[エストニアの小説] 第6話 #7 雄牛の値段(全17回・火金更新)
「でもわたしには靴さえないのよ」 カティが笑みを浮かべて言った。「どうして結婚式の話などできる?」
「そうだな、きみの足は裸足だ」 ニペルナーティは思案する。「夜はもう冷え込んできている。すぐに雪も降るだろう。なのにきみは靴なしだ! カティ、街に行くしかないな。そうすればきみに靴とスカートとスカーフとコートを、素敵な毛皮のコートを買ってこれる。もう一ついい考えがある。二つ指輪を買うんだ、一つはきみのもの、一つはわたしのだ。指輪は純金製だ、ずっしりとした重みのあるやつだ。手を動かせば、しっかりとしたものを指に付けているのを感じるはずだ。あー、きみに素敵なものをたくさん買ってあげたいな、わたしがケチでお金を使いたがらないなんて思っちゃいけないよ」
ニペルナーティは夢中になって、身振り手振りをまじえて、さらにこう言った。「いいかい、カティ、家がこんな風だったら素晴らしいだろうね。秋の太陽に照らされて、森も畑も黄色に染まって。ちょっと待て、聞こえるかい? 野生のガンが南に向かって飛んでいってる。声が聞こえるかな? ガーッ、ガーッ、ガーッって。今年は冬が早い。ガンが南に向かったら、霜はもうすぐそこだ。収穫を急がねば。たぶん、ガンはまだ出ていこうとはしてない、湖の上でただ呼び合って、家族で集まってるだけかな。でもいずれにせよ、穀物を倉庫に運ばなければ。そして建物が雪に埋まったら、巣の中のクマみたいに暮らすんだ。きみは糸車で糸を紡いで、わたしはここに住んでいたときのことを思い出す。いろいろ考えたり、検討することがあるな。あー、あの嫌な叔父さんをなんとかできたらの話だけど」
ニペルナーティはイラついて立ち上がり、歩いていき、また戻ってくる。「なんできみは黙ってる?」 非難するようにカティに言った。「黙ってすわってるだけか?」
「秋の日差しは弱くて寒い。服もあまり着てないし。スカーフも家に置いてきた」とカティ。
「そうなのかい、スカーフもない?」 ニペルナーティが声を高めた。「可哀そうに、家に入ろうってなんで早く言わない。わたしがおしゃべりしていて、きみは寒さの中で話を聞いていたんだね。カティ、よくないことだ、2、3日のうちに街まで行かなくちゃ。でもその前に、家の中を探してみるよ。何か適当な服があるだろう、羊毛のスカートとか古い靴とか見つけられるかもしれない。でも今は走って帰ろう、夕飯の時間をずいぶん過ぎてしまった」
ニペルナーティはカティの手をつかむと、木の根っこや岩を越えさせ、溝や流れがあれば腕で抱えて飛び越え、カティの首にホップのつるを巻きつけた。
「どうだ、ポカポカするだろう。もう寒くはないね」 ニペルナーティが嬉しそうに声をあげた。
二人は家につき、どちらもポカポカと温かく顔を赤く染めていた。ニペルナーティは納屋や部屋を往復し、食糧庫や貯蔵室の中を探しまわって食べものを見つけてきた。
そしてカティが食べている間も、ニペルナーティは家の中をあちこち見てまわり、腕いっぱいにものを抱えて姿を現した。
「ほら見てごらん」 自慢げにそう言った。「スカートにブラウス、靴とスカーフ、コートに靴下。ぴったり合うか自分で試してごらん。ほらほら、好きなものを選んで。わたしがものを差し出すとき、何も考えずに受けとればいい」
「だめ、だめ」 カティが申し出をことわった。「あたしは何も欲しくなんかない。あんたは召使いのものをみんな運んできて、あたしにくれようとする。元に戻して、あった場所に戻して。聞いてるの、トーマス」
ニペルナーティはスカートやブラウスを手に、困り果て、がっかりして立っていた。
「なんで何も欲しくないんだ?」 悲しげな表情で尋ねた。「ハンゾーヤの主人が心から、親切にこう言っているのに、きみは受けとってくれない。きみはわたしと街にいくこともしたくないし、牧師のところにも行きたくないんだ」
「もう、あんたはバカよ」 カティが腹をたてて言った。「人の持ちものを自分のものだなんて、言えない。この服はあんたのものじゃないから!」
「だけどわたしはここの主人だ!」 ニペルナーティが言い張った。最後には集めてきたスカートを元に戻した。そして失望してカティの隣りにすわった。
「あんたはすごく変」 カティがニペルナーティの手をさすりながら言った。「あんたはあたしの世話をいつもしてくれてる。少し自分のことに目を向けたら? よく見て、あんたの上着にはボタンが一つもないし、ポケットはどれもズタズタ。靴底も割れていて、あたしの前を歩いてるとき、あんたの裸足の足ばかり見てた。もう家に着いたんだから、服を着替えて、靴を取り替えたら?」
ニペルナーティはにっこりするとちょっと考えてからこう言った。「そうだな、カティ、きみは正しいかもしれない。でもまずはサウナに入りたい! 明日、みんなが戻ってきたら、サウナを用意する、その後にはわたしは違う人みたいになってるよ」
農夫のモールマーも家に戻ってきて、部屋から部屋を歩きまわり、ガミガミと何か言い、昼ごはんを食べ、昼寝をし、また仕事に戻っていった。カティも昼寝をしにいった。ニペルナーティは畑を長いこと歩いて過ごし、葉っぱが舞うのをじっと見、鳥の声に耳を澄ませ、モールマーの仕事を少しの間手伝い、夕方になって農場に戻ってきた。カティは家畜の世話をし、牛や豚に餌をやった。少ししたらミルクを搾る音が聞こえてくるはずだ。モールマーは家に戻ると、仕事が終わっていて大変喜んだ。
「いい子を連れてきたな」 モールマーはニペルナーティに言った。モールマーは自分の言った誉め言葉にちょっと驚いて、まわりを見まわし、家の中に入っていった。誰かを誉めるなどということはしない男だった。このときの自分の言葉を恥じるほどだった。
「あの風来坊が!」 自信を取り戻そうとそう言った。「あいつらが何であちこち旅してるか、知るもんか。親戚を訪ねてる? この忙しいときに、もてなす時間があるやつがいるか? 真面目に働く者を邪魔するだけだ。おそらくからかいだろう。家に主人がいないときを見計らって、馬や牛を盗んだりするんじゃないのか。きょうびは人を信じることは難しい。天使みたいな顔で歩きまわり、迷惑をもちこむ」
ハンゾーヤの農夫はぶつぶつとひとり言をいい、カティのいる牛小屋に鍵を置いたまま、眠りについた。
夕方になってニペルナーティは、カティを寝かせるため、藁納屋に連れていった。そこは母家から少し離れたところに立っていた。
「ここでゆっくり眠れるよ」 ニペルナーティがカティに告げた。「夜になったら、ここの人が市から帰ってきて、ひと騒ぎあるだろう。うちの親戚のことはよく知ってるからね。騒ぎが起きたら、もう眠れなくなる。ここにきみの枕と毛布とシーツがある。わたしは牛小屋の屋根裏に寝に行く。おやすみ、カティ」
カティはニペルナーティの背中を悲しい気持ちで見つめた。
カティは暗闇をじっと見ていたが、涙が溢れてきた。
「夫になる人なのに!」 カティはメソメソ泣いた。「夫になる人は結婚式の話をするもんなのに、あたしのことを疫病みたいに恐れてる。あの人は逃げてる、隣りに寝ることすらしない。キスをすることもない、よそ者みたいに出ていった。あの人はあたしを騙してる、確かなこと、あたしを愛してなどいない。きっと、あたしを連れてきたことを後悔してるんだ」
翌日の朝、トーマス・ニペルナーティは騒がしい音で目を覚ました。大集団が押し寄せてきたみたいに、庭の方から罵る声、何かを言い張る声、叫び声が聞こえてきた。
ニペルナーティはひとっ飛びで下に降り立った。そしてまわりを見まわした。農場の家族が市から帰ってきた。庭に立って、大声で話していた。声のかぎりに吠え立てるように、父親が息子に、息子が父親に何か言っていた。息子の妻のリースが、二人の話に口を挟み、交互に二人を引っ張りながら大声をあげ、ありんこのようにそのまわりを走りまわっていた。が、二人ともリースを無視していた。カートはすっかり壊れていて、ロッドは後車輪のところにあった。荷馬車の横板と梯子はこなごなに砕け、疲れ切った馬がそのそばに突っ立っていた。
雄牛は壊れたカートの後ろで息を荒くし、今にもカートに突進しそうだった。
「モールマー、モールマー。あの子ウサギはどこいった?」 主人が声をあげた。
農夫は声のする方に急いで向かい、飲んだくれの主人の前で立ち止まった。
「雄牛を連れ帰ったんか?」 そう訊いた。「買い手が見つからなかったのか、それとも値段が合わなかった?」
「ったく。ひどい話だ!」 農場主はムチを振りふり大声をあげ、雄牛の方をにらみつけた。「このドデカイやつとあれやこれやのせいだ! 買い手もいなけりゃ、いい値もつかなかった。ハルマステの町に着く前に、道で肉屋に会った。そいつはすぐに近づいてきた。肉屋は雄牛を見て、ムチの先で脇腹をつつき、こう言った。『こいつにいくら欲しい』 で、俺はこう答えた。『それほどじゃないが、350クローンの価値はある』 するとこの肉屋がこう言った。『300だな、それで我慢しろ』 俺はこう返した。『350だ』 するとそいつはまたこう言った。『そうだな、325でどうだ』 それに対して俺は『いや350だ、これが俺の値だ、譲れない』 すると肉屋はまたムチの先でつついて、雄牛の尻尾を上げて腰肉をさわった。そしてこのゴロツキはこう言った。『あーだこーだ言うやつだ。ならお前の望む350クローンをもってけ!』
しかし肉屋がそう言って、金を勘定しはじめると、こう考えた。今年の市では牛はもっと高いはずだ。いや、こんな値で雄牛を手放すのはやめだ。で、肉屋が金を差し出すと、こう言った。『400だ、それ以下では売れない』 すると肉屋は馬の尻尾にとまってたハエみたいに飛び上がった。『だけど、あんたが350って言っただろうが!』 で俺はこう答えた。『400払うんだ、それ以下はだめだ』 すると肉屋は本気で怒って、俺を、牛を、俺の家族をののしりはじめた。そしてこう言った。『いいか、こいつめが、お前の牛は市で5セントでも売れやしない』 俺はこう返した。『口をつぐめ、俺の言い値で牛は売る』 そしてハルマステに着くと、砂粒みたいにたくさんの家畜がいるのを見た。乳牛に雄牛、若い雌牛に子牛とな。ものすごい数で、自分も俺の雄牛もすぐにそこに紛れ込んだ。やかましい群衆の真ん中で、突っ立って、ウォッカを飲んで待っていた。だがいい買い手はやってこない。一人来て見ていき、また一人、雄牛をつついて行ってしまう者、尻尾をつかむ者、でも誰も買おうとしない。道で会ったさっきの肉屋もこっちにやって来た。笑って俺をあざけり、こう言った。『いいかな、ハンゾーヤの主人よ、お前の雄牛を売ったらどうだ』 それで俺はこう言った。『取引だ。350でどうだ、雄牛はあんたのものだ』 しかし肉屋はこう答えた。『200じゃないとな』 そう言って、去っていった。そうだったよな、ヤーン」
'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?