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XII. ダフニスとクロエ

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・サン=マルソー伯爵夫人のサロン
・ディアギレフとバレエ・リュス
・ラヴェル、バレエ曲のため「納屋」に籠る
・『ダフニスとクロエ』

 サン=マルソー伯爵夫人は芸術に対する理解が深い人だった。マルゼルブ通りにある夫人のサロンは、パリ中の人々に知れ渡っていた。そして彼女のソワレ(夜会)に招待されることは、この上ない特権だった。20世紀初頭、あらゆる著名人がこの場を訪れた。

 木曜日と土曜日の夜には、パリの上流階級の人々が正装して、ホテル・サン=マルソーのサロンに集まった。しかし水曜日は作家、画家、彫刻家といったアート界の人々の場となり、中でも音楽に興味をもつ人々、音楽関係者は中心的存在だった。形式ばらないことがルールで、ドレスでなくとも許された(極端な因習尊重の時代において、これは革命的なことだった)。そして音楽がソワレの中心だった。まず素晴らしいディナーが出され、これに続いて友人仲間たちが客間へと移動する。シェードのランプに豪華な家具、そして一番重要なものがプレイエル製の2台のピアノだった。人々の興奮を呼び、喜びをもたらすための装置だった。

 現代作曲家たちの音楽が、「昔ながら」のものより歓迎された。とはいえフォーレとアンドレ・メサジェは、ワーグナーのオペラのパロディを四手連弾で弾いてお客を楽しませることもした。「ときどき」と作家のコレットは当時の記録に書いている。「この二人はピアノ椅子に並んで座り、唐突な移調など交え、即興演奏で腕比べしてみせました。二人ともこの遊びが大好きで、決闘でもするみたいに挑戦し合っていました。これでどうだ…. じゃあこれは、当てが違ったか?とね」

 お客は音楽ばかり聴いていなくともよかった。ある者は静かな部屋の隅に引っ込んで、新しい作曲家について議論し、またある者はよく整えられた書棚から本を選び、あるいはサン=マルソー夫人の小さなペット犬、ウィスティチの相手をしたり、またある画家はこっそり部屋の隅で、著名人をスケッチしたり。しかし音楽がひとたび始まれば、敬意をもって注目することが求められた。

サン=マルソー夫人(1850 - 1930) by Pauline Carolus-Duran

 サン=マルソー夫妻は知性ある、陽気なホストだった。開放的なこの家の空気が、音楽家たちに新たな作品を持ち込もうという意欲を与えた。また曲の真価を理解する聴き手がいつもいたので、作曲家は自作を喜んで演奏もした。多くの世界的に知られる作品が、ここで最初に演奏された。メサジェはオペラ『ペレアスとメリザンド』のスコアを、盗んできたかのように胸に抱いて現れた。そしてピアノのところでそれを読みはじめ、心を込めて、錆びたトタンのような声で歌った。止まっては歌い、止まっては歌いした。「そしてこれ…….それからこれ」 そしてメリザンドのところに来ると目を閉じた。その何年か後には、ファリャの『三角帽子』が、まだ原稿の状態でサン=マルソー夫人のソワレで発表された。

*アンドレ・メサジェ:フランスの作曲家、ピアニスト、指揮者(1853 - 1929)。1902年、パリのオペラ=コミック座でドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』の世界初演を指揮した。

 ある夕べ、ほっそりとした気配りの効いた服装の若い男がやって来た。きゃしゃな体でフサフサとした黒い髪にカールした口髭をたくわえ、そのせいで頭がやたら大きく見えた。この男は最新のファッションで身を固めていた。丁寧に結ばれた幅広のネクタイと、エレガントな真っ白なシャツの胸飾りが美しい織り布のチョッキを引き立て、完璧な見映えだった。内気で控えめな態度のため目立つことがなく、ときに未知の人を寄せつけないように見えるほどだった。

 しかしこの男、モーリス・ラヴェルが自分の作品をいくつかピアノで弾くと、最初の印象は変わっていった。すぐにラヴェルはサン=マルソー夫人のソワレの重要な人物となった。そしてお客の温かな歓迎が、ラヴェルの内気さを和らげた。しかし新しい自作への興味が失せると、ラヴェルは演奏を渋った。たとえ自分の作品であっても、何回も繰り返して聴くことには興味がなかったのだ。ホテル・サン=マルソーをしばしば訪れたラヴェルは、画家や作家、他の音楽家たちと歓談することより、音楽そのものを楽しんでいるようだった。「聴くことより、自分で曲をつくりたい」 そうユーモアをまじえて語った。「充分に聴いたからね」

 ラヴェルが変わった意見の持ち主だという評判が間もなく起きた。この噂はいたずら好きのラヴェルを喜ばせた。ラヴェルは自分自身を矛盾した存在にするという、パラドックスを好む人間だと言われた。常に女性的な優しさ美しさを魅力と感じ、また評価もしていた。この男が異性に魅了されることはあったとしても、特別な人がいることを指摘できる者はいなかった。多くの人がラヴェルの変わったコメントを思い出している。「わたしは美しい女性以上に、美しい機関車の方を愛しています」 さらにこう付け加えた「わたしの唯一の愛人は音楽なんです」

 1909年、ロシアバレエ団(Ballets russes:リュスはロシアを意味する)の公演は、目をくらませるゴージャスな色彩、熱狂的な踊り、きらめく音楽でパリを夢中にさせた。この新たな芸術は、保守的なフランスの人々を空前の熱狂に巻き込んだ。官能的な音楽に無秩序が圧巻する世界観、そして豪華な舞台装置、こういった要素がバレエ・リュスを芸術サークルにおける最先端に祭り上げた。バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフは、最も人気あるアーティストとなった。

セルゲイ・ディアギレフ

 ロシア皇帝の実の息子と言われていたディアギレフは特別な嗜好をもつ天才で、さらに破格の運営能力を備えていた。パリでの最初の年、ディアギレフはロシアの作曲家を紹介するコンサートを開き、1908年にはムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』をシャリアピンの主演でプロデュースした。1909年、ディアギレフはロシアバレエ団を設立し、輝かしいメンバーを集結した。画家のバクスト、振り付け家のフォーキン、そしてニジンスキー、パブロワ、カルサヴィナ、アドルフ・ボルムといった卓越した踊り手の面々を揃えた。(後に『ボレロ』を依頼する)イダ・ルビンシュタインも元々この中のメンバーだった。

 ディアギレフは祖国ロシアの音楽(リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』や『金鶏』、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』組曲、『眠れる森の美女』、ボロディンの『イーゴリ公』など)でバレエ作品を作っている間にも、常に何かを発想し生み出す性質のため、新たな音楽素材を探し、当時の若手作曲家に目を向け、バレエ団のために楽曲を委嘱した。このようにしてディアギレフは、近代音楽における最大のパトロン、そして発揚者となった。

 当時まだ名の知られていない作曲家だったストラビンスキーは、ロシアの童話『火の鳥』のバレエ曲を書くよう依頼された。その結果、独自性あふれ、(多くの人が受け入れ難い)不協和音に満ちた最高傑作が生まれた。この燃えたつ若い作曲家は(かつての伝統的で素晴らしいとされていた音楽に大っぴらに盾ついたため、「極悪のイゴール」と呼ばれた)、音楽界に終わりなき論争を引き起こした。この作曲家が何を言おうとしているのか、誰も理解ができなかった。『火の鳥』の1年後に『ペトルーシュカ』が発表された際、批評家の中にはこの作曲家は精神のバランスを失っていると言った。1913年に書かれた楽曲『春の祭典』は、初演の際、騒動を巻き起こした。モーリス・ラヴェルはこの若い才能ある作曲家の作品の価値を、当初から認めていた一人だった。『火の鳥』は、シャブリエ以来、ラヴェルが何よりも感銘を受けた作品である。中でもその見事なオーケストレーションに打たれ、ストラビンスキーはラヴェルの生涯を通じた親しい友となった。

 それ以外のディアギレフのバレエ作品の成功としては、才能あふれるニジンスキーにより、比類なき様式で踊られたドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』、シュトラウスの『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、ファリャの『三角帽子』があった。レパートリーには、プロコフィエフや(第一次対戦後には)プーランク、オーリック、ミヨーなどの作品も含まれた。

 パリに来た最初の年、ディアギレフはモーリス・ラヴェルという名のフランスの若い作曲家の音楽を耳にした。その生き生きとしてリズミカルな様式は、バレエに合っていると感じた。1910年、ディアギレフはラヴェルにギリシア神話の『ダフニスとクロエ』を題材に、バレエ作品を書くよう依頼した。

 ラヴェルはこの委嘱を何よりも喜んだ。ラヴェルの風変わりな資質が、この作品の表現にぴったりだった。バレエはこの音楽をもとに発想され、煌めく舞台装置や色鮮やかな衣装によって視覚化され、リズムは踊りの中で完璧に表現された。

 古代ギリシアの作家、ロンゴスの物語から取られ、バレエ団のミハイル・フォーキンによって振り付けされた最初の台本は、ラヴェルの気に入らなかった。原初的な東方の気質をもつロシア人と、高度に洗練されたフランスの作曲家の意見が合わないのは仕方のないことだった。ラヴェルには独自の考えがあった。そして自分の音楽が、振り付けの奴隷となることを拒んだ。ラヴェルはこのギリシアの伝説『ダフニスとクロエ』を、アントワーヌ・ヴァトーが描く18世紀の女性の羊飼いや、ジャック=ルイ・ダヴィッドの古典的な絵画の世界として捉えていた。一方、画家のバクストは正反対に、派手で豪華な東洋風の色合いのものを舞台装置として考えていた。

初演時の『ダフニスとクロエ』第1場の舞台美術:バクストの水彩画

 最終的に両者は歩み寄った。台本のいくつかが変更され、ラヴェルは新たな作曲に取り組んだ。友人のゴデブスキー家の強い勧めで、ラヴェルは1910年3月、ヴァルヴァンにある彼らの夏の別荘へと居を移した。そこでラヴェルは邪魔されることなく仕事に専念できた。この「納屋」は仲のいい友だちが気軽に訪問するには遠すぎた。自動車の便も少なく、最も近い駅からもフォンテンブローの森を通って2キロも歩かねばならかった。ゴデブスキー家の娘ミミーは、アパッシュ*の仲間が森をやって来ると、ボロディンの冒頭の主題が口笛で吹かれたと語った。交響曲第2番からのこんな一節だ。

*ボロディンの交響曲第2番が、アパッシュの秘密のテーマソングだった。 アパッシュとは1900年ごろ、パリで結成された芸術家のグループの名称。新しい芸術を支持する「ごろつき」の意味でアパッシュが使われた。ラヴェル、ストラビンスキー、ファリャなどがメンバーだった。

 この田舎でラヴェルは完璧な自由を得て、集中して仕事ができた。ドアの外には休息を与えてくれるフォンテンブローの美しい森があり、その緑茂る道はインスピレーションの元となった。『ダフニスとクロエ』のうっとりするテーマの多くは、森を長い時間散歩していたときに生まれたものだ。緑の木々や森といったものは、モーリス・ラヴェルの静けさを好む性質にとって必要不可欠なものだった。のちにラヴェルは終の住処として、ランブイエの森のそばに家を構えている。晩年の痛ましい年月の一番の喜びは、この森を一人歩くことだった。

フォンテンブローの森:Christophe Bitton (CC BY-NC-ND 2.0)

 ヴァルヴィンにいたとき、セーヌ川が氾濫し、ゴデブスキーの別荘のドアのところまで水が迫ってきた。作曲に熱中していたラヴェルは、それに気づかなかった。ラヴェルの身を心配し、様子を見にきた友人は、静かにピアノの前で仕事をしているラヴェルを発見した。リビングルームの床は、洪水による水圧でたわんでいた。

 『ダフニスとクロエ』のように、丁寧に準備され、磨かれたバレエ音楽はそうはなかった。最後の曲「バッカス祭」を書き終えるまでに1年を要した。そしてそれが終わり、上演の準備が整ったあとでさえ、まだこの作曲家は「作業中」だった。ラヴェルはさらに作品を良くできると思っていた。そして完成した作品を再び手元に引き寄せ、更に磨きをかけた。

 音楽の完成度の高さにも関わらず、バレエ作品としての『ダフニスとクロエ』は、すべて成功とはいかなかった。筋立てや展開が、聴衆の興味をひくには充分でなかったのかもしれない。それに加えて、ラヴェルがスコアの準備に時間をかけたので、初演までに充分な制作の時間が取れなかった可能性がある。ディアギレフ、フォーキン、バクストはそれぞれ違う考えをもっていたため、不一致が起きた。主役のニジンスキーもまた、ダフニスの役はこう演じられるべきという自分の考えがあった。合唱部分には大きな問題があり、またバレエの群舞はフィナーレの四分の五のリズムに苦戦していた。

 『ダフニスとクロエ』は1912年6月8日、ピエール・モントゥー指揮によりシャトレ座で初演された。ニジンスキーとタマーラ・カルサヴィナが主役を踊り、アドルフ・ボルムとマルガリータ・フロマンがそれぞれドルコンとリュセイオンの役を演じた。バクストによる舞台装置は聴衆を驚かせ、色の氾濫は大きな効果を見せたが、古代ギリシアの精神とは無縁だった。

ニジンスキー(1907年)とカルサヴィナ(1911年)

 『ダフニスとクロエ』の最初と最後の場面は、パン神とニンフたちの神殿がある神聖な森のはずれに設定された。ギリシアの乙女たち、若い羊飼いたちが果物や花の供え物をもって登場し、祭壇に置く。ラヴェルの「序奏と宗教的な踊り」は、田園ののどかさと静けさを生み出す。パン神を祝う神聖な踊りが演じられる一方、舞台裏からのコーラスは抑制された声でそれを伴奏する。この合唱がディアギレフとラヴェルの間で論争の的になった。ディアギレフは合唱を必要ないといい、普通の歌い手による合唱は合わない、制作に無駄な費用がかかると主張した。のちにイギリスで行なわれたいくつかの上演では、ラヴェルの非難にもかかわらず合唱は省かれた。

 「宗教的な踊り」につづいて、クロエが羊飼いのダフニスとともに現れ、若者たちの集団に取り囲まれる。牛飼いのドルコンはクロエを抱擁しようとするが、ダフニスに追い払われる。この二人による踊りの抗争は、クロエの口づけを賭けて行なわれる。ドルコンの踊りは粗野で力強く、グロテスクな熱気に溢れており(アドルフ・ボルムはこの役を見事にこなした)、クロエの選んだ恋人、ダフニスの優雅で夢見るようなものとは完璧な対比を見せる。

 クロエはダフニスに口づけによる報酬を与え、乙女たちから離れ、一方恋人のダフニスは木の下に横になる。背後にいたリュセイオンが身にまとっていたヴェールを落として官能的に踊り、ダフニスを誘惑する。突然、遠くの方から戦闘を予感させる騒ぎが聞こえてくる。海賊の集団が女の羊飼いたちを追って現れる。

 ダフニスはその中にクロエがいると思い、守ろうとして追いかける。しかしダフニスが姿を消すと、クロエが別の方角から走ってきて、祭壇の前で崩れ落ち、神に助けを乞う。海賊たちがクロエを見つけ、連れ去る。ダフニスが戻り、クロエのサンダルを発見する。そして心を揺さぶられ、気を失って倒れる。
 
 ダフニスが気を失って倒れていると、3人のニンフが岩陰からふわりと現れ、地上に舞い降り、ゆっくりとした不思議なリズムでダフニスのまわりを踊る(不気味な雰囲気を出すため、ラヴェルはリヒャルト・シュトラウスのエオリフォン/ウィンドマシンを使って強調した)。

 ニンフたちはダフニスを助けようと神を呼び出す。夢の中にいるダフニスはパン神の力強い姿を目にし、その姿にひれ伏す。夜が来て、遠くの合唱が哀願するように繰り返される。

 徐々に音楽は精力的で好戦的な「戦士の踊り」へと変わる。照明が舞台に当たると、海賊の野営地が海のそばの絵のように見事な岩の真ん中に現れる。戦利品を抱えた海賊が出てきて、荒々しい勝利の歌をうたい踊る。
 
 海賊の首領ブリュアクシスがクロエを呼び、踊るよう命令する。クロエは手を縛られ、ブリュアクシスに逃してほしいと懇願する。そしてそれが叶わないと知り、逃げようとする。海賊の首領はこれに激怒する。乱暴にクロエを捉え、連れ戻す。そのときバス・バイオリンの重い響きがはじまり、それがオーケストラの不気味なクレッシェンドとなって膨らんでいき、聴衆を恐怖に陥れる。山陰から巨大な影が現れる。パン神がクロエを助けにやって来る。舞台が巨大な影に覆われると、海賊は恐怖にかられて逃げていき、クロエは一人残され、光輪を頭に抱く。

 第3場と最後のシーンでは、再びニンフの聖なる森のはずれの場面が現れる。ダフニスは眠っている。弦の抑えたささやきとフルートが、夜からゆっくりと夜明けへの移り変わりを、超自然的な効果によって表現する。
 鳥たちがかすかなさえずりで朝の到来を告げ、ついにはさんさんと太陽が昇り、この世のものと思えない壮麗さで舞台を満たす。この夜明けの情景と大いなる自然の声を、ラヴェルは絶妙な描写で綴った。

 ダフニスが目を覚まし、クロエが男女の羊飼いたちに囲まれて現れる。そして神への感謝と喜びが、オーケストラと合唱の混合によって盛り上がっていく。恍惚の中ダフニスはクロエを抱きしめ、夢は本当だったと気づき、パン神が自分の愛を奇跡的に救ったとわかる。ダフニスとクロエの再会を描く感動的なテーマは、ラヴェルの控えめな表現の中では、愛を歌う表現として最大のものである。
 
 老羊飼いが、パン神はニンフのシュリンクスを愛したことがあるので、クロエを助けたと説明する。以下はラヴェルの楽譜に書かれた解説:

 ダフニスとクロエはパンとシュリンクスの物語をなぞる。クロエは牧草地をさまよう若いニンフを演じる。パンのダフニスはニンフへの愛を告げる。ニンフはその愛を拒む。パンはさらに迫る。ニンフはアシの中に消える。パンは心乱してアシの茎を引き抜き、それでフルートをつくる。そして哀しげなメロディを奏でる。クロエが現れ、フルートの調べをなぞるように踊る。
 踊りはどんどん活発になる。狂ったように舞う中、クロエはダフニスの腕の中に倒れる。ニンフの祭壇の前で、ダフニスは2匹の羊を捧げて忠誠を誓う。乙女たちが登場する。バッカスの巫女の服を着て、タンバリンを打ち鳴らす。ダフニスとクロエは優しく抱き合う。若者たちが舞台に現れる。
 人々の歓喜の声。全員の踊り。ダフニスとクロエ。

 『ダフニスとクロエ』はフランスが生んだ最高のバレエ作品であり、ラヴェルの最高傑作であると称賛される。ラヴェルはこの作品を「3部で構成される踊りによるシンフォニー…..音楽による巨大なフレスコ画で、懐古趣味というのではなく、わたしの夢のギリシアの表現…..」
 批評家のジャン・マルノルドはこう言う。

 非常に精巧に作られた絵の中に置かれた豊かなスコア。この中に、夢のようにぼんやりと優雅なニンフが現れるという、前例のない表現、あるいはあらゆる音楽を探してもない様式……. 絵のように美しい響きの魔力が、このような強烈さに行き着くことはなかった。
 『ダフニスとクロエ』は、首尾一貫性をもつ広大なシンフォニーの結合による「音楽ドラマ」となっている。音楽のすべてが、一つところに集結され、自らの自治の中で生きている。ライトモチーフの導入部の序奏が、目の見えない人にとっても、舞台の動きを追うことを可能にする。

 『ダフニスとクロエ』の詩的な美しさは、これまでのラヴェルの音楽(自制の中で実行される推進力)にはなかった深さと力強さによって豊かに強化されている。こういった質の高さが、新たな、より重要性の高い地位にラヴェルを持ち上げた。この作品のバレエ版はさほどの成功を見なかったが、『ダフニスとクロエ』は交響曲としては世界的な名声を得た。最も素晴らしい楽曲を含めた二つのオーケストラ版は、バレエのスコアから引き出され、世界中の聴衆に聞かれている。

  バレエの初演のとき、ラヴェルはいつものように遅れて到着した。シャトレ座の通路に現れたとき、ちょうど幕が上がったところだった。夜会用の華麗な服に身を包み(ミッドナイトブルーのスーツでは?)、大きな包みを脇に抱えていた。
 「お急ぎください、もう始まっていますよ!」
 「わかった、すぐに行く」とラヴェルは答えて、ゴデブスキー一族の特別席まで急いだ。そこでラヴェルは包みを開き、シパ(サロン主宰者のフランス人)の姉のミシア(ピアニスト、パトロン)に正装した大きな中国人形を差し出した。

動画:Maurice Ravel: «Daphnis et Chloé». 2ème Suite


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