見出し画像

幸い(さきはひ) 第五章 ②

第五章 第二話

「これは桐秋様のためにいただいたものなので、私は結構です」

 そう言って千鶴は固辞するが、桐秋は

「私には甘すぎてこの一杯で十分だ」

 と告げる。

 千鶴は逡巡する様子を見せながらも、好奇心には勝てなかったのか、台所に下がり、同じものを持ってくる。

 千鶴は未知なる液体を前に居住まいを正し、熱い茶を飲むかのように右手を器の横に添える。

 初めてのものにどきどきする気持ちを抑え、グラスを正面から見据える。

 意を決し、そろりと口に含むと

「おいしい」

 とはじける笑みを浮かべた。そんな千鶴に、桐秋は少しからかうように尋ねる。

「初恋の味はしたか」

 千鶴は問われた後、目を一度ぱちくりとさせ、もう一度それを口に含む。

 よく味わうようにしてごくりと飲み込み、ひと息置いた後、ぽつり、ぽつり答える。

「桐秋様がおっしゃったように、とても、甘い味がいたします。

 ですが、その中に少しの酸っぱさも感じます。

 これが初恋の味、というならば、そうかもしれません。

 私の初恋も、素敵な甘い思い出の中に、少しだけ、気恥ずかしい、甘酸っぱいような思い出がありましたから」

 千鶴は昔の思い出に浸っているのか、長いまつげに影を作りながら、グラスの氷を指で回す。

 千鶴にしては珍しい、少し行儀の悪い行い。

 けれどそれは、一瞬垣間見えた千鶴の“素”の姿。

 思いもしなかった千鶴の初恋の話に、桐秋は短く

「そうか」

 とだけ返す。

 桐秋は少し胸がつかえる想いがした。千鶴の初恋の話を聞いたからだろうか。

 想いを流し込むように、桐秋は残り一口分の白い液体を喉に通す。

 が、それは原液が混ざり切らず、底に残っていたものだったのか、甘く、重く、喉に残る。

 先ほど感じたすっきりとした甘さとは違い、とても甘苦く不快なもの。

 今の桐秋の心のように思えて、少しのいらつきを感じる。

 どうにもならないモヤモヤを少しでも解消するため、桐秋は最後に残ったどこまでも澄んだ氷片を、歯で強引にかみ砕いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?