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[エストニアの小説] 第6話 #5 留守宅(全17回・火金更新)

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 息子のヤーンが妻と部屋にずっといるので、ハンゾーヤの主人は一人で祭りや市に行くはめになった。一人で飲むウォッカはまったく違うものだし、歌についても問題外だった。一人でうろついたり、大声をあげたりするのは面白くもなかった。それは家に財布を忘れてきたみたいに、気分の悪い、きまりの悪いものだった。以前はこんな風だった。道で、あるいは店や市で可愛い女の子を見つけたら、すぐに息子を送り込んで、その娘の名前やどこから来たのか、結婚する気持ちはあるのかを訊かせた。息子は女の子のところに行って、話をし、戻ってきて父親にそれを伝えた。こういった件に関して、息子のヤーンはいつも、父親の代弁者だった。頼み事をする場合ですら、息子は一人でそれをしに出掛けた。そして戻ってくると、女の子はいい子だ、ちょっとした財産もある、結婚も受け入れるそうだ、ただし本人が自分でやって来て直接話をしてほしいと言っていると。「なんと、なんと、高慢な娘だ!」 ハンゾーヤの主人は憤慨した。「あの子は俺に来いと言ってるんだな? だが、何と言えばいい。どんな話をすればいいんだ? バカ娘に息の無駄づかいはできん。その手のおしゃべりは知ってる。そいつらのおしゃべりで目も耳も溢れさせるまでは、こっちは口を開くことすらできないんだ。あの子がそこまで高慢で横柄なのなら、おまえの説明だけでは結婚できないと言うなら、俺は自分で行って、時間を無駄にするようなことはせん!」

 ところが息子の方も、すぐに部屋にこもっているのに飽きてきた。一人の女と薄暗い部屋で、どれくらいの間、話していられるものだろうか? 息子のヤーンは耳を澄ませて外に注意を向けるようになった。父親の荷馬車が朝出ていく音、夜になってゴロゴロと戻ってくる音。そして父親と農夫のモールマーが居間でウォッカを飲みしゃべっていても、奥の部屋に向かって、「こっちに来い、息子よ、来て一緒に飲もうや」とは誘ってこなかった。こんな生活は、ヤーンにとって退屈きわまりなかった。さらに2、3日我慢したのち、ヤーンは自ら馬に馬具をつけ、荷馬車に子牛を積み込むとこう叫んだ。「父さん、ハルマステの市に行こうや!」 というわけで父と息子の二人はまた、一緒に市に行くようになった。ときどき妻も連れていったので、農場には農夫と羊飼いしかいなくなった。メイドのマリがいたけれど、その女も出ていった(おそらく町へ)、皿洗いの仕事を得たのだ。農場の家族がみんな出掛けてしまうと、マディス・モールマーはすべての仕事を一人でやるはめになった。家畜の餌やり、ミルクを搾り、貯蔵庫に運び、草を刈り、畑を耕す。マディス・モールマーはコマのようにあっちへこっちへと走りまわり、朝から晩まで小鬼のように仕事をこなすことになる。

 「あの60野郎が!」 マディス・モールマーが主人に悪態をつく。「なんでまた、あいつらが揃って市に行くようになったのかわからん。雄牛を市に連れていく、まるで急いで売っぱらう必要があるみたいにだ。雄牛が家畜小屋に今もいたら、売られずにな、まだそこにいるはずだ。だがあの年寄りは雄牛が嫌いなんだ。怒りっぽくて凶暴だからな、いつもあちこち壊してまわる。怒り狂う雄牛をまる1週間しつけようとした、客車に結びつけて敷地を歩かせようとした。怒った雄牛はいくつもの台車を壊して、頭をもたげると、馬に突進した。しつけや調教は何の役にもたたなかった。あいつらが生きて戻ってくるか、神のみぞ知るだ。リースが御者席にすわって馬を操り、息子と親父はムチを手にその後を歩いていった。雄牛の片側に親父が、反対側に息子がついて、やつらは出ていった。雄牛はペンチに挟まれたみたいだった。向こうでうまくやって雄牛を売っぱらうことができたら、明日になるまであいつらは戻ってこない。そして酒と歌で浮かれるだろう。あいつらはメイドと日雇いを雇いたい、と言っていた、農作業はいっぱいあるからな」

 「オレが鎌をもってオート麦の畑を見にいったらどうだ?」 マディス・モールマーは考える。それを実行しようとしたとき、敷地の中に二人の人間が立っているのに気づいた。マディスはじっと見る。一人は男、もう一人は女の子だ。こいつらはここで何をしようってんだ? 何度も二人を見て、ポケットからパイプを取り出し、そこで立って待っていた。だが面倒なことにならないよう、こいつらが何者か確かめたほうがよさそうだ。

 トーマス・ニペルナーティはハンゾーヤの敷地にカティとともに着いて、疲れきったとでもいうように座りこみ、額の汗を拭い、こう言った。「ああ、よかった、やっと家に着いたよ! 自分の目で見るんだ、カティ、ここでわたしは生まれ育った、ここに住んでいた。このまわりの畑や森は、何年もの間、心の友だった。見てごらん、畑と畑の間にある100歳になるライムの木を。ずっと昔にはハチの巣がいっぱいぶら下がっていたし、コウノトリが木のてっぺんに巣をつくっていたんだ」
 「だけどあんまり嬉しそうじゃないよね、トーマスは」とカティが答える。「悲しそうで疲れた目をしてるし、声もつらそうだけど。家に飛び込まないし、家の人に声をかけもしない。石の上に、よそ者みたいに座ってる」 ニペルナーティはなんとか笑おうとして、カティの手をとった。「感動してるんだよ、カティ。厳粛な気持ちになってるんだ。何年もの間、家を空けて戻ってきたら、どんな気持ちになるか、わかるだろう。人を哀しくも厳粛な気持ちにもさせるもんなんだ。ここにきて、わたしの隣りにちょっと座ったらどうだい? きみの言うことは正しいよ。家に入って、部屋の中が清潔で心地いいか見たほうがいいね。カティを牛小屋みたいなところに連れていくことはできないだろう? ここに座って少し待っていて、わたしが戻ってくるまで。荷物を置いて、何も心配はいらない、すぐに戻ってくるから」

 ニペルナーティは立ち上がり、家の中に入っていった。こんにちは、と言うと、窓のそばに座っている農夫を見て、こう尋ねた。「ご主人は留守でしょうか? あるいは奥さんは? この家にちょっとした用事がありまして」

 「家にはだれもおらん」 農夫が無愛想に言った。「みんな雄牛をつれて市に行ってる、明日まで帰らんだろうな」
 ニペルナーティは心の中で喝采を上げ、素早い動作でポケットの中をまさぐった。しかし見つかったのは古いパイプのみ。
 「このパイプ使ってみて」 親しげにそう言うと、農夫の隣りに腰をおろした。「これはどこにでもあるパイプじゃない、見た目そうは思わないだろうけどね。これは本物のシタンの木で作られてる、実際のところ、パイプになるまでの間、100回もオイルや貴重な液に浸されていた。一服やってみてくれ。わたしの言ってることがわかるはずだ」
 モールマーがなるほどと思いパイプをほめると、ニペルナーティはこう説明した。「わたしはここの主人の遠縁にあたる者だ。奥さんの方のね」
 「奥さんはずっと前に死んでる」 天井にむかって煙を吐きながら、農夫がぶっきらぼうに言った。
 ニペルナーティは驚いて飛び上がり、目を見開いて農夫の方に向き、こう叫んだ。「いま、、なんて言った? あの優しくて人のいい奥さんが死んだって?」
 「いまから20年も前のことだ」 マディス・モールマーが何の感慨もなく言い放った。
 ニペルナーティは椅子に座りなおし、気を鎮めると残念そうにこう言った。「20年も前なのか。わたしは全く知らなかった。大事な親戚を訪ねないでいると、こういうことになる。遠く離れて暮らし、最後にここに来たのは、まだわたしが小さな頃だった。で、気の毒な主人は、奥さんが死んでどう暮らしてるのかい?」
 「60歳のジジいだ」 と、マディス・モールマー。「新しい嫁と結婚式のことしか考えてない」
 この農夫はとうとう自分の言うことに耳を傾ける人間を見つけて、主人のこと、そのずぼらな生活のこと、息子のヤーンとその妻のこと、農場や家畜のこと、畑や穀物のこと、近隣の人たち、親戚のことを話しつづけた。もう言うことがなくなるまで話した。ついに自分の不満や言い分を聞いてくれ、それに賛成してくれる人間を、友を見つけたのだ。こいつは上等な人間だ!

 二人は互いのパイプを何度も交換してタバコを楽しんだ。長いことおしゃべりをしていたが、カティはといえば待ち続けていた。

 「あんた、女を連れてるじゃないか、こっちに呼んだらどうだ?」 農夫が窓の外を見て、そう言った。
 「ああ、女を連れてる」 ニペルナーティはつまらなそうに答えた。「わたしの女じゃない、あの子は孤児なんだ。途中で見つけて、連れてるだけだ。ここであの子は仕事を見つけられるんじゃないかな。いまはどこの農場も収穫期だ。ちゃんとした農場主なら、勤勉な手伝いを雇うだろうね」
 「ああ、そうだな」と農夫。「明日になって主人が戻ったら、そいつに言えばいい。だがわたしは今から仕事に出る」

 ニペルナーティはカティのところに飛んで戻る。
 「ああ、かわいそうに。ずいぶん長いこと待たせたね。それに、どうした、どうした? 泣いてるのかい、目が真っ赤だし涙を流してる。ああ、可愛い子だ。きみは何日も知らないところを連れまわされて、農場に着いたら木材みたいに庭に置き去りにされた、と思ってるんじゃないか。なんてわたしは冷酷なやつなんだ、冷酷なケモノなんだ。こんなにももろくて小さなきみを、風に吹かれるままに捨て置いた」
 「泣いてなんかないから」 カティはにっこり笑おうとした。「風が目にしみただけ」
 「いやいや違うだろ」 ニペルナーティが口を挟んだ。「きみのことはわかってる。小さなカティのことをね。きみは春のカバノキみたいだ、ちょっと引っ掻けば樹液が流れでる。ここに長いこと放っておいて悪かった。だけど家の中でいろいろやることがあったんだ。農夫にあれやこれや訊かなくちゃいけなくてね。ここの主人として、いなかった間、何があったか、知らなくちゃいけないことがたくさんある。いいことは何もなかったようだ。召使が何人かここを出ていった、予想していた通りだ。ここのものは皆、ハルマステの市に行ってる。それをわたしが歓迎できるだろうか? 一番忙しいときに、皆、市に出ていってしまった、いったいどういうことだ。ああ、可愛いカティ、きみに話すことがたくさんある。1日で話しきれるかな。だけど今は中に入って、わたしがテーブルの用意をしよう、何か食べるものをね。わたしの家にある一番おいしいものを食べなくちゃね。かわいそうな子だ、また泣き出したね」
 「だけどあんたは長いこといなかったから」 そう言い訳をしようとした。「もう戻ってこないんじゃないかって」
 「戻ってこないって?」 ニペルナーティは驚いて訊く。「わたしがどこにいたと? 自分の家から逃げ出したとでも?」
 「ほんとうにここはあんたの家なの?」 カティはそう尋ね、ニペルナーティをじっと見た。
 「バカだなぁ、ほんとに」 ニペルナーティは強い調子で言った。「きみはまだ、わたしのことを信じようとしない。わたしを疑ってる。そうきみが思うようなことをしてないのにね。ああ、カティ、わたしは嫌な気分だ、しばらくこんな気分で過ごすことになる。そんなこと、きみも嫌だろう?」
 「ちがうって、そうじゃない」 カティは機嫌を直して言った。「だけどあんたの農場を見せてくれる?」
 「すべてを見せるよ。畑に連れていって、森にも案内する。わたしの家畜を見て、敷地の中の建物も見るんだ。すべてを見せる、案内するよ。だけど今は家に入って、ちょっと何か食べて、少し休むんだ」

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'Two Bluebirds of Happiness' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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