切り取る


切り取るという言葉、行為には余計な情報を省くという意味を感じる一方で切り取られる側の無限の広がりも感じられる言葉だと思う。

冬の始まりを感じさせられる11月のとある日、遠征のため、そして己の心配症故に重たくなってしまったスーツケースを持った私は東京に降り立った。

テレビで聞いたことのある地名、どこを見ても高い建物、かき分けなければ進めないほど大勢の人々。
「都会に行った時上を見るのはやめなさい、田舎者だと思われるでしょ。」と幼い頃に母に言われた言葉を思い出す。
その言葉の通り、東京の街並みに圧倒された田舎者の私は馬鹿みたいに口を広げながら天を仰いでいた。
そんな都心部から少し離れて数十分、ようやく宿泊する施設に到着した。

ああ、やっとこの荷物を下ろすことができる。
という解放感に胸を躍らせながら部屋の鍵を開ける。
その時、私はあるものに目を奪われた。

何の変哲もない、縦横1メートルの正方形型の窓。しかしひとつ、そこには質素な部屋には似つかわしくない存在感を放つ、黄色の窓枠があったのだ。

窓の外にはちょうど黄葉の時期を迎えた銀杏の木が見え、まるで写真のフレームのように、あるいは絵画の額縁のように、その窓枠は幻想的な景色を切り取っているように見えた。

ふと思う。
美術館で飾られている絵画、友達がSNSにあげる写真、テレビに映る映像作品。
これらすべて、枠の外に広がる世界が存在しているということ。

これは何も絵画や写真にとどまったことではない。
本だってそうだ。
小説には読者という客観が捉えられない登場人物の行動、思考があり、啓発本やノンフィクションにも直接書かれていない著者自身の経験がある。ここでのフレームは、私自身の固定観念だ。

切り取られているだけで広がる世界が、そこには存在している。

当たり前のことのはずだけど、私たちはきっとこの事を理解できていないのだろう。
だから見えない努力をしている人を「天才」という言葉だけで片付けるし、枠の中に収まった自分の考えを枠の外へと向ける想像という形にもっていこうとしない。

想像力はこの「枠の外」へ目を向け、耳を傾ける行動を言うのだろう。

井の中の蛙、大海を知らず。
想像力を持たないままではずっと私は井戸の中にい続ける定めだ。

歩みを進め、縦横1メートル程の黄色の窓枠の、その先の世界を見る。私の知らない世界。井戸の外。

多くの人に会い、本を読み、新たな考えに刺激を受けた時、こう思う。

まだまだ、想像力が足りないよ。


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