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[エストニアの小説] 第7話 #1 居酒屋(全10回・火金更新)

 雨の降る冷たい天気がここ数週間つづいていた。夜には霜がおり、柔らかな雪が降ってきた。しかし昼間は雪が溶けて、雪解け水が流れつづけた。日々は暗くどんよりとして、正午にはもう薄暗くなり始め、ぼんやりした明かりも夜にむかうに連れじょじょに消えていった。海は泡だち、うなり声をあげ、松の木々は来る日も来る日もからだをゆらしながら吠えつづけた。海岸にパラパラと生えるジュニパーの藪は、暴風にもみくちゃにされ、回るコマのように風の中で旋回していた。

 一人の男が砂の海岸を歩いてきた。服はボロボロで、コートのボタンすら欠けていた。そして突風が吹くと、身をかがめ、コートをからだに巻きつけた。靴は破れ放題、コートの襟をたて、帽子は風で飛んでいきそうだった。男は凍る寒さに震え、大きな木の陰を探して歩いた。そこで何時間もじっと立ち、木に寄りかかっていたが、その大きな目には悲しみも憂うつの影もなかった。ただくちびるは真っ青で、背をまるめ、前髪が目にかかっていた。夜になると、男は漁師の小屋の扉を叩いたが、入れてもらうことはできなかった。「部屋は家族でいっぱいだ、シルバステに行け。居酒屋と宿屋がある」 しかし男はシルバステには行かなかった。男は森の中で夜を過ごそうとしたが、森の木は葉を落として丸裸、風は平地と同じようにうなり声をあげていた。少しして男は小枝とモミの球果を見つけ、それを積み上げて火を起こそうとした。しかし小枝も球果も湿っていて、苔や葉っぱは氷の結晶で覆われていた。小さな焚き火をなんとか起こそうとしても、煙はあがっても暖かさは何もなかった。男はしゃがみこみ、震えながら、暗い秋の風が森の中を通っていく音を一晩中聞いて過ごした。ツィターを弾こうとしたけれど、手が冷たく、楽器の音は森のうなり声の中に埋もれた。それでツィターを藪の下に葉でおおって隠した。朝になって海の方からカモメの声が聞こえてくると、寒さと空腹の中、歩みを進めた。

 男はときに、小屋を訪ねて仕事はないかと訊いた。漁に連れていってくれないか、魚を獲る手伝いをして食い扶持を得たいからと。しかし漁師たちは、男の破れた靴やボロボロの服を見て、それを断った。「助けはいらない、働き手は十分間に合ってる」 そう言った。すると男は笑いながら、礼儀正しく別れのあいさつをし、帽子を持ち上げたが、そうしている間にも、コートの前がはだけ、シャツの下から裸の胸が現れた。「すみません、お邪魔をして」 そう言った。「どうしようもなくて、農作業はどこも終わってしまって、森の仕事は冬までないんです」「シルバステで丸太を積んでるぞ」 男はそう言われた。「そこで仕事が見つかるかもしれんぞ」「丸太を積む?」 男が訊いた。「ありがとう、わたしはそこまで困ってないので。町に行って仕事を探してもいいし。でも秋に海辺で過ごしたいと思ってるんです。だからあなた方と海に行きたいと。海とそのうなり声が好きなんです」
 この男は海とそのうなり声が好きだった。再び、男は震えながら、砂の海辺を歩きはじめた。からだを温めようと、ときどき走りもした。すると浜辺でロープの束を見つけた。そのそばの小屋の柱の上に、漁をするための破れた網があるのを見つけた。男はすぐさまそれを修繕しはじめた。小屋の主人が外に出てきたときには、2、3時間がたっていた。主人は見知らぬ男を見て驚き、こう尋ねた。「俺の網で何をしてる?」 男はにっこり笑って口笛を吹いて、「そうお尋ねで? あなたの網を直してるんですよ。ここを通りかかって、破れた網を見て思ったんです。もしこれを治したら、持ち主はパン一切れとニシンを少し、分けてくれないことはないだろうとね」 しかし男の笑顔も、気安い態度もこのときは役にたたなかった。小屋の主人、漁師の男は眉をひそめると、怒って男を追い出しにかかった。「こういう放浪者は嫌いなんだ」 そう言った。「友だちみたいな顔をしてやって来て、昼に手伝いをするが、夜には家の中を空っぽにしていく。それに逆らおうものなら、叩きのめして殺す。リスマエでそんな風にして、先週、家族全員が殺された。あんたはその連中の一人じゃないのかい? 行って、行くんだ、おまえなど必要ない!」

 男には運がなかった。男たちが海に出ていて女子供しかいない小屋でも、中に入れてもらうことはできなかった。それで男は寒さの中、腹を減らして浜辺を歩きつづけた。やっとのことでシルバステに着くと、男は居酒屋に足を踏み入れ、友だちのヤーン・ヴァイグバロはいるかと尋ねた。居酒屋は小さくて薄暗く、大きなストーブの脇に長いベンチが置かれていた。客はいなかった。カウンターの後ろで、眠そうな居酒屋の主人があくびをしていた。
 「ヤーン・ヴァイグバロだって?」と主人。「そんな名前は聞いたことないな」
 「だけどあいつは、ここにいるはずなんですがね」 来訪者はそう言うと、ベンチを少しストーブから離し、背中を温かなレンガに押しつけた。居酒屋の主人が地元民のことを話している間、男はストーブの暖かさを味わっていた。
 「あんたの名前は何だい?」 居酒屋の主人が尋ねた。
 「ニぺルナーティ」 男が答えた。「わたしの名前はトーマス・ニペルナーティ。この近くで森林関係の仕事をしている。だが居酒屋で金を使い果たして、丸太を積もうとここにやって来た。友だちのヤーン・ヴァイグバロが呼んでくれたんだ。そいつはここで丸太を積む仕事があると言っていた」
 「ヤーン・ヴァイグバロなんて聞いたことないな」 居酒屋の主人は、この男が金をもっていないと聞いて、さらに不機嫌そうな声を出した。「しかし丸太は港で積まれている。荷船がもう1週間も停泊してて、ユダヤ人が働き手を探してる。あいつらはここからさっさと木材を船で運び出したいんだ」
 しかしトーマス・ニペルナーティはストーブのそばで暖をとっており、この話をすぐ終わりにしたくなかった。
 「おかしいな」 男はさも驚いた風に言った。「友だちのヤーン・ヴァイグバロがいないとは。あいつはシルバステの居酒屋にいるようにと、書いてよこした。他にこの辺に居酒屋なんかないだろう?」
 「ない」と居酒屋の主人。「ほかには何もない。漁師の男たちがいて、みすぼらしい小屋があるだけだ。荷船はたまにしか来ない。丸太や木材を積んでまたいなくなる。やつらは貧しい。酒を飲むこともかなわない。漁師たちはウォッカが好きだが、あいつらは金をもってない。居酒屋に来て、金の代わりにニシンとか魚で払おうとする。居酒屋の主がニシンだの魚だのをどうする?」
 「だけどわたしはもっといいものを提供できる」 ニペルナーティが突然言い出した。
 ニペルナーティは素早くポケットをかき混ぜた。そしてナイフと小さな鏡とコルク抜き、ノートを出してきた。それをカウンターの上に置くと自慢げにこう言った。「さあ、見て、これで何をわたしに提供する? いいものばかりだろう? 鏡は高級なスウェードのカバー付きだ。ノートは金の刻印と飾りがある。ナイフも珍しいものだ。刃が6つもある。爪研ぎ、ハサミ、コルク抜き、象牙の耳かき、爪やすり、ねじ回し、その他いろんな道具だ。こんなものを見たことあるかい?」
 「それほどの価値はない」 居酒屋の主人がものを見て言った。「それにハサミの刃は割れてるし、象牙の耳かきはヒビが入ってる。しかしあんたが後でこれを買い戻すというなら、ビールを2、3本提供しよう」
 「ビールを2、3本だって?」 ニペルナーティが軽蔑の声をあげた。「頭がおかしいんじゃないかい? ここにあるものは少なくとも10クローンはする。それなのにあんたはビールを2、3本だって? あんたは商売人じゃない、ふいごみたいにこの居酒屋が空っぽなのも不思議じゃない」
 居酒屋の主人はニペルナーティの出したものを退けてこう言った。「それ以上はなしだ。あんたの壊れたハサミや小さな鏡で何ができる? 誰が俺から買うかってんだ」
 「いや、わたしが買う!」 ニペルナーティが自信あり気に言った。「明日からわたしはここで丸太積みをする。そうすれば飲んだり騒いだりに終わりはない。しかしあんたがこんな風に言うなら、わたしの友だちのヤーン・ヴァイグバロもわたしも、リスマエの居酒屋に行くことになるな」
 居酒屋の主人はニペルナーティの出したものを再び手に取ると、爪や歯でものを試しこう訊いた。「じゃあ、いくら欲しいんだ? あんたの値はいくらだ?」
 ニペルナーティは少しの間、考えた。
 「いいかな」 ニペルナーティが言った。「こういうのはどうだ。1週間、この貴重品を預ける。あんたはわたしにウォッカを5杯、1キロ分のパン、ニシン1匹、今晩の宿を提供する。そして土曜日に、この貴重品を買い戻す」
 「だめだ、だめだ」 居酒屋の主人は抵抗した。「話にならん。それじゃ多すぎる」
 ニペルナーティは出したものをポケットにしまい、ドアに向かった。
 「じゃあ、また」 そう言った。「リスマエの居酒屋はもっと物分かりがいいはずだ。あー、そうだ、飲んで騒いでがあそこで始まる。給料日には、丸太運び人みんなにリスマエの居酒屋に来るよう頼む。それで楽しいパーティーができるってわけだ」
 ニペルナーティはドアのノブに手をかけ、外の寒さにおじけづいたように、少しの間そこにとどまった。「まったく確かなことだ、いつかここに戻ってきたときには、カウンターの向こう側にあんたじゃなくて、白い骸骨がいるってね」
 「出ていけ」 居酒屋の主人はそう言うと、ニペルナーティを外に追い払った。「あんたのバカバカしい話はもうたくさんだ」
 
 ニペルナーティは外に出た。凍る雨が頬を打った。コートの前をかき合わせ、身をかがめ、哀れな姿で震えながら浜辺を歩いた。森の中に入っていき、藪の下に隠しておいたツィターを見つけ、検証した。それをシルバステの居酒屋に持っていこうとしているようだった。が、冷たい弦に何度か指を走らせると、また藪の下にそれを隠した。そして落ち葉をかき集めると自分用のベッドをこしらえた。

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'The Queen of Sheba' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


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