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ジャズのようなノンフィクション?

日本語でノンフィクションというと、事実に基づいて書かれた文章、たとえばあるテーマを追ったルポルタージュとか、誰かの評伝とか、紀行文とか、そういうものを思い浮かべる。映像作品の場合は、ドキュメンタリーと呼ばれることが多い。写真作品の場合は、(本当はそうではないが)基本的になんであれノンフィクションと思われているふしもある。

前回の「Truth is somewhere between ○ and ✗」で少し書きかけたが、英語でいうnonfictionは、日本語のノンフィクションと少し違う定義があるように見える。指している範囲が広く、たくさんのカテゴリーに分かれているといった。

英語版Wikipedeaのnonfictionの項目には、「ノンフィクションの内容は、客観性、主観性のどちらで提示してもよい。物語(story)の形式をとることもある」とあった。え、主観的でもいいの? とまず思った。なんとなくノンフィクションというのは、現実を客観的に捉えてそれをなるべく正確に記す、という使命があるように思っていた。storyの形式をとることもある、とあるが、物語とstoryはやや違うのかもしれない。

日本語で物語と言うと、フィクションをイメージすることが多い。ものをかたる(頭の中で生み出したこと、つくりごとを語る)。英語のstoryは中身の話ではなくて、形式なのかもしれない。何かを(本当のことであれ、つくりごとであれ)語る、面白く語る、といったあるコンテンツを他者に伝える手法のようなもの、それがstoryか。storyという言葉は、英語メディアでは、たしかにいろいろな場面で使われている。ニュースサイトや何かの紹介ページでも、storyはよく見かける。inside storyとか、story behind the event とか。別に小説があるわけではない。そこでは「物語」という言葉は当てはまらない。

おそらく日本語の「物語」はフィクションに寄った言葉なのだろう。語源的に言うと、出来事を語る「こと」と、漠然とした対象を語る「もの(物)」は違うようで、「もの」は鬼や霊などを指す言葉だったことがあり、現実からかけ離れた世界を語ることを「物語」という、という説もあるようだ。

一方storyの方は、語源的に「重要な出来事や過去の英雄についての語り」があり、フランス語の古語estorieは「story, chronicle, history」の意味があるようだ。hi-storyとstory、綴りも似ている。フランス語の元になっているラテン語のstoriaもほぼ同じ意味らしい。英語の百科事典Century Dictionaryでは、「語源的には短い歴史(history)がstory」となっていて、進化の過程で語りの面白さが加えられていった、とある。

やはりstoryと物語は語源が違い、指している範囲も違うようだ。英語のnonfictionが「storyの形式をとることもある」と言っているのは、出来事をどのように語るか、と大いに関係がある。

英語のnonfictionにはcreative nonfictionという言い方もあるようだ。ただのnonfictionとcreative nonfictionの二つがあるのか。それとも同じものを違う言い方で表しているだけなのか。creative nonfictionは、「上手に語られた、本当にあったことについての簡潔で正確なstory」を指すらしい(サイトCreative Nonfiction)。

nonfictionを「ジャズのような」と言う人もあり、それは香り高く、アイディアと技術が混ざり合った豊かなもので、昔ながらのスタイルのものもあれば、新たに生み出された形式のものもある(Creative Nonfiction)、とのこと。ノンフィクションがジャズのような、というのはちょっとした驚きだ。ジャズのイメージは、中でもモダンジャズやフュージョン以降のジャズは、即興演奏や使用楽器、演奏法など、演奏者の自由な裁量、発想による音楽に見えるから。

ただジャズのようなノンフィクションというものがあるのなら、読んでみたいものだという気にはなる。日本語でいうノンフィクションは、どこか固いイメージがある。誤りのない正しいことを、客観的な(あるいは中立的な)立場から、正当な方法で記述したものといった。間違ったことや、主観的な立場、個人的心情などが出れば、ノンフィクションにあるべからずのような評価がくだされてしまう、といったイメージ。書法にしても、ノンフィクションの規定のスタイルから外れて見える新しい形式より、昔式の(あるいは正当と思われる)スタイルの方が評価されやすいとか。(?)

そんなことはないよ、あなたの思い込みではないのか、と言われるかもしれないが。

Googleで「ノンフィクション作家おすすめ」を検索すると、トップの画像入り結果のところに、高野秀行と沢木耕太郎が出てくる。沢木耕太郎はどちらかというと従来型の、高野秀行は新手のノンフィクションの書き手と言えるのだろうか。高野秀行さんのソマリランドを紀行した『恋するソマリア』はとても面白いし、ノンフィクションの固いイメージがない。内容も文章の質も高いけれど、読みやすく親近感がもてる。知られざる土地、誰にも興味を持たれていない人々を、著者自身の強い興味によって体験し、それを書き記すとき、書くスタイルはとても重要になってくる。

日本語版ウィキペディアではノンフィクション作家は、「記録作家とも言う」と記している。高野さんは記録作家だろうか。そこから外れてはいないものの、その中におとなしく収まっているとも言えない。エンターテインメント性が高いのだ。それは事実に沿っていないという意味ではない。対象にたいする興味のもち方とか、体験の記し方が「記録作家」にとどまらないということだ。

わたしは普段からノンフィクションを読むことが多い。無名、あるいは作家ではない人の体験記や、何かについての論考を読むことも多い。日本語でも英語でも読む。それはテーマや対象になっている人物とか場所に興味を惹かれるからだ。もちろん文章の質は高いほうがより楽しめるが、内容が他で語られていないことであれば、それだけで読む価値はあがる。また文章というのは、書き手の誠実さや率直さ、公平な態度があれば、プロのような文章でなかったとしても好感をもって読めるものだ。

たとえば『自衛隊イラク日報:バクダッド・バスラの295日間』。これは2005年から2006年にかけて、イラクに派遣された自衛隊員たちの日誌をまとめたものだ。600ページを超える分厚い本で、本物の日誌なので伏せ字(■)でつぶされている部分も多いが、いろいろな意味で非常に面白い本だ。最初わたしはKindle版のサンプルで読んで、のちに紙の本を買った。Kindle版は、日誌をそのままスキャンしたもので読みにくく、業務報告などは全面黒ベタなどもあったが、興味津々で読んだ。紙版の方は文字はすべてタイプされていて読みやすく、通常の本の形態だ。

今回この文章を書く動機になったのは、やはり(前回書いた )上原善広さんの『路地の子』批判を目にしたことが大きかったと思う。ノンフィクションってなんだろうという疑問を、改めて考えてみたかった。『路地の子』は、ノンフィクション作品(中でも英語でいうcreative nonfiction)にあたると思う。実際にあったことを元に、storyとして面白く読めるよう、まとめられている作品だ。エンターテインメント性は高いと思うが、作者が頭の中で作り上げ、一から構築した小説ではない。エンターテインメント性とノンフィクションは同時に成立する。ノンフィクションにエンターテインメント性があってはいけない、ということはない。とくに英語でいうnonfictionにおいては、定義として話の面白さ、語りのうまさが強調されていることもある。

マリンバ奏者・通崎睦美の『木琴デイズ』という木琴奏者の平岡養一の評伝を見返していて、その序文に面白い記述を見つけた。

また、すでに絶版になっているが、直木賞作家・豊田穣が書いた『小説平岡養一・木琴人生』(福昌堂、1977年)もある。しかし同書については、「小説」と付けることを条件に本人が出版を許可したという経緯を聞いた。実際、細かくみていけば、後者には多くの箇所で、小説として作家独自の彩りが加えられていることがわかる。

著者が条件を主張したのは、日本で言うところの「ノンフィクション」の範囲からはみ出す可能性を危惧したのかもしれない。それとも評伝は評伝であって、一つのジャンルだから、これは評伝ではなく小説だということか。ただし登場人物の設定や出来事は事実に沿ったことが多いだろうから、作家の創案ではない。その意味でこの作品が小説かどうかは、微妙かもしれない。

というように評伝にはもともとグレーゾーンがあると思う。いま"Unfinished Symphony: The Story of Franz Schubert"という作曲家シューベルトの評伝を読んでいるのだけれど、(おそらく)子ども向けの本ということもあって、すべてのことが物語風に語られている。これはノンフィクションか小説か。小説ではないだろう。著者のマドレーヌ・ゴスは他にもラヴェル、バッハなどの評伝を書いている。シューベルトの評伝はラヴェルのものより、より物語風になっている。シューベルトが父親や友人たちと交わした会話が、生き生きと再現されている。事件のあとで作られる再現ビデオに似ている。

ラヴェルの評伝は作曲家の死の直後に書いているため、弟や友人などが生存しており、関係者を直接取材しているようだ。それにより書き方がシューベルトのものとは少し違っている。

上原善広さんの『路地の子』に戻ると、評伝の対象は自分の父親だ。一般人なので、彼について書かれた本は他にないだろうし、人物に関する参考文献もおそらくないのではないか。周囲の人、子ども時代を知る人などに取材はしていると思うが、著者自身、対象者の息子であり、人物を直接知る人間だ。評伝の対象として難しいのか易しいのか、と言えば、書くことは簡単ではなかったかもしれない。物語風、小説風になっているのは、そういうこととも関係があるのだろうか。

路地(被差別部落)の人間、そして特異な人生を歩んだ人、ということはあったとしても、一般人の評伝を書く場合、エンターテインメント性がないと、作品として成立しにくいのではないかとも思う。ノンフィクション・ライターの角岡伸彦氏の批判が、すべて間違っているとは思わないけれど、ノンフィクション、評伝としての価値や是非は、それほど簡単、単純に決められるものではない気がしている。

Title photo by Thomas Hawk(CC BY-NC 2.0)


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