にとっては、可能なかぎり完璧で素晴らしい演奏を聴きたいのか、それとも音楽家がどんなアイディアをもって、今までにない音楽世界を構築しそれを実現しようとしているのか、その成果が見たいのか、で好みが分かれるでしょう。

わたし自身は、オラフソンやレヒナーという音楽家と出会ったことで、音楽を聴く幅が、人的にもジャンル的にも確実に広がりました。彼らの演奏をつうじて、知らなかった世界の音楽に出会い、未知の音楽家を知り、共演する音楽家たちの出会いによって生まれる音楽の熱狂も体験しました。

もともと音楽にかぎらず、自分には「完璧さ」というものにそれほど興味がないこともあります。完璧さを求める行為は、本道以外の好奇心、枝葉末節や脇道を排除する方向に働くことがあります。完璧さを求めて訓練することは、ある意味、形を固めていくことに繋がります。完璧さとは確実さでもあるからです。確実さを手に入れるには、同じことを繰り返す訓練が必要なこともあります。機械的に、自動的にからだに覚えこませるなど。

ピアニストの中村紘子さんが子ども時代、ハノンなどの指練習をやらされて、母親が見ていないときは譜面台に本を置いて読みながら指だけ動かして練習する振りをしていたという話を聞いたことがあります。それとは対照的にリシャール=アムランさんは、指練のための指練はあまりしない、曲の中から選んだパッセージを弾くことで代替していると言っていたと思います。

繰り返しの機械的な練習と比べて、気まぐれな、その日その日の気分でなにか面白いものを探索していく行為は、確実性には繋がりにくいところがあります。ある楽曲を(ピアノで)どんな音で弾きたいかに耳を澄ませて集中していたら、指使いはそのたびにバラバラだったりします。作曲家でピアニストの高橋悠治さんが、青柳いづみこさんとの連弾で、楽譜に指番号を書き込むことをすごく嫌がったというエピソードがあります。指使いを確定することで、出す音や演奏が固定化してしまうのを避けようとしたのだと思います。

今回のショパンコンクールの演奏は、まだ部分的にしか聴いていないので(いいなと思って聴いていたJJ Jun Li Buiさんの演奏以外は)、これからゆっくり他の人の演奏も聴いてみようと思います。

*ヴィキングル・オラフソン:何がきっかけで知ったか、と書きましたが思い出しました。2020年3月28日にドイツ・グラモフォンが世界ピアノデーのイベントとして、バーチャル音楽祭を開催したとき、そこに出演していた10人のピアニストの中の一人でした。パンデミック下ということで、それぞれの演奏家が自宅でスマホなどを使って録画した映像が流されました。ピアノの演奏とともに各人が今の想いを語ったもので、とても印象深かったのを覚えています。オラフソンはアイスランドの自宅スタジオからの演奏でしたが、曲についての説明を丁寧にするなど、親近感とともに音楽家としてのあり方に興味をそそられました。

タイトル画像:photo by Stevie Lee (CC BY 2.0)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?