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Truth is somewhere between ○ and ✗

英語にはあいまいな表現があまりない、と言われることがあるけれど、ないわけではない。前回ファクトチェックやフェイクニュースについて書いたことに続き、今回は別視点で「真実とは」について書いてみる。

最近出会った言葉で、ピンときたのが上のタイトルにあげたもの。最近出会ったといっても、その言葉が世に出たのはかなり昔のことで、アメリカの写真家ロバート・フランクの言った言葉だった。書類の整理をしていてたまたま「最近」それを見つけた。というかその言葉と再会した。

ロバート・フランクが言ったのは次のような言葉。

The truth is somewhere between the documentary and the fictional, and that is what I try to show.

この部分にボールペンで赤線が引かれ、ご丁寧にもページ下の欄外に同じ赤のボールペンで日本語訳が書かれていた。

Robert「真実はドキュメンタリーとフィクションの間のどこかにある」(それが私が見せようとしていること)

Anne W. Tuckerというアメリカのキュレーターの書いた、ロバート・フランクについての文章の一部。その記事のタイトルは「It's the misinformation that's important」で、これもロバート・フランクの言葉の引用だった。misinformationとは間違った情報。(間違った情報、それが大事とはどういう意味だろう*

真実はどこにあるのか、真実とは何か、という問いは今も盛んにされているが、「ドキュメンタリーとフィクションの間のどこか」にある、という答えは、今という時代の中に置いた場合も、ある種のリアリティをもたらす。

ドキュメンタリー、あるいはノンフィクションは、基本的に事実に即したものであるはずだが、事実を集積していけば真実となるのかといえば、必ずしもそうではない。事実の集積=真実ではない。それはデータの集積がそのまま真実になる、とは限らないのと同じだ。

ドキュメンタリーとは一つの仮説であり、どれだけたくさんの事実を集めたとしても、それが真実に直結するとは限らないということか。

最近、ノンフィクションとは何だろう、と改めて考える機会があった。わたしの好きなノンフィクション作家、上原善広さんの著書が、同業のノンフィクション・ライターの角岡伸彦さんという人に非難されているのを見つけたのだ。対象になっていたのは『路地の子』という本で、角岡さんによると「間違いが多く、フィクションが混じっている」とのこと。角岡さんの「上原批判」の長大なブログの中で(すべてを読んだわけではないが)、批判は上原さんの文章の質にまで及んでいた。

わたしは以前に上原さんの『被差別の食卓』や『発掘狂騒史 「岩宿」から「神の手」まで』を楽しんで読んだ。取材対象への対し方やその記述に好感をもち、良い作家だと判断していた。『路地の子』は読んでいなかったので、角岡さんの批評を読んだあと読んでみた。事実関係などはわからないので何とも言えないが、作品としては面白いと思った。

この本は上原さんの父親の半生を描いたもので、評伝の形をとっているが、自分の父親なのでそこが普通の評伝とは少し趣が違う**。なんというか主観と客観が組み合わさったような感じはあったように思う。もとももと上原善広さんは、小説家的な素質のある(narrativeな)ノンフィクション作家なのかもしれない。『路地の子』は、以前に読んでいた他のノンフィクションより、その印象が強かった。

『路地の子』は2017年に新潮社から出版され、今年の夏(2020年)、同社から文庫版が出ている。わたしは第5刷を底本とするKindleで読んだのでわからないが、新しい文庫版では、通常入ることの多い解説や文庫版あとがきはないそうだ。それを入れるのであれば、批判について触れる必要があり、そうなれば批判に対して反論することにもなる。それをしたくなかったのだろうか。あるいは著書そのものを読んで判断してほしい、ということだったのか。

角岡さんの『路地の子』批判に触れたとき、ノンフィクションにおける真実とはどういうものなのだろう、と思った。このことのあとで、「The truth is somewhere between the docmentary and the fictional….」を目にしたので、二つを結びつけて考えることになった。

ではフィクションに含まれる真実とは、どういうものなのだろう。

フィクションにおける真実とは、虚構を仕組んでいく中で、作者の管理の外で自然発生的に生まれてしまう真理のようなものだろうか。あるいは、インスピレーションのようなものかもしれない。ちなみに英語では真実も真理も同じtruthという言葉で表される。事実の方はfact。

Somewhere between ○ and ✗は、実はよく使われる便利な表現でもあるようだ。最近読んでいるダニエル・レヴィティンの音楽と脳の関係についての本でも出てきた。

The truth lies somewhere between the two extremes, .....in the nature/nurture debate.

たまたまここでもtruthが主語になっているが、「生まれか、育ちか」の両極論の間のどこかに真実はある、というわけだ。真実のような見極めが難しい、曰く言い難い事項に対して、somewhere betweenは有効な表現になる。

もう一つ、最近感心した言葉がある。「解釈」とは何か、についての説明なのだが、解釈とは、ある作品なり出来事や状況の中に、受け手が「真意」や「真実」を探す行為と言っていいだろうか。

解釈とは、知と無知(knownとunknown)が組み合わさって(混合によって)生まれるもの

これはクロアチアのピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチがインタビューで答えていたもの。テクノロジーや機械化が進んでも、解釈だけはAIにはできないという文脈の中で。

音楽家のいう「解釈(interpretation)」には、ときに演奏そのものも含まれる。まあ演奏とは、作曲家の書いたものの解釈だから、この二つは分けることはできない。解釈のない演奏があるのかどうか。

多分AIも、解釈(解析)はする。何百年にわたる楽曲のデータと演奏例のビッグデータをもとに、そこから引き出したある種の「スタンダード」な解釈をもって演奏することは可能だろう。それは「知(known)」の集積から導き出されるものだ。

しかしポゴレリチは、「知と無知が組み合わさって」と言っている。AIが無知を所有することは、つまり無知を我がものとすることはできるのか。無知は入力できない。入力されていないデータがあっても、そのこととAIの中に「無知の領域」が存在することとは違うのではないか。

AIにとってはデータがあるか、ないか、が問題で、「ない」はゼロを意味するだけだ。しかし人間にとっての「無知(unknown)」とは、未知の領域を所有することを意味する。これはunknownであると同時に、unconscious(無意識)やsubconscious(潜在意識)と隣り合うものかもしれない。知らないというより、感知されていない、認識されていないという意味で。

演奏の解釈を例にとれば、既知(known)のことのみをつかって演奏した場合、その演奏は四角い箱に材料をきっちり詰めた仕上がり感になるかもしれない。先生に習ったこと、毎日繰り返し練習したこと、この弾き方がよいと定めたもの、それを発表の場でできるかぎり再現する、といった演奏だ。ここはこの指づかいで、ここはこの強さで、ここはこの流れの中で。繰り返し演奏しても、どれもほぼ同じになるような演奏法。即興性はゼロ、安全確実運転、新たなもの、自然発生的なものがその場で生まれる可能性は低い。

その演奏に足りないものは何か、と言えば、未知(無知)の領域だ。既知のことで満たされた演奏は、どこにも行けない。囲いの中をぐるぐるまわるだけ。機械のように確実なことのみを音にしていく。何かを探す、求める、というベクトルが働かない。聞いている人とともに、何かを探す旅に出ることができない。

初見といって、知らない曲を楽譜を見ながら初めて弾いてみることがある。その体験は一つの楽曲に対して1度しかできない。初めて楽譜を見て、どんんな曲か探り弾きできるのは1回だけ。つまり貴重な体験なのだ。大げさに言えば、神秘の時間。そこには広大な無知(unknown)が広がっている。それを耳をたよりに先に進んでいく。あー、わかったわかったと、決めつけるようにガンガン弾いたりしてはいけない。探りながら弾く。

しかしたいてい、ここには既知(known)なものもある。音の並べ方だったり、和声だったり、形式だったり、他の楽曲ですでに知っていることが、違う形や感性で含まれている。その既知のことを杖に、石橋をたたくようにして無知の領域を探検する。それが初見だ。

初見は1度限りの体験、2回目からは見ず知らずのことはなくなる。とはいえ、1度演奏しただけでは解釈不能なものもある。よく理解できない箇所がいくつかあったりする。クラシック音楽で言えば、20世紀以降の音楽は、馴染みのない音列や響きが登場することも多い。音符自体は簡単でも、経験値のない音の流れやリズム、響きには脳もからだもすぐには反応できない。

ポゴレリチの言う、知と無知が組み合わさって解釈が生まれる、という現象は、古い時代の様式的な音楽を演奏する場合にも、もちろんあると思う。どんな楽曲に対しても、常に不確定要素を残し、意識して向き合う、ということだろうか。人は誰でも、無知や未知の広大な領域を抱えて生きているはずだから。すべてを知る万能の人間はいない。

「somewhere between」も「知と無知の組み合わせ(combination of )」も、不確定なことを示そうとするとき効力を発揮する表現だ。不確定の歩みには、可能性という希望が常に並走する。真実をもとめること、真意は何か探ること(解釈)、この二つの行為に真摯になろうとすれば、不確実性や不純性が必要になる、というパラドックスがここにはある。

Title photo by Zaytsev Artem(CC BY 2.0)

*間違った情報、それが大事とはどういう意味だろう:ロバート・フランクの言う「It's the misinformation that's important」の意味を考えていて、思いついたことがあった。正しい情報があり、間違った情報(misinformation)があるとき、写真家(制作者)の意図は、正しい情報より間違った情報の方にこそ強く現れる、ということではないか。正しい情報が事実そのものであれば、誰にとっても(あるいは多くの人にとって)同一の見解となり、いわば公のものとなる。間違った情報は個別的であり、作者の意図や見解や思い込みがそこには出ている。創作というのは、フィクションであれノンフィクションであれ、作者がいて成り立つもの。いい意味でも悪い意味でも、意図や思い込みの部分に、創作のもつパワーが出るのかもしれない。

**普通の評伝とは少し趣が違う:『路地の子』は評伝の形をとっているが、分類としては英語圏で言うところの「memoir(回想記)」の要素もあるかもしれない(ただし著者の父親は存命)。ノンフィクションとは何かについて広く調べていたら、日本語の世界でははっきりカテゴライズされていないような広範囲のものが含まれているようで、Wikipedia(英語版)の説明には、「ノンフィクションの中身には、客観性、主観性の両方が提示され得る。物語(story)の形式をとることもある」とあった。日本語でイメージするときの「事実に基づいた記録」より、かなり広い範囲の作品を nonfiction は想定しているように見える。


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