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謝辞 (マデリーン・ゴス)

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドワールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

 1938年12月、1939年1月とパリでは、フランス語で書かれたモーリス・ラヴェルの評伝がたくさん出版されました。しかしながら、それ以前には、各種の雑誌や新聞、そしてロラン=マニュエルによる論文(モーリス・ラヴェルとその作品:1914年、1926年、モーリス・ラヴェルとその劇場作品)をのぞけば、このフランスの著名な作曲家に関する印刷された情報はありませんでした。

 アメリカで出版されたこの評伝は、ラヴェルの死後まもない1938年の初頭に書き始められ、そのために、ラヴェルの近しい人々からの第一次情報を多く含むことが求められました。ラヴェルが親しくしていた友人は数は少なく、そして直接の家族で生き残っているのは弟のエドゥアールだけでした。
 本書を書くにあたり、リサーチにおける計り知れない尽力と原稿の編集を助けてくれたエリザベス・C・ムーアに特別の感謝を送ります。

 また著者は、エドゥアール・ラヴェルの親切で計り知れない助力に対して、大いなる感謝を捧げます。「ベルヴェデール」の家をラヴェルの死後はじめて開けてくれ、写真を撮ることを許可してくれました。また未公開の貴重な写真も提供してくれました。ボネ氏、ボネ夫人、そしてジャック・ド・ゾゲブは、ラヴェルと暮らしていた頃のことをたくさん語ってくれ、またラヴェルの信頼するハウスキーパーだったレヴロー夫人は、仕えていた15年間のことを話してくれました。リカルド・ビニェスは、生涯の友モーリスについて、子どもの頃の思い出話をたくさん披露してくれました。モーリス・ドラージュ、G.ジャン・オーブリー、アンリ・フェヴリエは、パリの音楽界や文学界でよく知られた人々ですが、貴重な情報を与えてくれました。またアンリ・フェヴリエの息子ジャック・フェヴリエは、ラヴェルの親しかった人々に話を聞く機会をつくってくれました。フランスの卓越したチェリスト、モーリス・マレシャルとジェラール・エッキングは、ラヴェルとのコンサートツアーについての面白い話題を提供してくれました。

 ジュルダン=モランジュ夫人*は、珍しい写真を貸してくれた著名な音楽評論家で、家の装飾についてラヴェルの好みや特異な性格を詳しく教えてくれました。マルグリット・ロン(コンサート・ピアニストでパリ音楽院のピアノ学科長)は、ラヴェルとの交流の中で起きた出来事を語り、ラヴェル晩年の写真(サン=ジャン=ド=リュズで友だち二人といる)を寄付してくれました。

 アメリカではロバート・シュミッツ夫妻が、ファイルを閲覧させてくれ、アメリカ・ツアーに関する貴重な詳細を提供してくれました。ハンス・キンドラー(ワシントン・ナショナル交響楽団の指揮者)、そして著名なダンサー、アドルフ・ボルムとアメリカの作曲家アレクサンダー・スタイナートは、ラヴェルとの友情について興味深いエピソードを話してくれました。

 ここにあげた方々の親切で寛大な助けがなければ、この本を書き上げることは不可能でした。モーリス・ラヴェルについて英語で初めて書かれた評伝創作の喜びを、読者の方々が著者とともに味わってくださると嬉しいです。

*ジュルダン=モランジュ夫人:音楽評論家となっているが、関節リュウマチのために早期に引退を余儀なくされた、ラヴェルと非常に親しかったバイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モランジュと同一人物ではないか。

'Acknowledgments' from "Bolero: The Life of Maurice Ravel" by Madelene Goss
日本語訳:だいこくかずえ(葉っぱの坑夫)



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