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大人にも「こわい」や「いたい」が必要だ。

どうもこんばんは。
今週末といえば、木金の疲れが抜けきらなかったのか、土曜は一日中無気力に、主に眠ったりTwitterをしたりしながら過ごしていて、今日(日曜)は溜め込んでいた作業をなんとか切り崩すことに成功したので久しぶりにnoteを書いています。さっきSlackに何やら通知が来ていましたが、スッ…と何事もなかったかのようにアプリケーションを終了させました笑 明日対応するので、今日はすみません、閉店です…(ガラガラ〜…)

さてさて、9月から地味に読み進めていたふみーの『魔女の家-エレンの日記-』を10日ほど前かな?に読み終わりました。魔女の家…これはライトノベルと言っていいのだろうか。文体はライトだが、内容はそこそこ重い。いや、それでも厨二病の域であることは間違いないのだが、そこに踏みとどまらないえも言われぬ禍々しさと、ある種の「聖なるもの」ささえ感じさせる。
内容についてはフリーゲームの方で先に知っていたので、バッドエンドの予兆をひしひしと感じつつ、結末に向かう不吉さと血の匂いに怯えながら少しずつ、少しずつ、読み進めていきました。

聖なるもの

「聖なるもの」というのは聞きなれない言葉かもしれませんが、これはドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーによる概念で、キリスト教でいう「聖人」のような神聖さではなく、もっとプリミティブで混沌とした恐れを誘うもの、それゆえにまた魅惑的なものを指します。(解説は西谷修を参照)

聖なるものの前には功利主義や合理主義につながるような善悪の倫理的判断はないのです。とても感覚的な経験であり、エロスとタナトスに向かって開かれていくような、生への渇望と狂気にも似、あまつさえ祝福さえ感じられる感覚です。少なくとも私はそう思います。そのような内的体験は定義されるまでもなく、あらゆる宗教の原体験、むしろ中核にある経験として考えられてきたのです。

魔女の家

魔女の家のあらすじを簡単にご紹介しましょう。


森の中のお屋敷にたった一人で住んでいる魔女は、かつて人間でした。

彼女は生まれつき病気で、日中はベッドに座っているのがやっとです。
彼女には両親がいましたが、母親は彼女の看病に疲れ切り、父親は彼女を見ないふりを続けてきました。

ある日、母親は別の男性と連れ添い家を出ようとしますが、見捨てられることに怒った少女は母親をナイフで突き刺します。
家に居られなくなった少女は痛む足を引き摺り、路地裏をさまよいます。

そこで少女は一匹の黒猫と出会います。
黒猫は少女に魔法を授ける「悪魔」でした。
黒猫によって、少女は「魔女の家」に連れてこられました。
ここでは病気が嘘のように消えている。彼女は魔女になったのです。
少女は喜びます。

しかし、現実はそう甘くはありません。彼女の身体は魔法によって病気の進行を遅らせ、表面的な健康を装っているだけで、実際の彼女の肉体は魔法を使っていない時とさほど変わりません。
彼女は悪魔のために、たくさんの人を「魔女の家」に誘い込んで殺しました。いつか悪魔が、魔法で彼女の身体を治してくれると信じて。

そしてついにその日がやってきたのです。
親から愛され、人を愛することになんの疑いも持たない少女「ヴィオラ」が森に迷い込むその時が。

大まかなストーリーはこんな感じです。
(以下、魔女の家フリーゲーム、ならびに小説版のネタバレを含みます)

そもそもなぜこの作品を私が知ったかというと、先述の通りフリーゲーム(の、ゲーム実況)からなのですが、このゲーム、クリアの仕方によってエンドが違いまして。私が見たのはノーセーブクリアによるトゥルーエンドだったのだけれど、そのトゥルーエンドが本当に救いようがなくて、ですね……。真実が少しでもわかれば、同情の余地もあったのに…と考えがちなところの真逆を行く、どう足掻いてもハッピーエンドになりえなかったんだ、という奈落の底を見つめるような感覚が妙に気になってしまい、だったらとことん見つめてやろう!と探究心と好奇心に火がついたところでメルカリで『魔女の家』小説版をポチった、という経緯がありました。(メルカリで、っていうところがミソですね笑)

私は結構こういう時にすぐ考察とかYahoo!知恵袋とか漁っちゃうのですが、レビューの中で一番刺さったのはYahoo!知恵袋<takayuki ameさん
>のこちらのコメントでして、

エレンの日記で一番印象に残った台詞は悪魔の「彼女は正直に生きた。君は正直になれなかった、それだけだよ。」です。(中略)ヴィオラの嘘も愚かだったかもしれませんが「傷つきたくない、最後まで優しい自分でありたい」と言う気持ちも理解できました。 ただヴィオラを裏切ったエレンは間違ってはないけど悪いんじゃないかな?という気持ちもあります。逆にヴィオラは全く悪くはないけど間違ってしまったのではないかなと思う気持ちもあります。

出典:Yahoo!知恵袋

間違っていないけど悪い、悪くないけど間違っていた、ということって本当に細かいレベルでは日常のあらゆるシーンで起こりうることで……。それを「(エレンに対して)そもそも悪魔に魂に売って魔女になるなんて」とか「(ヴィオラに対して)偽善者ぶるから痛い目に遭うんだ」とか「結局持たざるものはどこまでいっても何も手に入れることはできない」と自身から切り離して考えるのではなく、エレンにもヴィオラにも共感できるところがあるからこそ、救いようのない物語だったな、って彼女たちを心に引き寄せて「痛む」ことがこの話の救済なんじゃないかと思うのです。

これは以前に過去note記事でも引用したとおり

子どもには「かわいい」だけではなく、どこかで「かなしい」や「こわい」や「いたい」が必要なのだ。

松岡正剛の千夜千冊 1748夜より

とはやはり素晴らしい指摘でして、「こわい」も「いたい」も、やっぱり大人にとっても、どうしても必要なエッセンスなのだと思います。大人であるがゆえに、そういうところから自分を遠ざけようと思えばいくらでも遠ざけられるからこそ、余計に。私たちは積極的に、もっと痛くなる必要がある。

〜〜〜

「人から嫌われることが怖くなくなったら、怖い人になりますよ」とは、「大豆田とわ子と三人の元夫」の佐藤鹿太郎の台詞です。ポストモダンにおける自我は、モダニスト的感覚に似て主観性を奪い去られてしまった(『日本人の「男らしさ」』)らしい。
それでも、いや、だとすればむしろ、主観性のない人生において、果たして私たちは生きる喜びを見出せるだろうか?

痛みは、いずれ落ち着くだろう。
痛みを感じていた時とは、異なる深みをもって。
読む前に恐れを抱いていた本が、まるでお守りのように愛おしく感じられることが、ここ最近は本当によくあって。

そう、呪いと祈りは、とてもよく似ている。

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