[エストニアの小説] 第6話 #15 モールマーの提案(全16回・火金更新)
「ヤーク、ヤーク!」 カティは幸せいっぱいで大声をあげた。「こっちに来て、ハンゾーヤの主人、ヤーク!」
ヤークが奥の寝室から出てきて、どうしたのかとカティを見ると、カティはそこに走り寄って、甲高い声をあげた。「何だと思う、ヤーク、ニペルナーティがあたしを手放すって、ヤークのものになっていいって」
「本当か?」 ヤークが尋ね、疑うようにニペルナーティを見た。「カティは本当のことを言ってる、ってことです」 ニペルナーティは不機嫌に答えた。「あんたに恋してる子を、わたしがどうできる」
「わたしが最初から考えていたことだ」と嬉しそうなヤーク。「この男は俺の命を救い、傷を治し、妻まで用意してくれた。だがな、これは言っておく、手ぶらで俺の農園を出ていくな。馬小屋に行って、一番いい馬を選んでくれ。明日、ここを出ていくときには、それに乗っていけばいい。カティの代わりに馬をやったなんて思うなよ。あんたがいいやつだからだ、俺はあんたといてよかった。俺の命を救い、収穫を手伝ってくれた。農夫や日雇いみたいに、あんたのような金持ちに金を渡すのは不適当かもしれん。だから感謝の印として馬を持っていけ。もし馬を選ぶのが難しいようなら、農夫のモールマーに頼むといい。あいつは女たちが牛をよく知っているように、俺の馬を知っている。そういうことだ。カティ、すぐにコーヒーを作って、俺たちに持ってきてくれ。それから食器棚にはウォッカが少しあるはずだ。俺の親戚のトーマスは、よそ者たちといるんじゃなくて、俺の客であり友だちだと感じてくれるだろう。そういうことだ」
すぐにカティが湯気のあがるコーヒーポットを手に戻ってきた。3人はテーブルについた。ハンゾーヤの主人が厳粛な面持ちで、手を震わせながら、ウォッカをグラスに注いだ。一つをニペルナーティに、もう一つをカティに渡すと、こう言った。「我々みんなの健康と良き関係に! トーマス、ことがこんな風に運んで、がっかりするな。他に道はなかった。これは神の意志だ、あのお方がこうと決めたら、俺らはそれを蹴ちらすわけにはいかない。神は誰にカティを与えるか、承知していた。そして選ばれたのは、俺だった、ハンゾーヤの主人のな」
「ヤーク、あのね?」 カティがヤークの袖をつかんで明るく言った。「雪が降る頃になったら、ニペルナーティを訪ねていきましょう。この人はそんなに遠くに住んでるわけじゃない、ときどき会えると思う」
カティはにっこり笑ってニペルナーティの方を見た。「あんたの大きなお屋敷をぜひとも見たいの。あたしにくれると言っていた素敵な部屋、覚えてるでしょう、柔らかな革と絨毯で覆われた部屋よ。あんたのところの森も見たい。秋の嵐のときに大きな音をたてて揺れる森よ。だけどその前に、あたしとヤークが結婚するときには来るよね。それほど先のことじゃない。そして結婚のプレゼントとしてレイヤを連れてきて。あー、ヤークは知らないよね、ニペルナーティは立派な猟犬を飼っているから、それを結婚祝いにほしい」
「そうだな、結婚祝いに何か用意するだろう」 ヤークが和やかな調子で言った。
「何か素敵なもの、それとレイヤもね」 カティが訂正した。「レイヤは必ず、そして何か素敵なものもね。だけど忘れないで、3週間後の日曜日よ。必ず来てね。そうじゃないと、あんたのところにも行けない」
「そうなのか、結婚式の日取りも決めてあったんだ」 ニペルナーティが驚いて言った。
「一緒に医者のところに行ったときに、そう決めたんだ」 ハンゾーヤの主人が率直に答えた。
「そんなこと言わないで」 カティがとがめた。「たしかに、あのときあんたはそう言った。でもあたしは賛成したりしてない。あたしはこう言った。『もしトーマスが許してくれたら、そうする。トーマスに自分でそう言って』って」
「で、俺はそうした」とハンゾーヤの主人。「家に戻ってからこう言った。『トーマス、あの子を俺にくれ。するとこいつは『いや、ダメだ』 で、俺は『そんなことを言うあんたはアホだ』」。
「それはないでしょ!」 カティが怒って声をあげた。「どっちにしても、自慢気に言わないで。そうよそうよ、あたしたちはまだ牧師に会ってないし、あたしは鳥みたいに自由の身。好きなところどこへでも飛んでいけるの。もしあたしが朝、雄鶏とともに起きて、荷物をまとめて、ニペルナーティと出ていったら、何て言うつもり? この人は大きなお屋敷を持っていて、それは白木の丸太づくりで、すごく高い塔まであるの。あたしがニペルナーティの屋敷に行ったら、あんたは何て言う?」
「おまえはどこにも行きゃしない」 ヤークは不機嫌そうに言って、拳をつくり、テーブルをバンと叩いた。
カティが唐突に笑いだし、いたずらっぽい目でヤークを見ると、その髪を引っ張った。
「本当にクマみたいだわ!」 嬉しそうなカティ。「知ってる? ヤーク。トーマスはあんたのことを闘牛男とか盗っ人の親分って呼んでる。ここは盗っ人の住処だ、ここにいたら、何もかも剥ぎ取られる、靴やシャツまでだ。そう言ったの。実際、こうやってあんたを見てると、あんたは巨人みたい、森から出てきた野蛮人、大きくてどっしりしたね。あんたの片手の手袋から、あたしの服が1着まるまる作れるほど。でもあんたを置いてはいかない。あんたは正しいことを言った。あたしがどこにも行かないって。あんたと一緒にここにいる。この恐ろしい闘牛男とね、盗っ人集団のボスとね。あたしはあんたといる、でもトーマスは若くて、ハンサムで、素敵な屋敷を持ってるんだからね」
ニペルナーティは立ち上がって、コーヒーとウォッカの礼を述べると、帽子を手にとった。
「もう行くの?」とカティ。「コーヒーはもういいの、あたしたちともっと話したくはないの?」
「夜が近づいてる。このあたりを少し見てまわりたい。それから部屋で休む。明日は雄鶏とともに起きて、昼までに家に戻りたい」
ハンゾーヤの主人も立ち上がると、ニペルナーティの肩を親し気にポンポンとたたいてこう言った。「急ぐ理由などないだろう。明日の夕方でも、あるいはあさってだってよかろうに。それに馬のことを覚えてるか? まだ明るい、馬小屋に行って、好きな馬を選べばいい。農夫のモールマーを呼んでな。朝食も食べずに、あんたを出てはいかせない。馬に乗っていけば、ほんの2、3時間で家に着く。カティがケーキを焼くだろうからそれを持っていけ。コーヒーと焼いた玉子もな。そうだよな、カティ。明日、玉子を焼いて、コーヒーをいれて、ケーキをおみやげに用意するんだ、そうだな、カティ」
「もちろんそうする」 カティが自信たっぷりに言った。
そしてニペルナーティが出ていくと、ハンゾーヤの主人は出口のところから、もう一度声をかけた。「トーマス、馬を選ぶのを忘れるな、馬小屋で一番いい馬をな!」 ニペルナーティは馬小屋には行かない。もう夕方で、空には鉛色の雲が広がっている。風が草地を渡っていき、荒涼として寒々しい。リースが納屋から出てきて、ニペルナーティと行き違うと、何か言いたげな様子だったが、何も言わずニヤリとして家の中に入っていった。ニペルナーティはため息をつき、納屋のロフトに登っていく。農夫のモールマーがもうそこに寝ていて、パイプを手に握ってふかしていた。ニペルナーティが隣りに寝そべると、モールマーはこう言った。「あんた、明日にここを出ていくって? あんたのシタンのパイプで最後の一服だ、終わったら返す。いいパイプだ、あんたのシタンのパイプはな、高級で心地いいパイプだ。こういうのは市場では売ってないだろうよ」
「いや、モールマー。こういうのは大きな街に行っても売ってない。遠い海外からのものだ。上等な乳牛くらいの値だ。だけどこれをあんたにやるよ。これで楽しんでくれ、そして友だちのトーマスのことを覚えていてほしい。この農場に一番大事なものを残していくときに、わたしのシタンのパイプをあんたに贈らないわけにはいかない」
ニペルナーティはため息をつき、額に手をやり、悲しげに言った。「知ってると思うけど、わたしの妻になろうとしてた人が、この農場にとどまって女主人になる。彼女はヤークの妻になるんだ。覚えているかい、わたしたち二人が、幸せいっぱいの2羽の青い鳥が、楽しげに声をあげてここに来たときのことを。そしてヤークがわたしの花嫁を手にして、わたしは一人、明日、ここを去る。あー、なんてことだ、あんな野蛮な男を見たことがない。あいつは人の最も大事なものを奪って、その上、こじきのように人を追い出すんだ。わたしがこれからどうしようとしてるか、わかるかい? 屋敷に着いたら、6頭の足の速い馬にそり用の馬具をつけて、初雪とともにここに戻ってくる。わたしは毛皮のコートを着て、上等な帽子をかぶり、エナメル革の長いブーツをはいてね。そしてわたしがハンゾーヤの門を粋な姿で通りぬけると、カティは驚いて気を失いそうになる。そして心の中でこう毒づく。『ああ、バカなあたし、愚かなあたし、この粋な男を捨てて、年老いたずんぐりを取った、この老いた熊があたしの夫だなんて!』 だがわたしは敷地を自慢げにブラブラと歩きまわり、カティのことなど見ようともしない。ヤークと親しげに話をし、ウォッカを手渡し、肩をポンポンと寛大な態度でたたく。そしてハンゾーヤの主人がわたしに中に入るよう言うと、家の玄関を疑わしげに見て、こう言う。『ヤーク、ダメだ、あんたはわたしに謝らなくては。この入り口を通れるとは思えない。あんたのところの人たちは、この狭い入り口を玄関として使ってるのかい?』 そしてカティがわたしのあざけりを聞くと、自分の貧しさを恥ずかしく思って顔を赤くし、わたしを追いやったことを苦い思いで後悔する。幸せはすぐ手の届くところにあったのに、分別のなさと愚かさのために心が曇り、煙突から煙が消えていくように、幸せを手放した。モールマー、いいかい、わたしを貧しく惨めな人間と思うなよ。わたしには大きな白い邸宅が立つ私有地があって、それはここからたいして遠いところではないんだ」
「ヤークはあんたが金持ちの領主だと言っていた」とモールマー。「俺はここを離れたいとずっと前から思ってた。あんた、俺を農夫として雇ってはくれまいか? ここでの働き方を見ただろう、俺は勤勉だ」
「わたしのところの農夫になりたいのか?」 ニペルナーティは喜びの声をあげた。「で、ここの闘牛男のもとを離れたいと。いつでも連れていく、あんたが来たいときに来ればいい。あんたの働き方や勤勉さは見ていた。貧しいヤークよりいい給料を払うよ」
「で、あんたの農場はどこにあるんだ?」とモールマーが尋ねた。
「わたしの屋敷はここから遠くない」 ニペルナーティが声を強めた。「ハルマステに来たら、石の道の方へと左に曲がる。その道を古い宿屋があるところまで進み、宿屋のところを右に曲がる。ヴェリクの水車場に着いたら、そこから道は丘の急斜面をのぼっていく。頂上まで来たら、わたしの邸宅の赤い煙突が見えるだろう。そこでわたしの名前を言えばいい、そうすれば誰かがわたしの屋敷まですぐに連れてきてくれる。だますんじゃないよ、ぜひとも来てくれ」
「いや、あんたをだましたりはしない」 農夫のモールマーが答えた。「いい給料を払ってくれるなら、必ず行く」
「ここよりいい給料を払うよ」と真面目な顔でニペルナーティ。「この冬、森の木をたくさん切りたい、で、たくさんの労働者が必要だ。ああ、まったく、わたしが誰か、何ができるか見せてやりたいよ。この家の屋根のすきまから中を覗き見てごらんよ、奥の部屋に灯りがともり、年寄りのヤークがわたしのカティといちゃついている。わたしは頭にくるべきか、そうではないのか。あの60歳の年寄りが、腐った切り株が、キリスト教徒の変人が。あいつはわたしの花嫁と楽しくやってる。わたしは黙って見ているべきなのか?」
「もし俺の花嫁とあいつがそうしてたら」とモールマー。「丸太で頭をぶん殴ってやるさ!」
「丸太で頭をぶん殴る?」 ニペルナーティが聞き返した。「それは素晴らしい考えだ、どうしてわたしにそれができない? たしかに、これ以上のことはない、あれこれ考える必要はない。あんたの考えは素晴らしい。気をつけろ、あの女たらしが!」
'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)
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